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ロイ・ジェームスを憶えていますか? 日本に亡命したタタール人親子の物語

2024-08-13 06:03:14 | 特別記事


ロイ・ジェームスを憶えていますか?

日本に亡命したタタール人親子の物語

 

山本徳造(本ブログ編集人)

 

両親はロシア革命から逃れて日本へ

 アイナン・サファは、中央アジア出身のカザン・タタール人である。タタール人といっても、モンゴル系ではない。ロシアのカザン地域に住むタタール人は回教徒で、トルコ系だ。1917年のロシア革命後、ボルシェビキによって、回教徒たちが激しい弾圧を受ける。各地で赤軍に抵抗する動きがあり、アイナンも赤軍と戦った。しかし、いかんせん無力である。厳しい弾圧に耐へ切れず、海外に脱出する回教徒が後を絶たなかった。
 満州に逃れたカザン・タタールの一部は、朝鮮を経由して日本にもやって来た。その数、約600人と言はれている。なぜ、日本を選んだのか。日露戦争でロシアを打ち負かした東洋の国に憧れてゐたからである。アイナンも、その一人だった。
 妻と一緒に日本に亡命したのは、大正15(昭和元年、1926)年のことである。昭和4(1929)年、二人は愛くるしい男の子、アブドル・メハンナンを授かった。一家は東京の下谷での暮らしを始める。アイナンは家族を養うため、洋服地の行商を始め、自宅でも洋服の仕立て屋を営んでいた。
 当時の日本人は、ソ連からやって来た人たちを総じて「白系ロシア人」と呼んだものである。もちろん、顔を見ても誰がカザン・タタール人なのか、純粋のロシア人なのか、まつたく見分けることができない。いずれにしても、下町で「白系ロシア人」は珍しく、さぞや目立ったことだろう。

東京・下谷のアイドルだった

 すくすくと育った色白のアブドルは、隣近所のおばさんたちのアイドルだった。彼女たちは競ってアブドルを銭湯、もちろん女湯に連れて行ったという。日本人社会に溶け込む一方で、在日タタール人たちの団結力もきわめて強かった。 国際都市の神戸をはじめ、日本各地で独自のコミュニティを着々と形成していく。
 まず手始めに、神戸で日本最初のモスクを建てた。昭和10年(1935)のことである。その3年後、東京で東京回教学院がタタール人によって設立された。
 さて、アブドルは戦後、地元の工業高校を卒業し、明治大学商学部に入学する。野球部に在籍するが、レギュラーではなかった。在学中の昭和28(1953)年、タレントのE・H・エリックの紹介で、 日劇ミュージックホールの舞台に立つ。キャバレーでも働く。
 当然、芸名が必要だった。しかし、「アブドル」では日本人受けしない。そこでアメリカ人のやうな名前をつけた。かうして「ロイ・ジェームス」が誕生したのである。
 一方、父親のアイナンは、戦後も洋服地の行商を続けていたが、一時期、柔道とボクシングの異種格闘技「柔拳」のボクサーだったことがある。そのときのリングネーム「ストレート・ロイ」からとったのだろう。

米兵役として映画デビュー

 昭和30年(1955)年、ロイは映画デビューを果たす。映画『浮雲』(成瀬巳喜男監督)に出演したのだ。米兵役である。金髪碧眼のロイだから、トルコ系のタタール人だとは誰も思はない。日本語の達者なアメリカ人だと誰もが信じ込んだ。
 こうして江戸つ子のやうなべらんめえ口調でしゃべる「変な外人」は、瞬く間に有名タレントの仲間入りを果たす。当時、日本のお茶の間で人気を集めていたE・H・エリックと並ぶ「外タレ」になったのだ。

▲米兵役で出演した「浮雲」

 

ユセフ・トルコもタタール人

 当時の日本ではプロレスリングが一番の人気スポーツだった。力道山が空手チョップで「悪役」のアメリカ人レスラーをバタバタと倒す。戦争でアメリカに負けた敗戦国の国民にとって、これほど痛快なことはなかった。だから、プロレス中継が始まると、みんなテレビの前にかじりついたものである。

▲ユセフ・トルコは俳優としても活躍

 

 そんな人気を誇ったプロレスだが、レフェリーにユセフ・トルコという男がいた。年配の人にとっては、懐かしい名前だろう。いかにもトルコ人らしい名前なので、その名はすぐに覚えられた。このユセフもロイと同じタタール人だった。
 ロイはテレビやラジオなどでの司会者としても大活躍する。コマーシャルにも引っ張りダコだった。今でこそ、ハーフや日本に住む外国人のタレントは、それこそ掃いて捨てるほどいるが、当時は西洋人のような顔をしたタレントはまだまだ珍しかったからである。

三島の小説『鏡子の家』のモデルと結婚

 さて、ロイの私生活も気になるだろう。すっかり日本人として根を下ろしたロイは、日本国籍も取得し、戸籍名を「六条祐道」にする。しかし、しばらくして姓を変えることになる。昭和30(1957)年、日本女性との結婚し、「湯浅」と改姓したのだ。
 相手は三島由紀夫の小説『鏡子の家』のモデルにもなった湯浅あつ子である。三島も彼女の「サロン」の常連だった。三島の妹、平岡美津子とあつ子の妹、板谷諒子が三輪田高等女学校で同級生だった縁で親しくしていたのだ。
 画家、杉山寧の長女、瑤子と三島を見合いさせ、結婚を取り持ったのもあつ子である。昭和33(1958)年、三島と瑤子の結婚式で司会を務めたのが、ロイ・ジェームズこと、アブドル・ハンナン・サファ、いや湯浅祐道だった。

多磨霊園の「回教徒墓地」に眠る

 昭和57(1982)年の春頃、順風満帆だったロイに病魔が襲う。芸能活動も休止せざるを得なかった。そして同年12月29日、喉頭がんと肺炎でロイはこの世に別れを告げた。
 ロイの墓所は、奇しくも三島由紀夫が眠る多磨霊園である。同霊園に外国人墓地があることも、その一角にロイ・ジェームスが眠る「回教徒墓地」があることも、ほとんどの日本人は知らない。ことに若い世代だと、ロイ・ジェームスといふ 「大物外タレ」が大活躍していたことすら知らないことだろう。
 ましてや、ロイの父親、アイナン・サファが日本に憧れて亡命し、戦後は東京回教寺院(現在の東京ジャーミイ)の5代目イマーム (導師)を務めたことを知る日本人は皆無に近い。

▲多磨霊園の墓碑

 

 あ、そうだ。最後に言っておきたい。ロシアの美人フィギュアアイススケート選手として日本でも人気のアリーナ・ザギトワもタタール系ロシア人である。今では競技から離れ、美貌を活かしてアイスショーの解説をしたり、テレビのレポーターとして忙しい日々を送っているという。

 

▲愛犬「マモル」と眩い美貌のザギトワ

 

(★この記事は雑誌『ゐしんぴあ』(2016年1月号)に掲載した拙文を加筆訂正し、新たに写真を加えましたものです)

 

 


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