昨日、国指定重要文化財の「旧花野井家住宅」に行って来ました。建築は17世紀後半と推定。
花野井家は、中世の前ヶ崎城跡に接した高台に屋敷を構え、元来はこの城に属した地侍層の出身と思われます。
入口付近
薬医門。この門は江戸時代末期のもので、もと上原家の門として使用されていましたが、母屋の改築にあたり野田市に寄贈されたものです。
江戸の名工左甚五郎一夜造りの門と伝えられています。
花野井家はもと花野井四郎氏の住宅で、流山市前ヶ崎に所在していましたが、昭和46年に野田市が寄贈を受け、野田市清水に移築したものです。近世に入っては幕府直轄の牧であった小金牧で、牧を管理する牧士(もくし)を世襲した家柄です。
茅葺屋根。20年に1回、葺き替えを行うそうです。葺き替えには1,600万円位かかり、費用は国が1/2、県と市がそれぞれ1/4を負担して葺き替えたとのこと。
茅は霞ケ浦湖畔の苅場から調達し、つくば市の職人によって葺かれたそうです。
移築前は間口10間半、奥行5間半の大きさでしたが、移築を期に建造当初の形式である間口8間、奥行5間の規模に復元されたそうです。
広間の囲炉裏。座敷にはあがれなかったのが残念です。
広間の小屋組み。梁が太く、曲がっているので、当時(約350年前?)の大工さんは凄い技術を持っていた事がわかります。
4畳、10畳、6畳の和室の続き間です。昔は板の間だったと思います。
天井は竹が使用されています。
土間(三和土)からみた広間。20畳位はあるようです。
1日に2回ほど茅葺屋根を燻蒸するため薪を燃やして煙を出しています。
直径1m以上ある臼。餅を搗く臼ではなく雑穀をすり潰すのに使用したようです。杵も大変重い物です。
花野井家は、中世の前ヶ崎城跡に接した高台に屋敷を構え、元来はこの城に属した地侍層の出身と思われます。
入口付近
薬医門。この門は江戸時代末期のもので、もと上原家の門として使用されていましたが、母屋の改築にあたり野田市に寄贈されたものです。
江戸の名工左甚五郎一夜造りの門と伝えられています。
花野井家はもと花野井四郎氏の住宅で、流山市前ヶ崎に所在していましたが、昭和46年に野田市が寄贈を受け、野田市清水に移築したものです。近世に入っては幕府直轄の牧であった小金牧で、牧を管理する牧士(もくし)を世襲した家柄です。
茅葺屋根。20年に1回、葺き替えを行うそうです。葺き替えには1,600万円位かかり、費用は国が1/2、県と市がそれぞれ1/4を負担して葺き替えたとのこと。
茅は霞ケ浦湖畔の苅場から調達し、つくば市の職人によって葺かれたそうです。
移築前は間口10間半、奥行5間半の大きさでしたが、移築を期に建造当初の形式である間口8間、奥行5間の規模に復元されたそうです。
広間の囲炉裏。座敷にはあがれなかったのが残念です。
広間の小屋組み。梁が太く、曲がっているので、当時(約350年前?)の大工さんは凄い技術を持っていた事がわかります。
4畳、10畳、6畳の和室の続き間です。昔は板の間だったと思います。
天井は竹が使用されています。
土間(三和土)からみた広間。20畳位はあるようです。
1日に2回ほど茅葺屋根を燻蒸するため薪を燃やして煙を出しています。
直径1m以上ある臼。餅を搗く臼ではなく雑穀をすり潰すのに使用したようです。杵も大変重い物です。
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