【連載】頑張れ!ニッポン⑦
半導体需要を牽引するIT市場
釜原紘一(日本電子デバイス産業協会監事)
世界市場で影薄い日本製パソコンとスマホ
今は情報化時代だと言われており、IT産業が経済の成長を支えている。ITとはInformation Technology の頭文字で直訳すれば情報技術だ。我々が目にするIT技術によるものとしてはパソコンと携帯電話(あるいはスマホ)が代表的なものである。ところが半導体需要を牽引しているこれらの分野に於いて、残念ながら日本メーカーは世界市場での存在感が薄い。
日本の半導体が低迷した原因の一つに、この半導体需要を牽引しているパソコンやスマホの日本メーカーの生産が大きく伸びなかった事もあると言える。
パソコン市場ではNEC、富士通、ソニー(VAIO)、パナソニックなどが有力な日本メーカーだが、これらのメーカーの世界市場でのシェアは決して高くない。
世界市場でのメーカー別シェアは、どうなっているのか。最新の調査会社の報告によると、1位がレノボ(中国)、2位がHP(米国)、3位がデル(米国)、4位がアップル(米国)となっている。これらのメーカだけで世界市場の70%強を占めているのだ。このあとに台湾勢(エイサー、ASUSなど)が続いており、日本メーカーの影は薄い。
ちなみに、1位のレノボは、米国IBMのパソコン部門を吸収して世界1の地位を得ている。日本のパソコン市場を振り返ると、1980年代にNECの9800シリーズが圧倒的人気を博し、富士通のFMV、シャープのX1なども健闘した。
日本語に対応したIBMの基本ソフトが日本上陸
1990年代に入ると、IBMが日本語対応のパソコンの基本ソフト「DOS/V」を発表し、海外メーカー製のパソコンが日本市場で競争力を持つようになった。それまで日本のパソコンは、メーカーごとに異なる仕様(PC-98など)を使用していたが、DOS/Vによって標準的なパソコンが日本語に対応するようになったのである。
これにより、海外メーカー(IBM、コンパックなど)の製が日本市場に参入し、低価格化が進む。その結果、日本勢は劣勢に立たされることになった。それ以来、日本のパソコンメーカーは国内市場を守るのがやっとで、世界市場に打って出る余裕は無かったのではないだろうか。
東芝のノートパソコン(ダイナブック)は米国市場で善戦したが、今は撤退している。人口1億2000万の日本は、比較的大きなマーケットであり、国内市場だけでも一定の収益は得られる。
そのためか、世界市場を相手にする姿勢が弱いように感じられる。それに引き換え、韓国や台湾は自国の市場が大きくないので、初めから世界市場を見据えた戦略を取ったのである。
これはパソコンに限らず、殆ど全ての商品について言えるだろう。さらに言えば、製造分野だけでなくアニメ、ドラマ、Kポップなどのカルチャー分野でも世界を見すえた展開をしているのかもしれない。
携帯電話の普及が遅れた日本
さて、半導体需要のもう一つの牽引役が携帯電話である。世界市場への展開に関しては、パソコンと同じような消極さを感じるのは私だけではあるまい。
振り返って見ると、NTTの民営化以前は、我々は電電公社から電話債券を購入し、電話機を貸してもらっていた。民営化以降はみんな自由なデザインの多機能な受話器を購入できるようになったのである。
1984年にNTTドコモがNTTから分離独立する。これによって、携帯電話への道を拓く。1993年に第二世代の携帯電話サービスを導入し、日本での携帯電話市場が急速に立ち上がったと言われている。そして、1994年になると、KDDIやソフトバンクが新たに参入し携帯電話市場がさらに活性化したのだ。
ところで、日本における携帯電話の普及が海外に比べ遅れているのでないかと感じたことがある。日本で携帯電話がまだ珍しかった時のことだ。香港出張から帰った先輩が、「向こうでは携帯電話を使っている人を街中で沢山見かけたよ」 と教えてくれた。
1995年当時は、会社から携帯電話を貸与されていた。それも課長以上の管理職限定だった思う。貸与された代物はロゴロして重く、背広の内ポケットに入れたら胸のあたりが膨らんで具合が悪かった記憶がある。
余談はさておき、当時、家電メーカー各社から携帯電話端末(携帯電話機)が発売され、多くの機種が市場に溢れていた。しかし、通信方式の違いもあり国内向け製品をそのまま海外向けに回せなかったのである。そんなわけで、海外への進出は消極的だったように思う。
スマホの登場でさらに日本が劣勢に
中国は大きな市場だから当然狙うべき市場だろうが、当時講演で聞いた中国に詳しい講師の話では、上海の店頭では日本製品は売り場の隅に置かれていて誰の目も引かない状況だとの事だった。デザインが地味で現地では好まれない、中国人の好みに合う製品にすべきだと訴えていた。日本のメーカーは国内市場重視だったのか、国内向けを若干手直しする程度で中国に出荷していたようだ。
国内市場だけでも食って行けるという事だろうか。そしていつの間にか海外とは異なる独自の道を歩み続け、とうとうガラパゴス化したと言われるようになったのだろう。
スマホの登場で、日本の劣勢はさらに進む。2007年1月にアップルから最初のスマホ iPhone(アイフォン)が発売され、翌2008年7月に日本市場にも投入された。当時、「スマホのような製品はソニーが考えるべきだった」と言う証券アナリストもいた。
▲スマホ
▲ソニーのウォークマン
ソニーは嘗てウォークマンを世に出し、新しい市場を切り拓いた実績がある。今は多くの若者がデジタル技術で半導体メモリに録音した音楽や、ストリーミング配信による音楽をイヤホンで聴きながら街を歩き、ジョギングをしている。
電車の中でも若者はイヤホンを耳にして音楽を楽しんでいる。このような文化を産んだ元祖は、ソニーのウォークマンだと私は信じている。
▲ロボット掃除機「ルンバ」
最近は日本発の新しい商品や新たな市場を開拓したという話をあまり聞かない。寂しい限りである。例えば、ロボット掃除機の「ルンバ」などは日本のメーカーから生まれても良かった。
ところが、「ルンバ」はマサチューセッツ工科大学の研究者が開発したのである。成熟製品だと思われた掃除機に、新たな需要を産むことになったのは言うまでもない。この発想は、日本の技術者も見習うべきだ。とにかく日本生まれで世界中に広まる新しい製品が生まれて欲しい。それが「半導体挽回のひとつの鍵になる」のではないだろうか。
【釜原紘一(かまはら こういち)さんのプロフィール】
昭和15(1940)年12月、高知県室戸市に生まれる。父親の仕事の関係で幼少期に福岡(博多)、東京(世田谷上馬)、埼玉(浦和)、新京(旧満洲国の首都、現在の中国吉林省・長春)などを転々とし、昭和19(1944)年に帰国、室戸市で終戦を迎える。小学2年の時に上京し、少年期から大学卒業までを東京で過ごす。昭和39(1964)年3月、早稲田大学理工学部応用物理学科を卒業。同年4月、三菱電機(株)に入社後、兵庫県伊丹市の半導体工場に配属され、電力用半導体の開発・設計・製造に携わる。昭和57(1982)年3月、福岡市に電力半導体工場が移転したことで福岡へ。昭和60(1985)年10月、電力半導体製造課長を最後に本社に移り、半導体マーケティング部長として半導体全般のグローバルな調査・分析に従事。同時に業界活動にも携わり、EIAJ(社団法人日本電子機械工業会)の調査統計委員長、中国半導体調査団団長、WSTS(世界半導体市場統計)日本協議会会長などを務めた。平成13(2001)年3月に定年退職後、社団法人日本半導体ベンチャー協会常務理事・事務局長に就任。平成25(2013)年10月、同協会が発展的解消となり、(一社)日本電子デバイス産業協会が発足すると同時に監事を拝命し今日に至る。白井市では白井稲門会副会長、白井シニアライオンズクラブ会長などを務めた。本ブログには、平成6年5月23日~8月31日まで「【連載】半導体一筋60年」(平成6年5月23日~8月31日)を15回にわたって執筆し好評を博す。趣味は、音楽鑑賞(クラシックから演歌まで)、旅行(国内、海外)。好きな食べ物は、麺類(蕎麦、ラーメン、うどん、そうめん、パスタなど長いもの全般)とカツオのたたき(但しスーパーで売っているものは食べない)