テキスト主体

懐中電灯と双眼鏡と写真機を
テキスト主体で語ろうとする
(当然、その他についても、語ったりする)

三面鏡

2013-01-18 22:38:25 | 脱線して底抜け
昔、結構な確率で、三面鏡というものが家庭にありました。
三面鏡のドレッサー(鏡台)は花嫁道具の三種の神器のひとつであったのかもしれませんが、正面の鏡と左右の袖鏡の大きさが同じ本三面鏡は、三角柱を構成するように半開きすることができ、少し開いてそこに首をつっこむと、見世物の鏡屋敷のように、自分が鏡の中に無限に反射して映り、どこまで、何十人目のむこうまで見えるか、よく遊んでいたものでした。
当然、裏面鏡なので、反射する映像にはガラスの厚み分だけ、ガラスの色がのり、ずっとむこうの自分の姿は、ガラスの緑色に染まって滲み、不思議な感覚だったのをよく憶えています。
その空間の中では、狭いのに無限の奥行きがあり、鏡の角度と顔の角度を微妙に調整し、目の位置をいろいろずらしてみると、あり得ないような輪郭のジブンが並んだりして、飽きることなく眺めていました。
当時は年端もいかないコドモだったので思いつきませんでしたが、フラッシュライトや、あるいは双眼鏡・単眼鏡を持ち込んだらずっと遠くの自分が見えるのでしょうか、興味が尽きないところではあります。
現在では、遊園地などのミラーハウスも結構好きだったりするのですが、自分以外の入場者が居る場合が多いので、面白さはかなり損なわれてしまいます。ナゼかというと、鏡の中の自分と向き合う、それも無限の向こうまで連なる、並行世界の自分の姿を追うというのは内省的な行為で、他人が居ることにより没入できないからだと思います。決して妙な表情で肩越しの自分の後ろ姿を合わせ鏡の反射で追うようにくるくるまわったり、あるいは双眼鏡を覗いたりする変な人物像を開陳するのが恥ずかしいからではありません。

鏡と双眼鏡と云えば、全く関係ない話ですが、車のサイドミラーに映る後続車の運転手の顔を確認しようとして、双眼鏡で覗いても、凸面鏡であるせいか、ピントが合いません。肉眼で見たり、眼鏡越しで見れば、合焦するのに、双眼鏡が使いにくいなんて面映ゆいことなのです。