【連載】呑んで喰って、また呑んで(77)
小学生の私が日本酒を
●日本/大阪
ごくごく近所に父の姉、つまり叔母が住んでいた。夫の菊太郎は話好きで、政治が大好き。一種の趣味だろうが、それが高じて地元選出の府会議員の後援会長も引き受けていた。
その菊太郎は日本酒にも目がない。冬に遊びに行くと、火鉢の上に大きなやかんが置かれており、その中に徳利が入っていたものである。私が初めて日本酒を呑んだのは、小学校5年ぐらいの頃だったろうか。
そのときは真夏だった。菊太郎は仕事が終わって、火鉢の前で日本酒を呑み始めていた。叔母の台所には火鉢が一年中置いてあるのだ。つまみはスルメと決まっていた。ある日、たまたま遊びに来た私に菊太郎は湯呑を差し出し、日本酒の一升瓶から透明の液体をなみなみと注いだ。
「もうじき中学生やろ。これ呑んでみ」
そう言って、日本酒をすすめたのである。おそらく酒が入って気分が高揚していたのだろう。菊太郎が美味しそうに呑んでいる日本酒である。一体どんな味がするのか。好奇心も手伝って、私はグイッと呑み干した。
まるで水みたいだ。抵抗なく呑めた。
「おっちゃん、これ美味しいな」
「おー、イケるやないか」と菊太郎は喜んだ。「もう一杯呑み」
「うん」
2杯目も一気呑みした。不思議なことにまったく酔わなかった。今から思うと、菊太郎がイタズラして一升瓶に水を入れていたのか、それともかなり薄めた日本酒を呑ましたに違いない。その証拠に叔母はニコニコしているだけで、全然止めようとしなかった。
しかし、日本酒を2杯も呑んだと思い込んだ私は、「これで大人になれた」と得意満面になったばかりでなく、「自分はアルコールに強いのだ」という変な自信がついたようだ。ほんと罪な菊太郎である。
ちなみに、我が家であるが、父の定治郎はまったくの下戸である。ビールをグラスに1杯呑んだだけで真っ赤になっていた。が、母の正恵はお酒にめっぽう強かったので、父の弱さには物足りなかったようである。そこで正恵は定治郎に提案した。
「あんた、小唄でも習いに行ったらどうや」
「何、小唄?」
「そうや、あんたは酒が呑めんから、世間が狭い。小唄の師匠やったら、呑みにつれて行ってくれるから、呑む練習しなはれ」
そんな母の提案に父は従った。その計略は成功したようである。半年もしないうちに、父は晩酌を始めた。これまでと同様、顔が真っ赤になったが、菊太郎のようによくしゃべるようになったのである。もちろん、酔いつぶれることもなかった。
毎晩ビールが呑めるようになったので、母が喜んだのは言うまでもない。私もビールのおこぼれにあずかるので、興奮することしきり。ただ、2歳上の兄は喜んでいなかった。アルコールに弱かったからである。
今でも兄はまったくアルコールを口にしない。辛党が泣いて喜ぶ珍味の数々にも興味を抱くどころか、蛇蝎のように嫌う。兄は大阪から滋賀県に移り住んで40年近くになるだろうか。
つい先日も白井に立ち寄って拙宅に2泊したが、晩酌の相手にならないので、面白くも可笑しくもない。同じ兄弟でもこんなにも違うのか。それは父の兄弟にも言える。父の兄は無類の酒好きだったらしい。終戦直後、父の兄は死亡事故の多かったメチルアルコールに手を出して昇天している。
大学時代の私は、同じクラブの仲間たちと事あるごとに呑んだ。つまみは塩だったこともある。ちょうど大学紛争真っ盛りの頃だった。大学が過激派学生によって封鎖されたときなんか、大学近くの喫茶店で持参した「サントリー・レッド」を呑みながら議論した。あの頃が懐かしい。
以前もこの連載で記述したが、就職した出版社で連日連夜呑み続けたものである。二日酔いのない朝を迎えるのは数えるほどだった。そして今、隣近所の呑兵衛仲間と毎週のように酒を酌み交わす。こんな私になったのは、菊太郎のおかげだ。おっちゃん、おおきに。