【連載】小説・マルクスの不倫(中)
福岡県生まれ。団塊の世代。東京外大卒。産経新聞社を経てフリーランスのジャーナリスト。現在、ノンフィクションおよびフィクションの作家として執筆活動。国民新聞に3年以上連載したマルクス批判の評論「マルクス先生さようなら」の単行本化に向けて加筆補訂作業中。
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▲カール・マルクス
■登場人物■
▲左からエンゲルス、フレディ(不倫の息子)、エリナ(末娘)、ヘレーネ(不倫相手のメイド)、イェニー(妻)
【小説】
マルクスの不倫(中)
池田一貴
六 旋盤工
小池南冥(みなみ)は「東啓大学文学部准教授」という現在の立場に居心地の悪さを感じていた。准教授という肩書が不満なわけではない。順調にいけばあと五年以内には教授になれるだろう。
決まった恋人(というより婚約者)がいるが、彼女から結婚を催促されることもない。自立した女性だ。だから教授という地位や収入を焦る必要もない。彼女は画家で、基本的には実力で評価される世界にいるから、男の肩書などに頓着しないのである。
にもかかわらず、なんとなく、居心地が悪い。ひとつにはこの大学の文学部教授会の超保守的な体質に我慢ならないことがある。もはや一般社会では死語になっている「進歩的文化人」とか「社会主義者」とかいう印籠を腰にぶら下げている教授連がまだここには多数棲息しているのだ。進歩的ではなく超保守的なのに、それを自覚していない。ネットやバイトで社会の風に当たっている学生たちのほうが、よほどましである。
視界の隅に、この授業を見学(見物?)している他学科の老教授の姿が映ったので、つい雑念を生じた。
いや講義中だぞ、と自分を叱咤し、雑念停止。すると、この大教室のほぼ真ん中の席に、見慣れたベレー帽の女性がニコニコ顔で座っているではないか。里美しの。婚約者である。
あっ、しの! と声が出そうになった。いつのまに、あんな正面の席に・・・。
「と・・・えと、えーと、どこまで話しましたっけ。ああ、マルクスの不倫の相手は、メイドのヘレーネ・デムートだった、というところまで話しましたよね」
「先生、大丈夫ですかあ? 不倫がバレたみたいに大汗かいてますよ」
また、どっと笑いが起こった。
「・・・いや、あの、頭の中で年次をね、たどっていたんですよ。赤ちゃんが生まれた年をね」
「えっ、じゃあ、不倫の結果、赤ちゃんが生まれたんですか? マルクスの赤ちゃんが・・・」
「そうです」
「ひえーっ、マルクスやるじゃん!」
「資本論を書いた厳(いかめ)しい学者先生じゃなくて、そこらへんのスケベ親爺と変わりねぇじゃん。すげー、エロ親爺マルクス!」
「みんな、ちょっと待てよ。これは陰謀だぞ。マルクスの評判を落とすために仕組まれた嘘だと昔から言われてるんだ!」
「共産労働党はひっこめ!」
・・・みなさん、ちょっと落ち着いて。
いいですか。ヘレーネ・デムートに男の赤ちゃんが産まれたのは一八五一年六月でした。その三か月前の三月には、マルクスの妻イェニーも女児を産みました。つまり、一九五一年の年初から春にかけて、マルクス家の二部屋の狭いアパートには、二人の妊婦が大きなお腹をかかえて生活していたわけです。ちょっと滑稽というか悲惨というか・・・。なにより、その両方の原因をつくったマルクスはいたたまれなかったでしょうね。
「ヘレーネが産んだ男児はエンゲルスの子だと言われています。絶対そうです」
「パヨク、見苦しいぞ!」
・・・なるほど、エンゲルス父親説は当初からありました。エンゲルス自身も一時は認めていました。なぜなら、その当時、労働運動・社会主義運動は各派がしのぎをけずり、それはもう主導権争いが半端でなく激しかったからです。主なものだけでもプルードン派、バクーニン派、ラサール派、マルクス派と入り乱れていた。アナーキスト(無政府主義者)もいました。マルクス派は多くのセクトの一つに過ぎなかったのです。むしろマルクスの他派に対する仮借ない悪口雑言が顰蹙(ひんしゅく)を買い、大衆的な人気はイマイチでした。
そんなときに、マルクス派のご本尊マルクスが不倫の子をつくったとなれば、他派からの批判や中傷が集中し、組織が徹底的に叩かれ、弱体化するのは避けられない。なにしろ世は不倫に厳しいヴィクトリア朝時代なのです。それまで、マルクスは敵が少しでも弱みを見せたら、もう聞くに堪えないほどの誹謗中傷の嵐を浴びせかけたのだから、そのお返しは何倍にもなって帰ってくると予想されたわけです。
不倫の子の出生を知ったマルクス支持者の中には「もうマルクスは終わった」と落胆する人すらいました。
だから、エンゲルスもマルクスをかばうため、またマルクス夫妻の亀裂を防ぐため、仕方なく自分の子だという嘘を引き受けるしかなかったのです。とくにマルクスとエンゲルスの側近のような立場にいたカール・カウツキーは政治的利害を最優先し、それを強く主張しました。エンゲルス自身も、カウツキーの政治優先のデマ作りに同意せざるを得なかったのです。マルクス派という政治党派を守るためにはウソもしかたがない、と。
しかし子を持ったことのないエンゲルスが赤ちゃんを育てられるわけはないので、ルイスという労働者夫婦に里子に出されることに・・・。この男児はフレデリック・デムート、愛称フレディと呼ばれました。
マルクスは終生、頬かむりしたまま息子の存在を無視。だからフレディはマルクスの娘たちのような良い教育環境に恵まれず、長じて一介の旋盤工にしかなれませんでした。歴史に名を残す大知識人と、旋盤工だったその息子。哀しい対照ですね。
七 フレディの手紙
「先生、いまウィキペディアを見たら、『フレディ当人は自分がマルクスの子であるとは最後まで知らなかった』と書いてありますが」
・・・ああ、ウィキペディアはネット上の百科事典としてたいへん便利ですが、一〇〇パーセントの信用は置けません。その部分もまさにそうです。それはフランシス・ウィーン著『カール・マルクスの生涯』という本を参考にして書いた記事でしょうね。読みやすい本ですが、あれはたくさんあるマルクス伝記のひとつでしかありません。
参考までに主な伝記類を挙げておけば、
E・H・カーの『カール・マルクス』、
F・メーリングの『マルクス伝』、
W・ブルーメンベルクの『マルクス』、
D・マクレランの『マルクス伝』、
M・ウルフソンの『ユダヤ人マルクス』、
F・ウィーンの『カール・マルクスの生涯』、
J・スパーバーの『マルクス』
などがあります。思想の変遷に重きを置いたものや生活を中心にしたものなど様々です。加えて、マルクス夫人伝も数種類あります。フレディの存在に言及したのはマクレラン以降ですね。
不倫の子の父親問題だけに特化した本もあります。それは『Karl Marx is my father わが父カール・マルクス』という本で、ドイツ語・英語・日本語(一部にロシア語)で書かれた本です。その中にフレディの手紙があります。原文は英語ですね。フレディは英国で生まれ育ったわけですから、母語は英語です。日本語訳も付いています。
この手紙は、六十一歳になったフレディが、ロンドンの病院に入院中に、ジャン・ロンゲ(マルクスの長女ジェニーの長男。つまり腹違いの姉の息子で、フレディの甥にあたる男性)宛てに一九一二年四月に書いたもので、こういうくだりがあります。
《文明化した世界の社会主義者がこぞってドイツでの社会民主党のすごい勝利を喜んでいる時に、一体どれだけの人間が、大マルクスの息子がロンドンの病院に横たわって生死の間をさまよっているのを知っているだろうか》と。
この一九一二年の一月にはドイツ帝国議会選挙でドイツ社会民主党(SPD)が一一〇議席を占め、議会第一党となりました。当時の社会民主党は、カウツキーやベルンシュタインの指導下にあるマルクス主義政党でした。同党のローザ・ルクセンブルクなどの急進左派はのちにスパルタクス団を結成し、これが後年ドイツ共産党(KPD)となります。当時のSPDの党首はアウグスト・ベーベル、およびフーゴー・ハーゼでした。
この手紙にいう「大マルクスの息子」とはフレディ自身のことですね。つまり、フレディは自分がマルクスの息子だという事実を知っていたのです。ジャンの母であるジェニーも、フレディの腹違いの姉ですから当然知っていました。自分の出生にまつわる一連の事実を、フレディは生前の実母ヘレーネ・デムートから聞いていたでしょうし、エンゲルスからも聞いていたと思われます。
カウツキーは社会民主党の新聞論説に「フレディとエンゲルスは会ったことがない」と書いていますが嘘です。マルクスの死後、老いたヘレーネはエンゲルス家のメイドに雇われました。成人したフレディは二週間ごとに実母に会いに行き、その際、エンゲルスとも語り合ったことを手紙に書いています。
しかしカウツキーのような政治主義者や、のちのソ連の指導者、とくにスターリンらは、フレディ関係資料を筐底(きょうてい)深く秘してしまいました。あ、ごめんなさい。筐底というのは箱の底という意味です。耳で聞いただけでは判りにくいですね。
八 不倫はいつ?
「あのう・・先生、話を巻き戻すようで申し訳ありませんが、・・あの、二部屋しかないアパートで、しかもマルクス夫妻、三人の子供たち、そしてメイドのヘレーネという家族構成の中で、マルクスは一体どうやって不倫を実行したんでしょうか? 私にはまだ謎なんですが・・」
女子学生からの真面目な質問である。
・・・ああ、そうか。そこらへんは飛ばしちゃった感じですね。ごめんなさい。戻りましょう。
じつは簡単な話なんですよ。一八五〇年に、妻イェニーは借金を申し込むためにオランダへ旅立ちます。一人旅です。このとき彼女はすでに妊娠していたものと思われます。まだ妊娠初期で目立たなかったでしょうが。
この妻の不在期間中に、マルクスはせっせと不倫にはげんだと推測されます。その結果、翌年三月に妻が女児を出産、六月にメイドが男児を出産した、というわけです。種を明かせば、なんら謎でもマジックでもないことが分かります。
それよりむしろ、マルクス研究者のなかには、わずか二間のアパートに大人三人、子供三人がいる平常時に、マルクス夫妻がどうやって次々と子供をつくったか、そちらを疑問とするひともいます。なにしろ、この夫婦は計六人の子を生んだのですから。不幸にも三人は夭折しましたが。当時の幼児死亡率は非常に高かったので、貴族でも六人や七人の子を産むのは当然でした。ヴィクトリア女王に至っては九人(四男五女)もの子を産んでいます。
マルクス家では、一説によれば、メイドが気をきかせて子供らを連れ出し、一、二時間いない間に、夫妻は「昼のいとなみ」に勤しんだのではないか、という話もありますが、マルクス研究もここまでくると、ほかに研究テーマはないんかい?と言いたくなりますね。まあ、私も他人のことはとやかく言えませんが。
あ、それから、マルクスとエンゲルスの容姿というか、外見上のことにもちょっと触れておきます。エンゲルスには逮捕状が出たことがあって、書類に身長が五フィート八インチと書いてあります。メートル法に換算すると約一七三センチですね。写真にみるスリムでハンサムな外見からすると、楽に一八〇センチを超えているかとも思えるんですが、意外と低いですね。マルクスはエンゲルスと並んだ写真では五センチほど低く見えるずんぐりタイプで、まあ一六五センチ前後かなと推測されます。十九世紀の白人は意外と小さかったようです。ついでにいえばマルクスは、次女ラウラの夫つまり娘婿で医師のポール・ラファルグの観察によると、胴長短足でした。
同じ白人でも、マルクスはユダヤ人で、肌が浅黒い。マルクスの愛称「モール」はムーア人という意味で、ベルベル人とも呼ばれます。ベルベル人はいわゆるコーケイジャン(Caucasian)すなわち白人種ですが、北アフリカに住み、肌が浅黒いため一段低く見られたようです。しかし、女優の沢尻エリカのお母さんのように、ほとんど白人としか見えない人も多いですね。あ、はい。一度会ったことがあります。
前にも触れましたが、マルクスは十九世紀の白人にありがちな黒人差別の意識がとても強い人でした。まあ自分の肌が浅黒いという劣等感の裏返しで、黒人を貶(けな)すことが多かったのかもしれませんけどね。
同じユダヤ人で、哲学者で社会主義者という、共通点の多いラサールを、前述したように陰では「ユダヤのニガー(黒んぼ)」と呼んだり、娘婿のラファルグを「黒人によくある羞恥心の欠如という欠点をもつ男」と卑しんだり、どうも捻じ曲がった精神が垣間見えますねマルクスには。ラファルグはフランス、スペイン、キューバなどの混血のインテリで、単なる黒人ではないんですが、マルクスの偏見は抜きがたい。
過去、マルクス主義者や左翼系の学者・研究者が、マルクスを理想化しすぎて、実像が見えなくなるほど歪めてきたため、本当のことが言いにくい状況になりました。本当のことを言うと、そんなことはあり得ない!と反発する高齢者が多いんですよ。若いみなさんは「マルクス信仰」に惑わされないよう、事実だけを見つめてくださいね。
九 殺人部隊
この日の小池南冥の講義はおおむね好評だったといってよい。最初は不倫説に抗議していた共産労働党の党員学生も、しまいには静かになった。
聴講生でもないのに大教室のど真ん中で授業を聴いていた婚約者の里美しのは、授業が終わると軽やかに駆け下りてきて、「おもしろかった!」という。そういえば、学生でない聴講者の顔もちらほら見えていたから、一部の暇な教員も聴講していたのだろう。授業への出欠は学生の自主性にゆだねているので、逆に非聴講生でも「来る者は拒まず」が小池の方針である。
しのは「帰りに食事しよ」と研究室までついてきた。そこへ小池の携帯が鳴る。極左組織・中革派の大幹部、中山清秋からの電話である。中山からの電話はいつも唐突で、その日に会えないかといってくることが多い。この電話もそうだった。
「時間を調整して、折り返しご返事します」
そう答えてから、しのの顔を見た。
「お仕事ならそちらを優先していいわよ。お友達なら私にも紹介して」
仕事ではないが、友達でもない。ちょっと危ない人なんだ、と中山の組織上の肩書を教えた。革命的共産主義労働同盟中央革命派・軍事委員会議長、略して革共労・中革派・軍事議長だと。
「まあ、長ったらしい肩書! 略しても、まだ長ったらしい」
「うん。この中革派はよく知られているように、革プロ派と激しい対立抗争を繰り返している。両方とも内ゲバ殺人で有名なセクトだよ」
「以前、聞いたことがあるわ」
「今も対立は収まっていない。革プロ派は、革命的共産主義労働同盟革命的プロレタリア派の略称なんだ。中革派の場合、軍事委員会議長というのは、わかりやすくいうと内ゲバ部隊つまり殺人部隊の隊長という意味らしい」
「あらま、アブナイひと!」
「ね」
結局、のちのちの安全のためにも中山清秋には里美しのを紹介しないことにした。ただし、しのがどうしても「ヒトゴロシの顔が見たい」と言い張るので、待ち合わせ場所の喫茶店に二人で早めに行って、中山が来たら入れ違いに、しのだけ先に帰る、ということにした。画家として、殺人者の顔を見ておきたい、というのだ。言い出したら聞かない頑固さがある。
新宿の喫茶店で中山を待つ間、しのが授業中の小さなハプニングを話した。隣に座っていた女子学生からこんな質問を受けたという。
「仮に、大学卒業後に仕事に就くことが絶対の義務だとします。仕事は生涯、変更できません。違反したら終身刑です。就活に出遅れたあなたには、もはや三つの仕事しか残されていません。哲学者と詩人と政治家の三つです。さあ、あなたはどれを選びますか?」と。
「なんじゃ、そりゃ?」
「うふふ。私すぐに意味がわかっちゃった」 (つづく)