【連載】腹ふくるるわざ(63)
誇り高き国際人・加納久朗
日本住宅公団総裁から千葉県知事へ
桑原玉樹(まちづくり家)
▲下総国一宮藩藩主の次男だった加納久朗
えッ? 加納久朗?
「えッ? 加納久朗?」と思った。2月3日に当ブログに掲載された田中秀雄さん(近現代史研究家)の「『ジャパンズ・ホロコースト』の悪宣伝に反撃する」を読んでいる時だ。聞いたことある名前が目に入った。その文を再掲しよう。
〈英国民を煽動するイーデン外相に対し即座に反論した日本人
香港虐殺は1942年3月10日の英国下院でのイーデン外相の声明で初めて世界に報じられた。「英国の50人の将校と部下が手足を縛られ、銃剣で打ち殺されたことが知られている。降伏から10日後、負傷者がまだ丘から集められ、日本軍が死者を埋葬する許可を拒否していたことも知られている。アジア系、ヨーロッパ系を問わず、女性が強姦され、殺害され、ある中国人地区全体が住民の身分に関係なく売春宿とされたことも知られている」などとイーデンは述べた。
これに対し、ロンドン在住の横浜正金銀行支店長の加納久朗(ひさあきら)が即日、外相発言を「中国によるプロパガンダに過ぎない」「伝えられるような日本軍による香港虐殺は信じられない。それは人間の倫理観からしてみても、到底受け入れられないからだ」とインタビューで発言したため、翌日、抑留処分となった。
加納は下総の国一宮藩の藩主の末裔で、高貴な家柄の人物である。一般のイギリス人は英国領、香港を侵略した日本を良く思っていない。敵意に満ちているただ中で危険を顧みず、日本の国益を守ろうとする加納の気概は、ノブレスオブリージュを体現したものと言えるだろう。〉
一宮藩主の末裔で加納久朗。間違いない。私が在籍していた日本住宅公団の初代総裁だ。略歴は次のとおり。
【国際人・加納久朗の略歴】
明治19(1886)年 加納久宜子爵(かのうひさよし。第4代下総国一宮藩藩主で、鹿児島県知事として西南戦争で疲弊した同県を蘇 生させた。農林大臣就任を断り千葉県一宮町長に。「一にも公益事業、二にも公益事業、ただ公益事業につくせ」が信条)の次男として誕生
明治27(1894)年 父親の赴任に伴って鹿児島に。小学校で宣教師ピーク先生にキリスト教と英語を教わる。長年に渡る海外生活の基礎ができた。
明治33(1900)年 学習院中等科編入。内村鑑三に薫陶を受け、敬虔なクリスチャンとして生きることになる。
明治42(1909)年 東京帝国大学法科大学入学。政府批判の「これからの日本」を書いた。左翼運動家片山潜が「華族がこんなに書いていいの?」とびっくり。案の定、発禁処分に。
明治44(1911)年 東京帝大卒業。1年間一宮町長の父の仕事を補佐。農業改善、耕地整理にも取り組む。日本住宅公団発足時に手掛けた松戸市の金ケ作(常盤平)土地区画整理事業に対する農家の反対運動にも対応できる素地がこの時にできたのかもしれない。
大正元(1912)年 横浜正金銀行(貿易金融・外国為替に特化した国策銀行)に入行。
大正4(1915)年 大連支店に異動
大正6(1917)年 ニューヨーク支店に異動。高層住宅にも住んだことから都心高層住宅論者になったとも。
大正8(1919)年 父親の死に伴って子爵襲爵。
大正9(1920)年 ロンドン支店に異動。イギリスのライフスタイルをこよなく愛し、英国紳士たらんとした。またハワードの『田園都市論(明日の田園都市~1898年出版。1902年に改題)』に影響を受けた。田園都市は、産業革命後の都市環境悪化に対して田園部に独立した新都市をつくるという都市計画の教科書の一番に出てくる理想像だ。しかし実際に作られたレッチワース・ニュータウンは結局ロンドンへの通勤都市になったことから、この論に懐疑的になったようだ。
大正12(1923)年 カルカッタ支店長に。
昭和9(1934)年 (本社勤務を経て)ロンドン支店長に。当時の横浜正金銀行ロンドン支店長は、ロンドン在住の日本人のリーダー的存在だ。当時駐英大使だった吉田茂とも深い親交を持つなど政財界に多くの人脈を築いた。さらにイギリス人との関係を築くためジャパン・ソサエティーに月に1度の昼食会を創設し、ボールドウィン首相、イーデン外相、イングランド銀行総裁なども招いた。しかし前回のロンドン赴任時と違い、日英関係は緊迫の度を増していた。そこで吉田茂の無二のパートナーとして、日米開戦の回避に向けて日英政府要人に極秘裏に働きかけをしていた。だが昭和16(1941)年12月8日に日英がついに開戦。その3か月後に記事冒頭の「英国民を煽動するイーデン外相に対し即座に反論」し、身柄はマン島に抑留、ロンドン支店は閉鎖になった。
昭和17(1942)年 3か月にわたる抑留を解かれ捕虜交換船で帰国。
昭和18(1943)年 横浜正金銀行取締役
昭和21(1946)年 終戦連絡中央事務局次長(-1946年)
昭和21(1946)年 公職追放。後任はあの白洲次郎。その後民間企業の役職多数。昭和29年(1954年)参院選には千葉県区で出馬。吉田茂から「あなたのような純良な士は政界が浄化されるまで飛び込まない方が良い」とのアドバイスもあったが、挑戦して落選。
昭和30(1955)年 日本住宅公団総裁(-1959年)これ以後については以下に記載する。
昭和37(1962)年 千葉県知事(-1963年)
昭和38(1963)年 死去
日本住宅公団の初代総裁に
▲日本住宅公団の総裁室で
昭和30(1955)年2月の総選挙ほど住宅問題が逼迫する政治課題として焦点になったことはなかった。全国で280万戸もの住宅が不足していたからである。どの政党も住宅難の解決を公約のトップに掲げていた。
前年12月に吉田茂から政権を引き継いだばかりの鳩山一郎率いる民主党は「10年間で住宅問題を解決してみせる」というのを最大の公約とした。総選挙の結果、鳩山民主党が勝利。同年7月8日に日本住宅公団法が公布された。
加納久朗(以下、恐れ多いが「加納」と略す)に総裁就任の打診があった。彼は「やらせていただきます」と即答し、鳩山総理にも「私が邁進する間茶々を入れないでいただきたい」と電話で注文を付けた。日頃から英語、漢字、カタカナ混じりで書いている自身の日記にはこう書かれているそうだ。
Called on 鳩山一郎
Shall do my best.
Don’t put Cha-Cha in while I am working for aim.
「茶々を入れないで」は“Don’t put Cha-Cha”というらしい。こんなこと総理に言えるなんて大変な肝っ玉である。
庁舎は元憲兵隊司令部
昭和30(1955)年7月25日に日本住宅公団はスタートした。庁舎は米軍の廃材で作ったというが、5か月後の同年12月17日、本所及び東京支所が「ノートン・ホール」(元憲兵隊司令部庁舎、千代田区竹平町3)へ移転する。
鉄筋コンクリート4階建てで、皇居の堀に面していた。加納は反戦思想の持ち主として戦時中この建物の地下室に拘留されたらしい。彼はこの事実を数人の側近にしか語らなかった。
東京憲兵隊司令部は昭和20(1945)年10月、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)によって接収され、同年12月に米軍の第441対敵諜報部隊(CIC)の司令部が置かれる。そして10年後、その建物は日本側に返還され、誕生したばかりの日本住宅公団が使うことになった。かつて憲兵隊の地下室に拘留されていた加納である。今度は同公団の初代総裁となって、同じ建物に戻ってきたのだ。
▲昭和30年12月からの日本住宅公団本所(戦前は憲兵隊司令部、戦後は米軍第411対敵諜報部)
強いリーダーシップで住宅設備の開発
住宅公団は、加納が卓越した見識と判断ですべての方向を決定づけた。運営だけではない。ダイニング・キッチン(DK)、ステンレス流し、シリンダー錠、水洗トイレ、屋内風呂、スチールサッシなどの住宅設備は、公団が進んで採用したことが契機となり、その後の住形式に大変革をもたらした。
欧米生活を経験した加納が発案し普及に尽力した結果である。特にスチールサッシ、シリンダー錠、ステンレス流しは部下に強い指示を発するだけでなく、自らメーカーに打診するなど積極的だった。
▲スチールサッシ(窓枠):まだアルミではなく鉄だ。規格を定め大量に安く生産された。
▲開発されたシリンダー錠(美和ロック(株)のHPより)
▲初のステンレス流し台((株)LIXILのHPより)
ステンレス流し台の開発秘話
当時日本には、ステンレスのプレス加工ができるメーカーは皆無だった。(株)LIXILのホームページには開発秘話が記載されている。「プロジェクトX」に出てきそうな場面だ。
<白羽の矢が当たったのが、東京・板橋に板金工場を構えていたサンウエーブ(現LIXIL)。自動車部品の製造に用いる大型のプレス機械で、"日本初のステンレス深絞り流し"に挑んだのである。この社運をかけたプロジェクトには、二人の若手社員が抜擢された。二人は工場の前にアパートを借り、寝る間も惜しんで作業に没頭したが、何度やっても上手く行かない。(中略)失敗作は月に400個を数えた。最後は神頼みで、巣鴨のとげぬき地蔵のお札をステンレスの四隅に貼り、毎回祈るようにプレス作業を行う。ようやく成功したのは、1956年の9月20日。公団設立翌年7月の販売開始を目指して既に建設をスタートさせていた。なんとかギリギリでのすべり込みセーフだった。二人の若手社員は納期に間に合った安堵感と、日本初の偉業を成し遂げた喜びとで、涙をポロポロと流して喜んだ。>
以後、ステンレス流し台が一気に普及。台所と食卓が近づき、主婦も料理を作りながら一家団らんに加われる「ダイニング・キッチン」の生活スタイルが世に拡がった。
千葉県の「アイデアマン知事」だった
日本住宅公団総裁を退任した加納は郷里千葉県の知事選挙に挑戦した。昭和37(1962)年10月28日に実施された千葉県知事選挙は、実質的に自民党公認の加納久朗、自民党を離党した前知事柴田等、日本社会党公認の桜井茂尚の三つ巴どもえの争いとなった。自民党が総力を上げて支持した結果、加納が当選した。
新知事は東京湾開発計画、道路と住宅の整備、水資源の開発に力を入れ「1期しかやらない。しかし仕事は2期分も3期分もやる」との公約通り、エネルギッシュな仕事ぶりをみせた。だが就任した時には76歳になっていた。
保守同士の骨肉相食む選挙戦を経て知事に就いた加納は、老齢にもかかわらず積極的に県政に取り組み、国に先駆けて県庁職員の「土曜日休暇制」「移動県庁」など斬新な政策を次々と打ち出し、「アイデアマン知事」として各界に話題を提供した。
精力的に公務を行っていたが、就任後わずか111日後に急逝する。後任は副知事だった友納武人だった。友納は知事を3期務め、この間に東京湾を大規模に埋め立て、京葉工業地帯の礎を築く。加納はさぞ自分の手でやりたかったことだろう。
もし知事を3期務めていたら…
余談だが、昭和40年代半ばになると、各地で「公団お断り」の動きが出てきた。開発に伴い地元公共団体に過大な財政負担が生じるというのが主な理由だった。平成になってからだが千葉県の開発担当中堅職員からこんな秘話を聞いた。
「実は千葉ニュータウンは構想当初、友納知事が公団に開発を依頼したが断られた。それ以来『公団お断り』になったんだよ。おゆみ野・ちはら台の事前協議が進まなかったのも、これが原因。昭和51年に建設省から来ていた杉本宅地課長が新任の川上知事に『おゆみ野の手続きは如何しましょう?』と尋ねたら、知事は『適当に(=放っておけ)』と答えた。それを『手続きを進めるように』と勘違いして、手続きを進めてしまった。知事は激怒して宅地課長を解任した。建設省に帰るときに宅地課で送別会やったけど杉本さんは大荒れ。ちゃぶ台返してベロベロ。階段を踏み外して大変な始末だったよ」
杉本さんは後に公団の宅地企画担当理事となる。私は昭和45(1970)年から昭和51(1976)年まで千葉市内の現場事務所でおゆみ野とちはら台の開発計画を担当した。しかし、この間、手続きは全く進まなかった。図面・資料を作っては破棄、作っては破棄とまるで賽の河原で石を積み上げるような作業を7年間繰り返し続けた。
それがいきなり県庁各課を持ち回って数日で120個ものハンコを得ることができた。キョトンとしたものだが、この秘話を聞いて合点がいった。加納が千葉県知事を3期やっていたら、千葉ニュータウンもおゆみ野・ちはら台も、その後の運命が大きく変わったことだろう。
▲千葉ニュータウンとおゆみ野・ちはら台の位置図
新首都「ヤマト」~NEO-TOKYO-PLAN~
加納は昭和33(1958)年4月、「東京湾埋立による新東京提案」を私的にまとめた。新首都の名前は「ヤマト」。これは翌昭和34(1959)年に松永安左衛門が主宰する「産業計画会議」から第7次勧告「東京湾2億坪埋め立てについての勧告~ネオ・トウキョウ・プラン」として発表され、大きな反響を呼ぶ。東京湾の3分の2を埋立て、しゃもじのような人工島(広さは東京23区の約1.5倍)をつくって、8の字形にぐるりと道路が取り巻く「新たな首都」を作るという壮大な構想であった。
▲「ネオ・トウキョウ・プラン」(電力中央研究所)
そんな壮大な「ネオ・トウキョウ・プラン」の構想に至った理由を、加納は雑誌『住宅』昭和33年9月号に掲載された「住宅政策の考え方」の中で次のように語っている。「住宅公団の総裁をして今まで三年間に四つの衛星都市を作っております。……四つで僅か十二万人にすぎません。…(中略)…ところが東京の人口は、 一年で三十万人増えており…(中略)…ですから地主のいる地面は真平御免、地主のいない地面をこしらえよう」としたので、「決して『夢物語』ではない。どうしても必要な計画」とも述べている。
公団総裁として土地買収に苦労したこと、松戸市金ケ作(現在の常盤平団地)の土地区画整理事業で地主の反対にあい測量隊に人糞を撒く「黄金戦術」や本所玄関に大根を撒く「大根デモ」を経験したことから、新しい土地を海に造るという発想に至ったようだ。
この提案はその後、大高正人、丹下健三、黒川紀章などの建築家や大手建設会社等による多くの東京湾開発計画の先駆けとなった。
ただ、必要とされた予算は、なんと当時の国家予算の2倍の4兆円。あまりの壮大さゆえに、ネオ・トウキョウは幻になった。
しかし「8の字道路網」は「東京湾アクアライン」「東関東自動車道」「首都高湾岸線」として部分的に実現する。さらに富津市と横須賀市を結ぶ「東京湾口道路」が開通すれば、「8の字」はほぼ完成することになるのだ。また、東京湾奥の埋め立てもかなり出来上がっている。
華麗なる家系
さて、加納は吉田茂と親交が深かったが、吉田の三女・和子の結婚にあたっては媒酌人を務めた。相手は加納の妹夏子の長男である麻生太賀吉。そして、この夫婦の間に生まれた長男が麻生太郎だ。そして麻生太郎の妹・信子は三笠宮寛仁妃。それぞれ4親等の血族にあたる。また加納の次男の長女(孫娘)は橋本龍太郎の妻・久美子だ。つまり、橋龍にとって加納は義祖父にあたる。そんな華麗な家系とは全く知らなかった。
▲加納久朗にかかる系図(著者作成。うーん。合っていると思うけど心配だな~)
語り尽くせぬ逸話
加納の業績、逸話はこのブログではとても語りつくせない。私の能力をはるかに超えるボリュームだ。興味を持たれたら、高崎哲郎著「国際人・加納久朗の生涯」(鹿島出版会)をお読みいただきたい。本を買うお金が惜しい人は「UR 歴史小説」で検索するとURのホームページで生涯についての連載物がタダで読める。また時間が有り余っている人は千葉県一宮町の教育委員会を訪れると郷土の偉人として懇切に教えてくれることだろう。
【桑原玉樹(くわはら たまき)さんのプロフィール】
昭和21(1946)年、熊本県生まれ。父親の転勤に伴って小学校7校、中学校3校を転々。東京大学工学部都市工学科卒業。日本住宅公団(現(独)UR都市機構)入社、都市開発やニュータウン開発に携わり、途中2年間JICA専門家としてマレーシア総理府のクランバレー計画事務局に派遣される。関西学研都市事業本部長を最後に公団を退職後、㈱千葉ニュータウンセンターに。常務取締役・専務取締役・熱事業本部長などを歴任し、平成24(2012)年に退職。現在、南山小学校区まちづくり協議会会長、印西市まちづくりファンド運営委員、社会福祉法人皐仁会評議員、「しろいダーツの会」会長。