特別インタビュー
サリン事件を解明した毒物の世界的権威
アンソニー・トゥー氏(台湾名・杜祖健)
Anthony T. Tu
コロラド州立大学名誉教授
インタビュー&構成■山本徳造
撮影・山本徳造
11月10日から日本に滞在していたアメリカの科学者、アンソニー・トゥー氏に本ブログが接触することに成功。サリン事件解明に大きく貢献した毒物研究の世界的権威が、一体何を語ったのか!
【アンソニー・トゥー氏のプロフィール】1930年に台湾・台北市で生まれる。父親は「台湾医療界の父」と呼ばれた薬理学者の杜聡明氏。台湾総督府医学校で毒物を研究していた聡明氏は、中国革命を完遂するため、親友(ジュディー・オングの祖父)と北京に渡り、袁世凱をコレラ菌で毒殺しようと企てたこともあったという。トゥー氏はそんな父親と同じような道を歩む。1953年に渡米し、ノートルダム大学、スタンフォード大学、エール大学で化学と生化学を研修する。ヘビ毒が専門だった。1957年に日系アメリカ人と結婚し、5人の子供(娘3人、息子2人)に恵まれる。ユタ州立大学、コロラド州立大学で教鞭をとる。1998年からコロラド州立大学名誉教授。順天堂大学大学院医学研究科の客員教授でもある。大阪日台交流協会(野口一会長)名誉顧問。趣味はピアノ演奏。現在、カリフォルニア州サン・マテオの自宅を拠点に世界中を講演して回る。
■それは警察庁からの問い合わせから始まった
-まずサリン事件からお話を。
松本サリン事件が起こった1994年の後、地下鉄サリン事件の前です。警察庁の科学警察研究所から連絡があった。「サリンを土から分析する方法を教えてほしい」と。私の論文(日本の化学専門誌『現代化学』に寄稿した論文「猛毒『サリン』とその類似体」)を読んでいたんですよ。で、アメリカ陸軍からサリン分解物の土壌中での毒性や分析法を解説した資料30枚を入手し、研究所にFAXで送った。この年の9月20日、日本の警察が松本サリン事件の起きた現場の土からサリンを、9月21日には上九一色村で土を採取したんです。
警察が山梨県の旧上九一色村にあったオウム真理教の施設付近の土壌からサリン分解物を検出したことで、オウム真理教とサリンを結びつけるきっかけとなった。こうしてオウム真理教の犯罪が次々と明らかにされる。その功績で、トゥー氏は平成21(2009)年に旭日中綬章を受賞した。
●松本サリン事件 長野県松本市では教団の支部道場建設をめぐって教団と住民が対立し、住民らが訴訟を起こす。地裁支部は仮処分で住民側の訴えの一部を認めたことから、教団が裁判で負ける公算が強かった。そこで教団は判決直前の平成6(1994)年6月ごろ、裁判官たちを殺害するため、教団幹部7人が裁判官官舎から約30mの駐車場で気化させたサリンを送風機でまき散らす。裁判官らは死ななかったものの、周辺住民7人が死亡し、約600人の重軽症者が出る大惨事に。その重症者のうち、河野澄子さんは意識不明の状態が回復しないまま死亡したので、死者は8人となった。
▲旧上九一色村の現場を視察するトゥー氏(左) ©安福達雄
●地下鉄サリン事件 平成7(1995)年3月20日、東京の地下鉄丸ノ内線で発生した同時多発テロ事件。教団幹部ら5人の散布役が東京の霞ケ関駅に向かう日比谷線、千代田線、丸ノ内線の計5車両に分乗し、車内にまいた。乗客や霞ケ関駅の助役ら13が死亡、6000人以上が負傷。この事件は世界中に衝撃を与えた。
▲旧上九一色村視察の帰路。右から安福達雄氏、高橋シズヱさん(地下鉄サリン事件被害者の会代表)、トゥー氏、安福氏のご子息 ©安福達雄
― トゥーさんは平成23(2011)年以来、サリン製造の中心人物だった教団元幹部の中川智正死刑囚と何度も面会されていますね。
はい、15回(東京拘置所で14回、移送された広島拘置所で1回)面会しました。私の他にはアメリカ海軍の長官だったリチャード・ダンチック氏が20回ほど面会している。
クリントン政権で海軍長官を務めたダンチック氏は現在、ワシントンにある独立系シンクタンク、新アメリカ安全保障センター(CNAS)の取締役会長。ダンチック氏からすすめられ、トゥー氏も面会するようになったという。
ところで、死刑が確定した場合、家族や弁護士以外は面会できない規則だ。しかし、判決が確定する前に文通している場合に限り、面会できる。トゥー氏は、中川死刑囚が死刑確定した2週間前に文通を始めたので、面会が可能になった。
この面会で教団が殺人の道具に使ったVXガスが、トゥー氏の論文をヒントに製造されたことを知る。北朝鮮の金正恩の異母兄・金正男がマレーシアのクアラルンプール国際空港で暗殺されたが、中川死刑囚はこの事件の後、マレーシア政府の正式発表よりも先に、VXを使った暗殺だと示唆する獄中書簡をトゥー氏に送った。
中川死刑囚は平成30(2018)年7月6日、移送先の広島拘置所で刑を執行された。それから20日後、「死刑執行されたら出版してください」という中川死刑囚との約束どおり、トゥー氏は『サリン事件死刑囚 中川智正との対話』(角川書店)を出版する。
車の運転は止め、もっぱら歩く
―もっとサリン事件のことを伺いたいのですが、白井健康元気村のブログなので、元気の秘訣などをお聞きしたいと思います。トゥーさんは、何か運動はされてますか?
運動ですか。とくにやってませんね。歩くことぐらいかな。万歩計を持って歩いている。毎日6000~8000歩くらいですかね。サン・マテオの自宅からダウンタウンまで3から4ブロック、だいたい15分ぐらい歩いて、スーパーなんかで買い物をするんですよ。車はコロラドの家に行くときに使っていたけど、今は乗らない。
―他に何か健康法は?
つねに精神的に楽しみを保持すること。たとえば、昔からやっていることだが、悪いニュースは忘れることにしている。楽しさだけを保っているんです。連邦政府からグラント(研究費)をもらうために、40~50ページの申請書を書くんです。私は現役時代に550万ドルもらった。グラントをとれなかったときなんか、申請書を捨てる。一度、こういうことがありましたよ。申請書は許可されたけど、「予算がないので、与えられない」という。で、捨てました。けど、一年後、「予算が入ったから、あげますよ」と言われた。しかし、申請書を捨てたので、どんな申請をしたのか覚えてない(笑)。そこで「私が提出したグラントの申請書を送ってくれませんか」と。そういうことがたまにありました(笑)。
―食事には気をつけてますか?
好きなものを食べることですかね。私はイカ、エビ、カニといったシーフードが大好き。とくに伊勢海老が。でも、一年前に通風になってから、今は食べない。1年前に、日本の新聞記者が父の銅像の前で私の写真を撮りたいというので、台北に行った。近くにシーフードの店があったので、海鮮料理を沢山注文して食べてもらった。私も食べましたよ。すると急に脚に激痛が走って歩けなくなった。病院で診てもらったら、痛風だとわかったんです。
そのとき以来、シーフードを食べなかったんですけど、今回日本に来て、北海道に行った。函館、札幌、登別と回ったんですけど、北海道といえば、シーフードでしょ。招待先にご馳走になったとき、料理の中に必ずシーフードが入ってる。だから、少し通風の症状が出ました。
―嫌いな食べ物は?
人の食べ物の好き嫌いは12歳のときに決まると言われているが、私は納豆、パン、ジャガイモが嫌いです。だから、アメリカではスパゲティをよく食べる。ピザはダメですね。チキンのもも肉とか、肉は毎日のように食べています。
―ご自分で料理をつくっているのですか?
ええ、家内を亡くして独り暮らしですから、自分でつくる。ビーフンなんか台湾料理が多い。あとはスパゲティーとかカレーライスですかね。コーヒーはアメリカン。そう、薄いコーヒーです。しかし、中東ではアラビア風のコーヒーはよく飲みました。とくにエジプトには、コンサルタントをやっていたのでよく行きましたね。
あるとき、アメリカ海軍の用事でエジプトの学会に出席することになった。スイスまで飛んで、エジプトに行こうとしたら、「サダト大統領が暗殺されたので行くな!」という指令が来た。困りましたよ。カイロのホテルで海軍から出張費がもらえることになっていたんです。けど、スイスで150ドル使ったので、もう50ドルしか残っていない。
で、海軍省に電話をすると、「出張費を用意するようボンベイのアメリカ領事館に電報を打つから、インドに行け」と。ボンベイに着くと、50ドルしかないので40ドルのホテルに泊り、食事をすると5ドルしか残らなかった。領事館に出向くと、副領事に「君については大使館からだけではなく、海軍省と国務省からもテレックスが入っている。どうやら君は相当な大物らしいな」とからかわれましたよ(笑)。
『幸せなら手をたたこう』の作詞者とバンコクで知り合う
―エジプト以外にはどの国が多かったですか?
インドは13回、パキスタンには7回出張しています。それとタイは1966年に毒ヘビの研究で3カ月滞在した。毒ヘビの研究をするためです。そのときに同じ宿舎にいた木村利人という人と親しくなったんです。早稲田大学の学生だった木村さんは、博士論文を書くためにタイに滞在していた。その木村さんから私の誕生日(8月12日)の祝いにと『山で歌おう―青春歌集』をもらいました。なんと木村さんは、あの大ヒットした『幸せなら手をたたこう』の作詞をした人なんですよ。
▲「青春歌集」▼木村氏のサインが ©安福達雄
▲「ロマンの会」で再会し、『幸せなら―』を歌うトゥー氏(中央)と木村氏(右) 撮影・安福達雄
東京五輪が開催された昭和39(1964)年に坂本九が歌って大ヒットした『幸せなら手をたたこう』は、フィリピンの農村でYMCAのワークキャンプをしていた当時25歳の早大大学院生、木村利人さんが作詞した。木村さんがワークキャンプで宿泊したルカオ小学校の子供たちが歌っていた現地民謡(後に原曲はスペイン民謡と判明)を気に入り、日本語の歌詞をつける。それを仲間内の愛唱歌として歌っていたのを、たまたま坂本九が耳にした。坂本はうろ覚えのまま作曲家のいずみたくに披露したのがきっかけでレコード化され、大ヒットする。
その木村氏は1965年から4年間、タイの名門、チュラロンコン大学で講師をしながら、博士論文を執筆していた。その後、南ベトナムのサイゴン大学、スイスのジュネーブ大学、早大法学部、ハーバード大学、ジョージタウン大学などで教鞭をとる。平成18(2006)年から同24(2012)年まで恵泉女学園大学学長を務めた。バイオエシックス(生命倫理)の先駆者として著名だ。日本生命倫理学会の元会長で、現在、早稲田大学名誉教授。
平成28(2016)年7月、NHK・BSで『幸せなら手をたたこう』の歌のルーツを探り未来への希望を語るスペシャル・ドキュメンタリードラマ「『幸せなら手をたたこう』~名曲誕生の知られざる物語~」が放映された。今年11月23日に再放送されたが、その3日前、横浜で「ロマンの会」(うたごえ喫茶、毎月第3火曜日に開催)が開かれた。同会幹事役の安福達雄氏が語る。
「杜先生には今までに3、4回参加して頂いてますが、この日は来日中のトゥー先生と木村先生もお見えになって、みんなで『幸せなら手をたたこう』を歌いました。実は私、2016年7月と2018年7月にそれぞれ1ヵ月、トゥー先生のコロラドの自宅にうかがっているんです。ご自宅には書籍が山積みにされていたんですが、今年の7月に整理していたら、木村先生が1966年8月12日にトゥー先生に贈られた『青春歌集』が出てきた。そのご本を再び『ロマンの会』の席上で、改めて木村先生からトゥー先生に渡してもらいました。会のメンバーにも、この事実を披露するためです」
ちなみに、安福氏は2015年9月16日、トゥー氏の旧上九一色村視察にも同行した。
フーテンの寅さんが大好き
―日本の歌には以前から興味があったのですか?
私、スタンフォード大学で学んでいたでしょ。そのときによく聴いたのが「桜メロディー」というラジオ放送です。日系人向けの放送局で、毎日1時間、日本の歌が流れるんですが、よく聴いたものですよ。とくに三橋美智也が好きでした。『あの娘が泣いてる波止場』とか『夕焼けとんび』とかね。三橋美智也の歌はよかった。
―カラオケにも行かれますか。
日本に来たときは、カラオケに行く。『北国の春』『知床旅情』『勘太郎月夜』とかよく歌う。あとは『ラバウル航空隊』とか軍歌ですよ。なにしろ2カ月間は日本兵でしたから。台湾軍築城部隊に所属していたんです。山に要塞をつくるので、その道路建設なんかやっていた。毎朝、軍歌を歌いながら現場に通っていましたよ。そのときはカエルを焼いて食べたり、カタツムリも食べた。
―奥様と知り合ったのもスタンフォードですか。
ええ、スタンフォード大学には日本からの留学生が多かった。だから、日系人の方にパーティーに私もよく招待されましたよ。家内ともそこで知り合いました。1957年のことだったでしょうか。その1年後に結婚しました。サン・マテオの日本人教会で。この教会には今でも毎週通ってる。讃美歌を歌っていると健康にもいいですよ。
―日本の映画は観ますか。
寅さんが好きでね。『男はつらいよ』はDVDでよく観ますよ。今度、寅さん記念館(葛飾区柴又)に行ってみたい。あとは『釣りバカ日誌』も面白いですね。でも、今はユーチューブで毎晩ドギュメンタリ―を観ている。
―どんなドキュメンタリーですか。
戦争をテーマにしたドキュメンタリーが多いですね。中国側が制作した朝鮮戦争とか中国とベトナムの両側から描いた中越戦争とか。そんなドキュメンタリーに興味がある。
―今後のご予定は?
来月(12月)はトルコに行きます。NATO(北大西洋条約機構)軍にテロ対策の講師として招かれている。トルコはNATO軍のテロ対策の拠点なんです。先月(10月)はチェコに行きました。アメリカ国務省が主催で、「将来の軍事」というテーマでしたから、NATO軍に参加している各国の将校が大勢来ていました。
―そうですか、お気をつけて行ってください。
【トゥー氏の印象】 インタビューは平成30(2018)年11月26日に東京・新宿のレストランで行った。驚いたのは、その記憶力である。いかにも学者という風貌で、穏やかな表情を崩さず、過去の出来事をところどころに数字を入れながら、トゥー氏は淡々と語った。「日記を毎日つける」「毎日2時間は書き物をする」「眠くなったら寝る」という習慣が、頭脳明晰を維持する秘訣かも。会話はきれいな日本語である。その行動力にも驚かされた。今も「現役」として世界中を飛び回るトゥー氏。88歳という年齢をまったく感じさせない、「健康」で「元気」な人物である。