白井健康元気村

千葉県白井市での健康教室をはじめ、旅行、グルメ、パークゴルフ、パーティーなどの情報や各種コラムを満載。

米韓のオコボレをもらう日本企業の情けなさ 【連載】半導体一筋60年⑭

2024-08-22 05:30:47 | 半導体一筋60年

【連載】半導体一筋60年⑭

米韓のオコボレをもらう日本企業の情けなさ

釜原紘一(日本電子デバイス産業協会監事)

 

▲AIのイメージ図(トライエッティングのHPより)

 

持続可能な投資が必要

 前回、ラピダスが多額の投資を継続するために、稼ぐ力を持つべきだと述べました。
いつまでも補助金頼みを続けると、世間の風当たりが強くなります。とは言え、今はそのような事を心配するよりも、優先的に取り組むべき課題に向き合っていると思います。
 ラピダスは2nm(ナノメータ)の製品開発を目指しており、2027年には量産を開始する計画であると伝えられています。2nmは現時点では紛れもなく世界最先端の技術になるでしょう。但し、競争相手が2027年まで何もせずにじっとしていればの話ですが……。
 さて日本の半導体メーカの存在感が薄くなった要因の一つはでしょうか。
 半導体市場のボリュームゾーンの一つであるDRAM市場を失ったことです。すでに述べたように、日本の半導体メーカーの中で一応存在感があるのは、ルネサス、キオクシア、ソニーセミコンダクタソリューションズ(以後ソニー)の3社と言えるでしょう。
 キオクシアはフラッシュメモリに特化して、高いシェアを確保しています。ソニーはイメージセンサーで高いシェアを保持、激しい競争に晒されながらも奮闘しています。この2社はサムスンと激しい競争をしながら何とかボリュームゾーンで勝負していた一方で、ルネサスはMCU(マイコン)を中心に自動車向けで一定のシェアを確保しつつ、M&A戦略を展開して戦える市場を開拓しているように思われました。
 しかし、ボリュームゾーンで勝負していると言えるかどうか、今のところは少しばかり疑問と言わざるを得ません。

「オコボレ頂戴」の日本企業

 ところで、半導体は数量の多い市場を確保することで成長してきた歴史があります。1960年代の国内市場では、電卓が半導体需要の大半を占めていた時期がありました。シャープとカシオを筆頭に主な家電メーカがこぞって電卓市場に参入し、激しい競争を繰り広げていたのです。
 その結果、電卓の小型化、価格低下が急速に進み、多くの消費者が買う事ができて急速な普及が進んだのでした。半導体メーカは電卓の様に数が多く出る市場が欲しいのです。半導体を大量に作ることにより製造技術も成熟し、歩留まりも安定しコストも下がっていきます。
 この様に生産数が上がるにつれコストや不良率が安定して下がって行く様子をグラフにすると、生産量を横軸にコストや不良率を縦軸にして描いたカーブは右下がりに下がって行きます。これをラーニングカーブ(習熟曲線)と呼んでいます。だから半導体メーカは数が多く見込まれる市場を追い求める事になるのです。
 電卓用ICに続いて半導体需要を牽引したのは時計用ICです。電卓ほどではありませんが、時計は数の出る市場であり、半導体の拡大に貢献しました。1970年代はカラーテレビ、ビデオ、CD等のAV機器への半導体需要が大いに伸びました。そして1980年代に入ると、半導体を牽引する市場がパソコンや携帯電話、ゲームなどへ移行しました。

 パソコンや携帯電話が世に出た頃は日本メーカも善戦していましたが、次第に世界市場で通用する製品展開ができなくなったのです。特に携帯電話は「ガラパゴス化」などと揶揄されるように国内市場向けに独自の製品展開した事により、世界市場では売れなくなって仕舞いました。
 パソコンも国内市場ではNECや富士通等の製品が店に並んでいるので、今でも日本メーカーが頑張っているように見えますが、実はNECも富士通も中国メーカーの「レノボ」の傘下に入っています。
 半導体は国籍がどこであれ大手メーカに売り込めばいいだけの事ですが、DRAMから撤退した日本企業にとっては、この分野で売れるものは補助的製品に限られています。パソコンの主役は先ず頭脳となるMPU(マイクロプロセッサー)であり、次いで主メモリとなるDRAMです。
 この内マイクロプロセッサはインテル、AMD、アップルなどの米国勢が押さえており、DRAMはサムスン、SKハイニクス等の韓国勢と米国のマイクロンなどが押さえています。最近は画像処理プロセッサの投入によりエヌビディアが大躍進しています。
 この様に日本メーカは米韓がおいしい所を取った後、オコボレを頂戴している状態ではないでしょうか。ちょっと自虐が過ぎたかもしれませんが…。

アプリケーション・マーケット

 半導体が使われる市場の事を「アプリケーション・マーケット」とか「エンドユーズ・マーケット」と呼んでいます。あるいは半導体が使われるのは電子機器ですが、それらは具体的に言えば、テレビやパソコンになります。
 このような電子機器の事を「セット」と呼んだりします。半導体業界ではこれらの呼び方をゴチャまぜに使っていますが、一般の人に向けて使うと、意味が通じないかも知れません。

 すっかり前置きが長くなりましたが、日本のアプリケーション・マーケットについては、少し心配なところがあります。2nm(ナノメータ)という最先端プロセスによる製品を開発しても、それをどこに使うのかという議論があります。
 ラピダスはカナダの次世代コンピューティングカンパニーである「テンストレント社」と最新鋭のデバイス開発に関して合意したと伝えられているので、期待しましょう。しかし、筆者のような昭和世代の老人の頭では数量の期待できるアプリケーション・マーケットがないと不安になります。
 国内にそのような企業はないのでしょうか。
 ひと昔前は日本のテレビやビデオが華やかなりし頃でした。当時の家電メーカは、一体どこへ行ったのか? シャープはどうした? 三洋はどこにいる? そう叫びたいところです。
 シャープは台湾の会社「鴻海」に買収されました。ブランドは残っていますが、台湾の企業となっています。三洋はパナソニックに吸収されましたが、その時「白物家電」(洗濯機、冷蔵庫等)は中国の「ハイアール」に譲渡しています。
 昭和の時代に海外出張で東南アジアや欧州の空港に降り立つと、どこでも「SANYO」の広告が目につき心強く思ったものでした。それがいつの間にか「SAMSUNG」とか「LG」に代わって仕舞いました。

▲サムスンのテキサス工場


 アプリケーション・マーケットの衰退と共に半導体の凋落が始まったとも言えるでしょう。だから半導体復活のカギの一つはアプリケーション・マーケットの活性化だと思います。今後の有望な半導体市場のひとつにAI市場があります。この分野で新しい企業がどんどん誕生する事を期待したいものです。「日本のアプリケーション・マーケットよ復活せよ!」と叫びたいところです。

 

【釜原紘一(かまはら こういち)さんのプロフィール】

昭和15(1940)年12月、高知県室戸市に生まれる。父親の仕事の関係で幼少期に福岡(博多)、東京(世田谷上馬)、埼玉(浦和)、新京(旧満洲国の首都、現在の中国吉林省・長春)などを転々とし、昭和19(1944)年に帰国、室戸市で終戦を迎える。小学2年の時に上京し、少年期から大学卒業までを東京で過ごす。昭和39(1964)年3月、早稲田大学理工学部応用物理学科を卒業。同年4月、三菱電機(株)に入社後、兵庫県伊丹市の半導体工場に配属され、電力用半導体の開発・設計・製造に携わる。昭和57(1982)年3月、福岡市に電力半導体工場が移転したことで福岡へ。昭和60(1985)年10月、電力半導体製造課長を最後に本社に移り、半導体マーケティング部長として半導体全般のグローバルな調査・分析に従事。同時に業界活動にも携わり、EIAJ(社団法人日本電子機械工業会)の調査統計委員長、中国半導体調査団団長、WSTS(世界半導体市場統計)日本協議会会長などを務めた。平成13(2001)年3月に定年退職後、社団法人日本半導体ベンチャー協会常務理事・事務局長に就任。平成25(2013)年10月、同協会が発展的解消となり、(一社)日本電子デバイス産業協会が発足すると同時に監事を拝命し今日に至る。白井市では白井稲門会副会長、白井シニアライオンズクラブ会長などを務めた。趣味は、音楽鑑賞(クラシックから演歌まで)、旅行(国内、海外)。好きな食べ物は、麺類(蕎麦、ラーメン、うどん、そうめん、パスタなど長いもの全般)とカツオのたたき(但しスーパーで売っているものは食べない)

この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 関東を襲った台風7号で順延... | トップ | 月に一度のフィッシュ・アン... »
最新の画像もっと見る

半導体一筋60年」カテゴリの最新記事