アリストテレスはポリス(古代ギリシアの都市国家)的な動物と云い、現代では社会的動物と云われていますが、ちょっと考えれば分かるように、記事タイトルの設問の行方は、社会的動物でなくなってしまうということ。そして社会を崩壊させかねない因子になることもあるでしょう。
元々ヒト含め多くの生物は、遺伝子の乗り物で、遺伝子そのものは、自分の複製を残すこと以外は何の動機付けもされていない符号のようなものです。生命の危機、飢餓、孤立など、繁殖に成功しがたい環境に対して、遺伝子はその機能を発揮し、競争し、戦い、勝ち取ろうとします。例え高度に知性化された生物であっても、その影響から逃れ出ることは困難です。純粋思惟にまで達することが可能なら、遺伝子の影響から遠ざかることはできるかも知れませんが、その生物が安穏とした環境に置かれ、生存と繁殖と個体の肉体、精神状態が良好であることが続くなら、遺伝子には何もすることがなく、その状態にとどまろうとするのみです。
かなり強引なたとえ話から始まりましたが、現代の高福祉社会のことです。
よく云われるのがセーフティネットという考え方。例え、どのように闊達に活動し、生産し、利益を挙げている人でも、何らかのきっかけで挫折し、失敗し、敗北し、傷つき、病むこともあるでしょう。老いてもきます。そのような人に福祉という観点で、行政が手をさしのべるのは、全くアリだと思います、というか、原始時代でも、そのようなしくみはありました。
問題なのは、福祉の庇護下で係累を積み重ねるとか、福祉を受けるために、家族構成や住まいやその他に偽り、嘘や、実態と違う建前を用い、また、福祉庇護を吸い上げられるために、囲い込まれてしまう。そんな、セーフティネットという概念とは全く異なる動機で、徒に浪費しながら過ごす、そんな行為です。
国会など見てて嘲ってしまうのは、健康で文化的な最低限度の生活を営むのは国民の権利だから、生活保護は、外国人にも必要であり、全く経済発展に寄与しないこれらの費用は、優先的に予算が割り当てられるべきである。究極的にはそのように主張している国会議員さんがいることです。
健康で文化的な最低限度の生活を営む・・というのは、森戸辰男という日本社会党の礎みたいな人が草案に関与したということですが、”文化的”の拡大解釈が年々増進する中で、”健康”という言葉が、過剰な医療費負担の機構を構築し、”最低限度”の意味合いは薄れつつあるばかりのような印象があります。
日本国憲法は国民の三大義務(納税、勤労、教育)を謳っています。その義務を果たし、権利を享受するために、社会に属して生活する。安心してそれらの行為に邁進するためにこそ、福祉はあるべきであって、お金を貰ったり、養ってもらったりする偽物の権利を声高に振りかざす、憐れむべき生き物たちのためではありません。
元々ヒト含め多くの生物は、遺伝子の乗り物で、遺伝子そのものは、自分の複製を残すこと以外は何の動機付けもされていない符号のようなものです。生命の危機、飢餓、孤立など、繁殖に成功しがたい環境に対して、遺伝子はその機能を発揮し、競争し、戦い、勝ち取ろうとします。例え高度に知性化された生物であっても、その影響から逃れ出ることは困難です。純粋思惟にまで達することが可能なら、遺伝子の影響から遠ざかることはできるかも知れませんが、その生物が安穏とした環境に置かれ、生存と繁殖と個体の肉体、精神状態が良好であることが続くなら、遺伝子には何もすることがなく、その状態にとどまろうとするのみです。
かなり強引なたとえ話から始まりましたが、現代の高福祉社会のことです。
よく云われるのがセーフティネットという考え方。例え、どのように闊達に活動し、生産し、利益を挙げている人でも、何らかのきっかけで挫折し、失敗し、敗北し、傷つき、病むこともあるでしょう。老いてもきます。そのような人に福祉という観点で、行政が手をさしのべるのは、全くアリだと思います、というか、原始時代でも、そのようなしくみはありました。
問題なのは、福祉の庇護下で係累を積み重ねるとか、福祉を受けるために、家族構成や住まいやその他に偽り、嘘や、実態と違う建前を用い、また、福祉庇護を吸い上げられるために、囲い込まれてしまう。そんな、セーフティネットという概念とは全く異なる動機で、徒に浪費しながら過ごす、そんな行為です。
国会など見てて嘲ってしまうのは、健康で文化的な最低限度の生活を営むのは国民の権利だから、生活保護は、外国人にも必要であり、全く経済発展に寄与しないこれらの費用は、優先的に予算が割り当てられるべきである。究極的にはそのように主張している国会議員さんがいることです。
健康で文化的な最低限度の生活を営む・・というのは、森戸辰男という日本社会党の礎みたいな人が草案に関与したということですが、”文化的”の拡大解釈が年々増進する中で、”健康”という言葉が、過剰な医療費負担の機構を構築し、”最低限度”の意味合いは薄れつつあるばかりのような印象があります。
日本国憲法は国民の三大義務(納税、勤労、教育)を謳っています。その義務を果たし、権利を享受するために、社会に属して生活する。安心してそれらの行為に邁進するためにこそ、福祉はあるべきであって、お金を貰ったり、養ってもらったりする偽物の権利を声高に振りかざす、憐れむべき生き物たちのためではありません。