【新連載】小説・マルクスの不倫(上・中・下=毎週月曜日)
福岡県生まれ。団塊の世代。東京外大卒。産経新聞社を経てフリーランスのジャーナリスト。現在、ノンフィクションおよびフィクションの作家として執筆活動。国民新聞に3年以上連載したマルクス批判の評論「マルクス先生さようなら」の単行本化に向けて加筆補訂作業中。
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▲カール・マルクス
■登場人物■
▲左からエンゲルス、フレディ(不倫の息子)、エリナ(末娘)、ヘレーネ(不倫相手のメイド)、イェニー(妻)
【小説】
マルクスの不倫(上)
池田一貴
一 教室
東啓大学文学部の准教授・小池南冥(みなみ)は戸惑った。いつもの教室に入りきれないほどの学生が詰めかけたからだ。
たしかに受講者の名簿数からすれば本来、大教室での授業がふさわしいのだが、開講から二か月もしないうちに十五人かせいぜい二十人程度の学生しか出席しない授業となった。中教室でもまばらな印象である。学年末に哲学や思想に関するレポートさえ提出すれば単位がもらえると知ってからは、出席者が激減した。毎年のことだ。今日び、近代思想概論などという講座の人気はそんなものだろうと諦めていた。
本日の授業のテーマは「マルクスの不倫」である。どう考えても、このテーマが、名簿上だけに存在する学生たちを急遽、教室に呼び戻したにちがいない。去年までは「マルクスの英国生活」と名づけていた時間だ。
大著『資本論』で資本主義社会の分析と批判を展開した世界の大思想家マルクスと、テレビの昼メロ(などという死語がまだ通用するのだろうか?)か「2ちゃんねる」のまとめサイトあたりのメインテーマとが組み合わさったような今日の授業内容が、どうやら学生さんたちの食欲をそそったらしい。
教務課に問い合わせたら、大教室が一つ空いているというので、そちらを使わせてもらうことにして、学生たちに移動してもらった。立ち見で九十分はつらかろう。移動の途中、美しい女子学生が話しかけてきた。
「開講初日以来ですね、こんなに生徒が集まるのは」
「うん。来週はたぶん元に戻るだろうけどね」
「先生の授業、おもしろいのになあ」
「ありがとう。そういう学生ばかりだと教師もやりがいがあるんだけど」
「私、岡田マリです。よろしくお願いします」
「岡田さんね。顔は毎回授業で見ているから知っています。そう、岡田さんというのか」
「先生、来週は『ルソーの子捨て』なんてどうですか? あるいは『レーニンの梅毒説は正しいか』とか」
「あっはっは。そういう人寄せパンダ的なテーマばかりじゃ、やがて飽きられるよ。まあ、テーマの表現の仕方については、今後すこし考え直してみましょう」
岡田マリは思想史上の重要人物の、俗なスキャンダルに詳しいようだ。清純そうな外見に似つかわしくないな、と小池は思った。
二 党員学生
案の定、授業には「政治的」な妨害があった。妨害というほど大げさなものではないが、マルクスという教祖の尊厳を守りたい某政党の党員らしい学生が、文脈に関係なく、不倫という言葉が出るたびにしつこく抗議を繰り返したのである。要するに「マルクス様は不倫などしていない」という抗議である。
「マルクスだって人間だもの、不倫ぐらいしたでしょう。まあ、マルクスが亡命していた時代の英国は、ヴィクトリア朝という不倫に対して厳しい時代、女性に一方的な貞操観念を押し付ける時代ではありましたが、しかしマルクスはそんな社会風潮もなんのその、精力旺盛で、欲望を抑えきれない人だったようです。実際、マルクスの場合は、関係者の手紙など確実な記録も残っていますよ。私の授業はそういう事実をベースにして、マルクスを含めた思想家の人間性を問うことにしています。思想は思想、恋愛は恋愛、生活は生活というように、それぞれを完全に切り離して、対象――この場合はマルクスですが――を論じる方法もありますが、そういうものを一括し、全体として、ひとりの人間の思想と生活を問う方法もあります。私の講座では後者の方法で思想家の人間像を尋ねています」
「だったら思想もきちんと説明すべきじゃないですか」
「マルクスの思想については、先週の授業でくわしくお話ししましたよ。学校のホームページか私のブログを見れば、私の授業のテーマがそのつど出ているはずです。各週のテーマをいちいち掲げない先生もいらっしゃいますが、私は掲げています。不倫の回だけ出てきて、思想を話せというのは、大げさに言えば、授業内容を歪めることを要求するようなものです」
「党員学生」はどうも一般学生に不人気らしく、「授業の邪魔をするな」「左巻き」「パヨクはだまれ」などという野次がとんできて、しばらくは静かになる。昔と違って左翼学生はあまり影響力がない。
小池南冥には東啓大学の大先輩にあたる七十代なかばの人物で、中山清秋という知人がいる。中革派という極左組織の大幹部で、今も現役だそうである。ひょんなことから飲み友達となり、たまに会って酒を酌み交わす。その中山がしみじみと語っていた。
「俺たち新左翼各派が内ゲバで潰し合いをしているスキに、オウム科学教とかメシア統一教とかの新興宗教に学生を横取りされてしまった。あれは失敗だった。おかげで組織の年齢構成は逆ピラミッド型となり、組織全体が超高齢化してしまった」と。
つまり、左翼運動に走る学生と、新興宗教に吸引される学生とは、ほぼ同じ層であると見ているのである。同じマーケット(釣堀)から、一方は左翼運動へ、他方は宗教活動へと釣り上げて活動家に仕立て上げているのが実情、と見ているのだ。新左翼幹部のこの見方はおそらく正しいだろう。「党員学生」は新左翼ではなく、戦前から存在する共産労働党の党員という意味では旧左翼に属するが、これも結局、同じマーケット(釣堀)から釣り上げられたのだ。
このマーケットは年々縮小しているので、小さくなったパイの取り合いは年々激しくなっているらしい。党員学生は、左翼マーケットの貴重なお客さんなのである。むしろ、お客さん兼サーバント(使用人)といったほうが正しいかもしれない。別の言葉でいえば「鴨ネギ」なのである。
三 妻の名刺
小池南冥の講義が佳境に入ってきた。やはり聴講する学生が多いと徐々に熱がこもってくる。落語家とあまり違いはあるまい。「綴り方教室」ならぬ「話し方教室」に通ったことがあるが、そこで言われたのは「同じ話を百回も二百回も繰り返しなさい。そうすれば話し方が上手になる」ということだった。落語家もそうやって上達するのだ、といわれて小池は納得した。今日はマイクが不要なほど声の通りがよい。
・・・というわけで、マルクスは一八四九年から一八八三年までの三十四年間、国籍なき亡命者として、家族とともにロンドンに住んでいたのです。つまり人生の後半、というか人生の半分以上は英国にいた、ということになりますね。十九世紀後半の英国に。日本でいうと、嘉永二年から明治十六年までの三十四年間です。
その時代は、前にも言ったように、ヴィクトリア朝時代と重なります。ヴィクトリア女王が即位したのは一八三七年、崩御したのが一九〇一年、この間をヴィクトリア朝と呼びますから、マルクスの在英期間はすっぽりこの中におさまるわけです。ちょうどヴィクトリア時代の始まりとともにフランスと英国でカメラが発明され普及したので、この時代以降は写真の時代、映像の時代ともいえますね。この時代の英国は七つの海を制する大英帝国の時代、植民地支配と資本主義の拡大発展の時代でした。マルクスが『資本論』でこの英国を資本主義のモデルとしたのは当然のことだったといってよいでしょう。
「先生、不倫はまだですか?」という学生の声に、教室にはどっと笑いが広がった。
・・・うむ。焦らしているわけじゃないよ。話の背景も大切でしょ。不倫は、これからです。
ほとんどの人が勘違いしているけど、マルクスは労働者が好きだったわけじゃないんです。むしろ貴族が好きだった。貴族趣味もね。
だいいち、奥さんのイェニー・マルクスは結婚前の名前をイェニー・フォン・ヴェストファーレンといって、ワインの産地モーゼル河畔の町トリーアの貴族の娘だったのです。「フォン・ヴェストファーレン」と聞けば、すぐに貴族だって誰もが分かります。
マルクスはユダヤ人ですよ。釣り合いがとれない、なんてもんじゃない。マルクスの家系は南ドイツでは有名なラビ(ユダヤ教の律法学者)の家系で、隠れもないユダヤ人。お祖父さんの代までは正式な苗字はマルクスではなくてモルデカイでした。
このヘブライ語の苗字はローマナイズすると Mordechai となるので、モルデシャイとかモルデチャイとか呼ばれることもあるんですが、私が確認した限りではモルデカイが正しい。それがお父さんの代になり、弁護士という仕事の関係もあって、ユダヤ教を捨て、キリスト教に改宗したんです。それでマルクス姓になった。まあもともとユダヤ人でモルデカイ姓の人は、西洋圏ではマルクス姓を名乗るのが普通でしたが。
そんなユダヤ人がドイツの由緒ある貴族の令嬢と結婚するなんて、例外的な事件です。マルクスはそれが誇りだった。自慢の種だったんです。
え、労働者の味方がそんなことを自慢するはずがないって? いいえ、それは現代の常識を過去に投影しただけの誤った見方です。マルクスは官憲から革命家と見なされ、ドイツにいられなくなり、ベルギー、フランス、英国へと転々としますが、どこでも奥さんが貴族の令嬢であることを自慢し、自分の娘たちにも貴族として恥ずかしくない社交儀礼やダンスや音楽や絵画、外国語などを学ばせたのです。夜会服まで作ってやってね。貧乏なのに、エンゲルスに金をせびってまでも、そうしたのです。
とくに驚くのは、奥さんの名刺です。彼女を社交界に出入りさせ、その名刺には「マダム・イェニー・マルクス。旧姓バロネッセ・フォン・ヴェストファーレン」と印刷させていました。バロネッセとは男爵令嬢という意味です。貴族の旧姓をわざわざ併記させていたわけです。
ね、確信犯でしょ? マルクスは妻が貴族であることを誇り、貴族が好きだったのです。まあ誤解を招きかねないので、少々表現を換えて言えば、貴族的な優雅さと知性を愛したとも言えますね。あと、貴族人脈を利用する下心もあったかもしれません。
四 友人ラサール
現にマルクスの友人ラサールは、同じユダヤ人で哲学者で社会主義者でもあったのに、貴族の友人が多く、スポンサーに事欠かなかったのです。この人もヘーゲル哲学の素養が考え方の基礎になっていました。
マルクスと違って、ラサールは貴族女性や労働者大衆に人気があり、影響力も大きかった。一八六一年、プロイセン国王の即位にともなう大赦を期待して、マルクスはドイツ市民権復活を申請しましたが、その申請書をプロイセン警察の長官につないでくれたのもラサールでした。結果は「貴下は臣民と看做されない」との裁定。残念。その後、一八六三年に全ドイツ労働者協会の初代会長に就任したのもラサールです。
大赦の恩恵が受けられなかった頃から、マルクスはラサールの陰口をたたくようになり、彼のことをエンゲルスには「ユダヤのニガー」「病気の乞食」等々の悪意ある綽名で呼びました。「ユダヤ人」で「黒んぼ(ニガー)」とは二重にひどい差別語ですね。ラサールに黒人の血は混っていません。単に肌が浅黒いというだけなんですが。いや、マルクスだって浅黒いから「モール(ムーア人)」というニックネームで呼ばれていたというのに。しかも同じユダヤ人。マルクスの神経が判りません。
ほかの人に関しても、マルクスは批判するとき「ユダヤ人」や「ニガー」という蔑称を使いました。時代が違うとはいえ、お里が知れる話ですね。
マルクスとラサールはのちに訣別します。その後、ラサールは女性問題で、ある貴族と決闘し、若死にします。
一方、マルクスはラサールほどの人気はなく、親友のエンゲルスが最大のスポンサーでした。
マルクスは手紙で「お金が足りない、送ってほしい」とエンゲルスに催促しながらも、「きみも同じ意見だと思うが、単なる経済的観点からしても今の状況下で(私や家族が)プロレタリアート的な生活をするのは適切ではない」と、一般労働者レベルの生活を拒否し、貴族的生活を望んでいます。超貧乏なのにね。まったくどんな頭脳構造なんだか。書簡集を読むと、たかられる一方の親友エンゲルスが気の毒に見えてきます。
ただし、マルクスが階級としての貴族、貴族階級を称賛していたわけではないことは、彼の名誉のために付け加えておきます。娘らを優雅な貴族のように育てたいという願望と、貴族階級制度を社会に残すべきという主張とは別のことである、と考えるべきでしょうね。まぎらわしいけど。
五 メイド
・・・はいはい、分かってますよ。「不倫はまだか?」でしょ。いよいよ、これからね。
私の話は前置きが長いといわれることがありますが、今日はとくにそうだったかも。で、ついでながら、もうひとつ前置きを。
一盗二婢三妓四妾五妻(いっとう・にひ・さんぎ・ししょう・ごさい)という言葉があります。西洋にもあるかどうかは知りませんが、東洋、とくに日本では有名な言葉ですね。三妓と四妾の順序を逆にして、三妾四妓とする場合もありますが、まあ好みの問題でしょう。
永井荷風は「三妓四妾」といい、荷風を師と仰いだ谷崎潤一郎は「三妾四妓」の順だったと記憶します。あ、板書したのは字を示すためで、憶える必要はありません。
これは何の順番かというと、男の背徳願望の順位、もっとありていにいえば、男が性的にそそられる相手、を順番に挙げたもの、だそうです。
下からいけば、五番目は妻、説明するまでもありませんね。四番目は妾(めかけ)、つまり妻に次いで安定的な立場の女性。三番目は妓(ぎ。あそびめ)、すなわち遊女、娼妓、夜鷹、妓生(キーセン)、風俗嬢などの商売女を指します。
二番目は婢(ひ。はしため)、すなわち下女、婢女、女中、お手伝い、女召使い・・・等々。現代なら会社の部下の女性もこの範疇に含まれるかもしれませんね。そういうと叩かれそうだけど。流行の言葉でいえばパワーハラスメントの対象となる女性かな。
そして一番目は盗。女性を盗むこと、つまり他人の妻を寝取ることですね。昔風にいえば姦通です。江戸時代なら姦通は命がけ、発覚したら男女は二つに重ねて四つに斬られても仕方がなかった。まあ実際には表沙汰になる前に七両二分の示談金で話がついたそうです。
姦通罪は明治維新後の刑法にも引き継がれ、終戦直後の昭和二十二年まで生きていました。親告罪で最高刑は懲役二年。ただし処罰の対象となるのは妻とその相手の男だけであって、仮に夫が浮気をしても姦通罪にはなりません。不公平ですね。現在では、妻も夫も、不貞行為は犯罪とはされませんが、不倫という倫理的な背徳行為として羨まれる、いや蔑まれる、わけです。
以上を要するに、危険度が高い相手ほど興奮度も高い、というところでしょうか。
さて、いよいよ本題です。マルクスの不倫に入りますよ。マルクスの不倫の相手は、一盗二婢の二婢、つまりメイドだったのです。
「わぉ今日メイド喫茶へ行くやつはただのアホだあ!」という反応に、大教室がどっと揺れた。
・・・はいはい、お静かに。ヴィクトリア朝においては、メイドというのは女性の社会的職業としては数少ない働き口のひとつでした。
マルクス家にはヘレーネ・デムートという名のメイドがいました。ヘレーナともいいます。この女召使いは、もともとフォン・ヴェストファーレン家の召使いで、ずうっとイェニーのそばに仕えてきた人です。当然ドイツ人ですね。年齢はマルクス夫妻より若い。マルクスが妻子を連れてヨーロッパ中を転々としたのに忠実に付き従ってきたメイドだったのです。マルクスのメイドというよりは妻イェニーのメイド。貴族令嬢らしい話ですね。
ロンドンでのマルクス家の住まいは、わずか二部屋しかないアパートでした。狭い家にマルクス夫妻と三人の子供、それにメイド。こんな場所で、妻に気づかれずにメイドと不倫することは可能だったんでしょうか? (つづく)