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【連載】赤い巡礼 チベット・ファイル② スターリンと中国共産党の野望

2022-02-18 05:00:22 | 赤い巡礼 チベット・ファイル

【連載】赤い巡礼 チベット・ファイル②

竹内正右

 

■スターリンと中国共産党の野望

▲東方を狙ったスターリン

▲チベット地図(アムドを含む)

 

「東方を忘れるな」

 1917年2月、帝政ロシアのロマノフ王朝が崩壊した。同年10月にはソビエト・ボリシェビキ政権が樹立される。そして、間髪を置かず、このソビエト政権下で「東トルキスタン工作」が展開されていく。
 1917年12月2日、モスレム民族人民委員会が創設される。1918年5月、スターリンはボルガ地区の会議で、こう述べた。
「東トルキスタンは特別な地理的位置(東)にある。モスクワにとり極めて重要。革命の橋頭堡の役割を果たす。モスレムはソ連が東方に拡大するための主な目標である」
 同年11月、東部人民共産組織中央局が創設される。

 1918年11月24日に発表されたスターリンの原稿「東方を忘れるな」は、こう宣言している。
「東は一瞬たりとも忘れるべきでない。彼の地は肥沃で、世界の帝国主義者どもも狙っている。ソビエトの東への二大目標は、インド、そして中国だ」
 1919年3月、党中央委員会によってコミンテルン(国際共産主義運動)が創設された。
 1918年から1920年にかけ、東トルキスタン(新彊)制圧の成功で、「インドの革命・解放運動への直接支援を」と、ソ連はアジアでの最終目標を公に宣言する。
 こうして1920年に入り、ソビエト政権の内陸アジアへの戦いは拡大する一方になり、チべット・カードは、再び英露のグレートゲームのトランプになった。

チチェリン外相のチべット・モンゴル戦略
 

▲ソ連のチチェリン外相はコミンテルン創設メンバー

 

 ロシアの極東イルクーツク。1920年、ここに「モンゴル・チべット支部東洋人局」が創設された。コミンテルン創設メンバーであるチチェリン外相は、ソビエト政権のチべット戦略の要である。イルクーツクの下部には、国境を挟んでモンゴルが大きく位置する。
 モンゴル・チべット支部をイルクーツクに置いたのも、チべット工作でモンゴルを「革命の狼煙の基地」化とするためだ。中央アジアの革命推進の橋頭堡とする戦略である。
 この戦略の下、モンゴルの各組織にコミンテルンが浸透していく。1927年には、コミンテルン・モンゴル支部が創設された。
 代表はアマガーエフ。モンゴルの都ウルガ(ウランバートル)に「赤いモンゴル(Red Mongol)」司令部が貌を見せる。ソ連秘密警察(チェーカー)も民間人を装い浸透した。
 赤軍はモンゴル人民軍を創設、ウルガに司令部を置く。また、ウズベキスタンのタシケントに中央アジア軍事区を置き、総司令部を創設している。
「チべット、アムド(現・青海省)のボリシェビキ化」を主目標とするチチェリン外相にとって、東トルキスタンの西部国境はチべットへの入り口でもあり、ボリシェビキのエージェントの浸透路でもあった。
 こうして、赤軍、コミンテルンのモンゴル人チべット投入戦術が展開されていく。ロシア内のブリヤート人、カルムイク人、そして外モンゴルのオイラート・タタール人たちがそれだ。帝政ロシア時代にブリヤート・コネクション、カルムイク・コネクションが利用されたが、その再現である。

秘密警察による恐怖支配

▲悪名高いゼルジンスキー

 

 チェーカー(秘密警察)の初代長官、フェリックス・ゼルジンスキーは、「ラサ巡礼」を装う一団の後援者でもあった。チェーカーは、反革命の取り締まりや投獄の非常委員会であり、グラーグ(強制収容所)の経営者でもある。
 ソ連内務省(MVD)の統制するこのグラーグはソ連全土に配置され、スターリン体制を維持する機関の一つであった。反革命罪の政治犯を強制労働、処刑する場でもある。

 ゼルジンスキ―の訓示が残っている。「我々はプロレタリア独裁の組織化された恐怖であらねばならぬ」と。

 

▲過酷な強制労働が待つグラーグ(強制収容所)

▲ソ連にあったグラーグ全図(マガダン・イルクーツク含む)

 

 ゼルジンスキ―はさらに、このグラーグを利用した「金」採掘でスターリンに貢献している。極東シベリアのマガダン収容所はその典型だった。囚人のほとんどは第2次大戦でナチス・ドイツの捕虜となったロシア兵たちである。
 彼らは終戦後に釈放されるも、行く先は故郷でなかった。マガダンに投入されたのである。彼らの手で掘られた金は、こうして金を妄執するスターリンの下へ運ばれた。

▲ロシア革命45周年を祝うモンゴル人民共和国(「ライフ」誌 1962年12月31日号)

 

中国人民解放軍がチベットへ

 国共内戦が続いていた中国大陸でも大きな動きがあった。1949年、中国共産党が蒋介石の国民党に勝利したのである。毛沢東は10月1日、中華人民共和国の建国を天安門上から高らかに宣言した。
 中国大陸の新しい支配者となった中国共産党もチベットに興味津々だった。翌1950年、中国人民解放軍がチべット東部に侵攻する。

 中国のチベット全土支配の始まりだった。こうして人民解放軍兵士たちの手でチべットの村々の寺から、黄金の仏像が軍用車で中国本土へ運ばれていく。
 仏像はインゴットに化け、債務の返済用としてスターリンの待つモスクワへ。中国人に言わせれば、「チべットは金の成る木」なのだ。
 ゼルジンスキ―の貢献はこれだけに終わらない。
 1950年代初め、グラーグを営むMGBのロシア人顧問たちが中国に招かれる。中華人民共和国の初代公安相の羅瑞卿はソ連でグラーグのシステムを学び、1927年に中国版グラーグ「労改(労働改造所)」を創設した。
 ソ連と大きく違うのは、労改は「思想改造」の場でもあることだ。その労改のスローガンは「改革第一、生産第二」である。羅の部屋にはゼルジンスキ―の写真が掲げられていた。

《中国がチベットに「労改」設置》人民解放軍のチベット侵攻で、アムド地区は中国の青海省となった。1950年には早くも「労改」が造成される。そして中国本土からの囚人たちが労働力として投入された。2021年の今、この青海省全域が小麦を主とする食糧生産・備蓄基地化しつつある。また、チべット全土の寺々に職業訓練所が造られ始めた。僧侶を労働力化させ、仏教修行の場を意図的に消そうとしているのだ。ココノール湖の周辺は、核工場、ミサイル工場が並ぶ。2020年8月、ここから2発のミサイルが南シナ海に撃ちこまれた。

 

中国語の強制でモンゴル人、
ウイグル人を「社会主義民族」に

 中国政府は2020年、チべットと同様に内モンゴルのモンゴル人、新疆(東トルキスタン)のウイグル人に対し、「中国語が唯一の民族語であり、モンゴル語やウイグル語の使用を禁止する」と布告したのだ。
 このような状況がつくられた発端は、1954年から1957年にある。中国科学院と中国民族学院が、ソ連教育科学院の言語学者、G.P.セルジュチェンコを招聘し、民族文字の創作と標準語の設定に協力を求めたからである。
 セルジュチェンコは、こう語っていた。
「統一の文字と統一の標準語は民族を団結させ、諸民族を統一された社会主義民族に変える」と。(つづく)

 

 

【竹内正右さんの略歴】

フォト・ジャーナリスト。1945年、旧満州国吉林生まれ。早稲田大学では山岳部に所属。1970年に卒業後、ラオス、ベトナム、カンボジアの激動するインドシナを取材する。とくにラオスでは1973年から82年まで撮り続けた西側のフォト・ジャーナリストとして有名。1975年にビエンチャンが陥落するが、その歴史的瞬間に立ち会う。ベトナム軍のカンボジア侵攻を取材中の1979年、ポルポト軍に捕まる。その後、スリランカ暴動、フィリピンのアキノ暗殺とマルコス政権の崩壊、ビルマ・クーデター、天安門事件、チベットなどを取材。1989年からCIAに協力したラオスの少数民族、モン族を追ってアメリカへ。著書は『ラオスは戦場だった』(めこん)、『モンの悲劇』(毎日新聞社)、『ドキュメント・ベトナム戦争1975』(パルコ出版・共著)など。

 

 著作以外では、NHK・BSドキュメンタリー「ケネディの秘密部隊―ラオス・モンのパンパオ将軍」(1999年)、「ダライラマ亡命の21日間」(2009年)を制作・出演した。


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