ジョンソン首相の曾祖父はトルコ人
その母親はカフカスの女奴隷だった!
▲ボリス・ジョンソン首相
新型コロナウイルス感染から回復したイギリスのジョンソン首相(55)ですが、その婚約者であるキャリー・サイモンズさん(32)が4月29日、ロンドンの病院で男児を出産しました。婚約者のキャリーさんと結婚すれば、ジョンソン氏は3度目の結婚となります。
そして子供の数が気になるところですが、2人目の妻との間に4人の子供が。この女性とは2018年9月から離婚手続きが進められていましたが、今年初めに正式に離婚が成立するまでに、別の女性との間にも一子をもうけたというから、合計6人の子供の父親となったわけです。
いずれにしても、ジョンソン首相には面白い話題に事欠きません。その一つが、曾祖父がトルコ人だったという話です。それだけでは驚きませんが、なんと曾祖父の産みの母が、カフカス地方から売られた女奴隷だったというではないですか。こんな話に興味を持った私は昨年、季刊雑誌『経綸』秋季号に一文を寄せました。それを本ブログに再掲載しましたので、ご笑覧ください。(本ブログ編集人・山本徳造)
ジョンソン英国首相の先祖に女奴隷が
山本徳造(ジャーナリスト)
いま最も注目されているイギリス人といえば、ボリス・ジョンソン首相であろう。二〇〇一年に下院議員に当選して二期務めたが、七年後の二〇〇八年にロンドン市長選に出馬する。そのときの世間の評はあまり芳しいものではなかった。なにしろ英国は階級国家である。名門イートン校の出身で、オックスフォード大学で学んだボリスは、超エリートだと言える。庶民からすれば、「ふんっ、世間知らずのお坊ちゃまか」という受け止め方だった。
それでは選挙では不利に働く。そこでジョンソンは世評を打ち消しにかかった。「私はエリートなんかじゃない」と反論し、さらに衝撃的な言葉を付け加えた。「元をたどれば、トルコ人の先祖が買ったチェルケス人の奴隷の子孫だ」
一九六四年生まれのボリス・ジョンソンの先祖をたどると、じつに興味深い。ロシアから逃れてきたユダヤ人もいるし、ドイツ、フランス、スイス、リトアニアの血も入っている。これだけでもすごいのに、トルコ人が先祖で、しかも奴隷の子孫だったというではないか。
ボリスの曽祖父はアリ・ケマルという、イスタンブール生まれのトルコ人である。イスタンブールの豪商の家に生まれ、伝統的なイスラム教育を受けたアリ・ケマルだが、フランスに渡ってジャーナリストになる。そして一九〇三年、スイスで知り合ったイギリス・スイスの混血女性、ウィニフレッド・ブルンと結婚し、三年後に長女セルマを授かった。
一家は一九〇八年、イスタンブール郊外に移り住み、翌年にウィルフレッドが生まれたが、出産直後に母親のウィニフレッドが亡くなる。義母がウィルフレッドと姉のセルマをイギリスで育てることにした。アリ・ケマルはトルコで再婚し、オスマン帝国の内務大臣となり、ケマル・アタテュルクら愛国者グループを取り締まりに当たる。しかし、オスマン帝国が崩壊した直後、興奮した群衆に取り囲まれ、惨殺されてしまう。
そんな波乱万丈の人生を歩んだアリ・ケマルを産んだのが、奴隷だったというチェルケス人である。奴隷と言っても、アフリカから連れてこられたアメリカの黒人奴隷を想像しないでもらいたい。イスラム法では、女奴隷が結婚するか認知されれば、奴隷という身分から解放される。それどころか、イスラム世界では、奴隷に自分たちの子供の教育を任せることも珍しくはなかった。
奴隷が建国した王朝もある。十三世紀から十六世紀にカイロを中心にエジプトからシリアまで支配していたスン二派のマルムーク朝だ。カイロに都を置き、この王朝こそ、奴隷が建国した王朝だった。マムルークとは「アラブの白人奴隷兵」を意味する。このマムルーク朝を運営していたのが、チェルケス人の軍事奴隷だった。
では、チェルケス人とはどういう人々なのか。チェルケス人は、カフカス地方南部に暮らしていた遊牧民族である。勇敢果敢な民族だったので、軍事奴隷として重宝された。チェルケスの女はこまめに働くこともさることながら、美しいことでも評判を呼ぶ。金髪碧眼が多いのもチェルケスの女奴隷の特徴だ。こうしたことから、お金持ちの間で「性奴隷」として好まれたのである。オスマン帝国の全盛期でも、スルタンは金髪碧眼の女奴隷を好んだ。
十六世紀にスレイマン一世に取り入って妻となり、オスマン帝国の政治に深く介入したヒュッレムはチェルケス人ではない。ロシア南部のウクライナ・ルテニア地方を襲ったクリミア・タタール人に捉えられ、イスタンブールに奴隷として売られた金髪碧眼のスラブ人である。アレクサンドル・アナスタシア・リソフスカが本名で、ロシアの女を意味する「ロクセラーナ」の通称でも呼ばれた。「奴隷から皇后へ」という夢物語を現実のものとしたのもイスラム世界ならではの出来事である。
さて、十九世紀初めから一〇〇年の間に、オスマン帝国には約五〇万人の奴隷が流れ込む。そのほとんどがチェルケス人だったと推測される。美貌を誇るチェルケスの女奴隷はお金持ちや有力政治家に「側室」として引き取られた。豪商だったアリ・ケマルの父親も女奴隷を買い取ったひとりである。幸運なことに彼女は妻として迎えられ、奴隷の身分から解放されたというわけだ。
ところで、ロシア人のチェルケス人弾圧に触れないわけにはいかない。一世紀もの間、ロシア人はチェルケス人を追放するために虐殺を繰り返す。二〇一四年にロシアのソチで冬季オリンピックが開催されたが、そのメイン会場になった「赤い谷」と呼ばれる場所でも悲劇が起きた。ロシア皇帝アレクサンドル二世が一八六四年、ソチに住むチェルケス人の追放令を発し、九割近くの住民がオスマン帝国に逃げようとしたのだが、無事にオスマン帝国にたどり着いたのは、そのうちの半分に満たなかったという。
ちなみに、トルコには現在、チェルケス系住民が三〇〇万人とも五〇〇万人とも言われている。ヨルダンに約一五万人が、そしてシリアには約一〇万人のチェルケス人が住む。故郷から離散したチェルケス人の末裔がイギリス首相になった。このことを思うと、歴史の面白さを感じざるを得ない。