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【連載】藤原雄介のちょっと寄り道㉛
「赤いポピー」が街に溢れる日
ロンドン(英国)
10月後半になると、英国では街にポピー(ひなげし)の花が溢れる。花といっても写真のような造花である。ニュースキャスター、酔っ払い、シティーのサラリーマン、八百屋の親父、政治家、建設労働者、あらゆる階層の人々、そして犬までもが、紙でできたポピーの造花を身につける。これは、Poppy Appealと呼ばれ、戦没者の遺族や戦争で負傷した人たち、また退役軍人支援のための募金活動である。
▲募金風景
第一次大戦終結の日である11月11日はRemembrance Dayといい、停戦条約が締結された午前11時に第1次大戦以降の総ての戦争の犠牲者に対して国民が一斉に2分間の黙祷を捧げる。また11月の第2日曜日にはRemembrance Sundayと称し、ウエストミンスター寺院で国王による献花式などが行われる。
▲国をあげて戦没者を追悼する
ベルギーのフランダース地方は、第1次大戦の最激戦地であったとされ、戦いの後、瓦礫の中に建てられた戦死者の墓の十字架の間に赤いポピーが咲き乱れていたという。その情景をカナダ人の軍医ジョン・マクレイが「フランダースの野にて」という詩に詠ったことから、ポピーがこの活動の象徴になったと言われている。
▲ フランダースの野に咲く赤いポピー
▲ 街角で募金し、このポピーの造花を身につける
この日は、英国と共に連合国として第1次大戦に参戦し勝利したフランスや、敗戦国のドイツでも同様の式典が行われる。 米国では、休戦記念日としてではなく、「戦時あるいは平時に兵役に服した存命中の退役軍人」を称えるベテランズ・デー(退役軍人の日、または復員軍人の日とも)として祝日となっている。
しかし、連合国の一員として、第1次大戦に参戦し勝利した日本やイタリアでは記念日として扱われていない。上記の国々が、第1次大戦の終結の日である11月11日を戦没者の追悼日しているのに対し、日本では第2次大戦の終戦日が戦没者追悼の日である。
不思議に思って調べてみた。第1次大戦と第2次大戦における日本の戦没者数の違いもその理由の一つかも知れない。第2次大戦における日本の犠牲者数は310万人だが、第1次世界大戦では300人である。ヨーロッパの国々とは、桁が違うのである。
英国やその他ヨーロッパでは、親族、親やこども、友人など身近な人々が亡くなった痛ましい記憶が残っているのは、第2次大戦より、むしろ第1次大戦なのだと言われている。日本では、第1次大戦について語られることは殆どないが、私が英国駐在中、英国人が第1次世界大戦をついこの間のように感じていることに驚かされたものだ。
【第1次大戦と第2次大戦の犠牲者数】
国名 |
第一次大戦 |
第二次大戦 |
日本 |
300人 |
310万人 |
英国 |
90万8000人 |
38万人 |
フランス |
135万8000人 |
60万人 |
ドイツ |
177万4000人 |
689万人 |
イタリア |
65万人 |
43万人 |
ロシア |
170万人 |
1450万人 |
アメリカ |
11万7000人 |
42万人 |
第1次世界大戦は、「世界大戦」とはいいつつも、主な戦場はヨーロッパ内であり、既に広大な植民地を有するイギリスやフランスに対し、ドイツやイタリアが植民地再分割を求めて対立した、いわばヨーロッパ列強国間での戦争であった。ヨーロッパから遠く離れた日本が参戦したのは、日英同盟に基づく英国の要請によってである。日本に、様々な打算があったのは事実だが、今日はそこには触れない。
日本は、戦没者を慰霊することについて異論が出る不思議な国である。国を挙げて戦没者に敬意を捧げ、その遺族を支援しようとする英国の姿には、胸を打たれる。とはいえ、ポピー・アピールは第2次大戦の英国人戦没者をも追悼するものなので、その期間中、当時敵国であった日本国民である私は、なんだか気まずい思いを胸に抱いていたのも事実である。
日本と比べ、社会的な同調圧力は低いと思われる英国ではあるが、それでもテレビに出演する人は、お笑い芸人にいたるまで、胸に赤いポピーを付けていないと「何故?」と糾弾されることがあった。こうした風潮は、Poppy Fascismと揶揄され、Poppyを胸に飾ることを断固拒否して論争を誘発した有名ニュースキャスターもいた。
世界中で価値観の多様化が進む現在、英国でも英国人だけを追悼するポピー・アピールに反対する人の数が増えてきているという。その背景には、世の中のリベラル化と増え続ける移民の影響もある。日本の社会情勢も英国と似てきているようだ。真剣に国の形を考える時が来ているのではないか。
【藤原雄介(ふじわら ゆうすけ)さんのプロフィール】
昭和27(1952)年、大阪生まれ。大阪府立春日丘高校から京都外国語大学外国語学部イスパニア語学科に入学する。大学時代は探検部に所属するが、1年間休学してシベリア鉄道で渡欧。スペインのマドリード・コンプルテンセ大学で学びながら、休み中にバックパッカーとして欧州各国やモロッコ等をヒッチハイクする。大学卒業後の昭和51(1976)年、石川島播磨重工業株式会社(現IHI)に入社、一貫して海外営業・戦略畑を歩む。入社3年目に日墨政府交換留学制度でメキシコのプエブラ州立大学に1年間留学。その後、オランダ・アムステルダム、台北に駐在し、中国室長、IHI (HK) LTD.社長、海外営業戦略部長などを経て、IHIヨーロッパ(IHI Europe Ltd.) 社長としてロンドンに4年間駐在した。定年退職後、IHI環境エンジニアリング株式会社社長補佐としてバイオリアクターなどの東南アジア事業展開に従事。その後、新潟トランシス株式会社で香港国際空港の無人旅客搬送システム拡張工事のプロジェクトコーディネーターを務め、令和元(2019)年9月に同社を退職した。その間、公私合わせて58カ国を訪問。現在、白井市南山に在住し、環境保全団体グリーンレンジャー会長として活動する傍ら英語翻訳業を営む。