【連載エッセー】岩崎邦子の「日々悠々」⑬
「お母さん、声が大きいよぉ~!」
車に乗ると密室になるからか、子供たちがいつも私に向かって言った。まだ子供たちが小さい頃のことだ。何気なく普通に話しているつもりの私だが、こうして話の腰を折られてしまう。
自分の声の大きさで苦い思い出がある。私が会社の寮生だった頃のこと、夜は一部屋に集まり、みんなでおしゃべりをするのが楽しみだった。が、あくる朝になると、寮母さんから、
「あんた一人で何の話をしていたの?」
と聞かれる。
どうやら私の声は大きくて、よく通るらしい。一人でおしゃべりしている訳がない。みんなでワイワイ楽しんで話していたのだから……。
耳が遠いから、つい私の声が大きくなるようだが、このことを意識したのはいつ頃からなのか。
疎開先で麻疹(はしか)に罹ったことがある。でも、戦争末期のことだから、医師にかかることも出来ない。そんな私の最大の後遺症は、右目に星が入っていたことだ。いわゆる「星目」である。目の角膜や結膜にできる粟粒大の白い斑点で、結核アレルギーとも考えられていた。
小学校2年生の春に疎開先から引き揚げても、眼帯をしたまま登校していた。眼科に通うようになって、「肝油」という何とも不味いものを強制的に飲まされることに。そのおかげか、3年生になる頃には眼帯をはずしての登校が出来るようになり、「片目のピン子」と、からかわれることもなくなった。
ちなみに大人になってからの眼科検診では、黒目に傷らしきものが残っているものの、医師から「視力に影響はない。奇跡的ですよ」とも言われた。
小学校4年生の頃だったか、姉に連れられて、今度は耳鼻科に行くことになった。とくにこれといった自覚症状はなかったが、右耳が中耳炎となっているというので、治療に何回か通った。麻疹の後遺症ということらしく、聴力を失っていることが判明する。それでも、子供時代はたいして不便も感じなかった。
すっかり大人になってから、医学の進歩に期待した私である。鼓膜を再生するか、それが駄目だったら、他に何らかの方法はないものかと、耳鼻科医で診察してもらったが、返事は「ノー」であった。
自分の耳の聞こえが悪いと意識し始めたのは中学生になってからだ。友人たちの中には、口に手を当てたり、ハンカチで口元を抑えて話す人がいた。そうされると、声がこもるので、話がよく聞き取れない。
(一体どうして口元を隠す必要があるのよ。口臭、それとも歯並びが悪いのかしら)
私は人から話を聞くときは、自分の耳だけではなく、相手の口元の動きや目、顔からも判断していることに気付いたものである。何を言われたのかを、聞き直すことができる相手であればよいのだが……。
一番困るのは、講演会とか電車に乗って横並びになったである。私の右側に目上の人と隣り合わせになった場合、その人物が少し大きめの声で明瞭に話されれば、ちゃんと理解し、受け答えもスムーズに出来るというものだ。
しかし、話す内容によっては、おいそれと聞き返すことが出来ないではないか。そんなわけで、曖昧な返事となって笑ってごまかすことも度々だ。きっとピントがはずれた馬鹿な奴と思われていたことだろう。
自分なりの手段として、会議や食事会などの座席が長方形の時は、右端の席に座る。一番望ましいのは、円卓かコの字型・ロの字型である。席の左隣にいる人や向かい合わせになって顔が見える人とは、コミュニケーションがとりやすいからだ。友達と行くコンサートなどでも、席はなるべく右端を確保したい。それが叶わなかったときには、右隣の人に私の耳の悪いことをエクスキューズすることにしている。
さて、家での日常生活ではどうであろうか。一番困るのは、台所仕事をしているときに家族から何かを言われても、聞き取れないことだ。水を流していたり、煮炊きをして換気扇が回っている状態は、最悪である。
何回か聞き直す私に、夫は大声で始めから言い直すのだが、一番の大事なところ、私が聞きたい肝心のところが不明瞭なのだ。すると夫が苛立って怒鳴る。そんなことも昔はあったが、最近は近くまで来て話してくれるようになった。
その理由が判明した。夫がごく親しくしている3歳年下のゴルフ仲間がいる。最近、その人の片耳の聞こえが極端に悪くなった。だから、耳の悪い人との会話に気を遣うようになったのだとか。
テレビドラマは、好きな俳優が出ているか、特別興味が沸くものでない限り、見ることがない。なぜなら、微妙な会話が聞き取りにくいからである。これはテレビのボリュームや俳優の声の大小ではなく、声の通りが良いとか、活舌の良し悪しが関係していると思うことにしている。
今の家に越してくるまでは、友人・知人たちと家族ぐるみで食事会をしたり、家族マージャンをしていたものだ。その人たちと久しぶりに会ったとき、
(あららぁ、こんなに大声で話す人たちだったかな?)
と驚かされることが多々ある。以前は私の声の大きさを非難されてきたことも、すっかり影を潜めた。
最近、電車の中、買い物中、病院の待合室、いろいろの場面で大声で話す人を見かけると、「耳が遠くなっているんだなぁ」と周りの人たちの高齢化していることをひしひしと感じる。
高齢者クラブでは、今は何を説明されているのかを、まったく理解していないのか、唐突に自分の思い付きを話し出す人もいる。認知症が疑われる人で耳が遠いとなると対応も難しい。
今までパークゴルフを一緒に楽しんできた人の中には、いつの間にか補聴器をつけてプレーをしていた人もいる。スコアを付ける段階で、仲間が言う数字が聞こえないらしく、「いくつでしたか?」と聞いてくる。
プレーの間中このことが続くので、面倒なことだと冷ややかな態度を多くの人が少なくない。プレーを楽しみにし、頭は冴えていたし、人柄も優しい人でも、耳のことでこうした扱いをされてしまう。その方と一緒の組になった時は、いつもより大きめの声で、スコアをその人の目を見て言うことにしていた。
確かに家族や身の回りに耳が遠くなった人がいると、その人との対応は疲れてしまうだろう。しかし、誰が優しく対応をしてくれるか、誰が自分の悪口を言っているのかは、その眼付や顔の表情で敏感に判断できる。幸いなことに、今のところ私の左耳は、なんとか健全らしい。
先日、早稲田大学応援部吹奏楽団の定期演奏会に出かけ、彼らの演奏を十分楽しんだ。またチアリーダーたちとのマーチングパレードも壮観であった。しかし、応援団長のあの独特のエール、つまり叫びの言葉がまったく聴き取れない。自分の耳が悪いからだろうと思ったが、一緒に行った友人たちも一様に言葉が理解できないという。
が、私の前の席にいる若い人たちは違った。みんな手を叩き、盛んに呼応しているではないか。どうやら高齢になると、声の大小の問題だけではなく、早口で畳みかけられる言葉は理解不能になるのだろう。
私は心の中で誓った。これからは、しっかり口を開け、ゆっくりと、相手の目を見て、そして笑顔で話そうっと。そう、好かれる高齢者になるには、努力が必要なのだ。