白井健康元気村

千葉県白井市での健康教室をはじめ、旅行、グルメ、パークゴルフ、パーティーなどの情報や各種コラムを満載。

「国民」を必ず守るアメリカ  FBIがトゥー博士を守った!

2021-03-14 15:30:54 | アンソニー・トゥー(杜祖健)


「国民」を必ず守るアメリカ
FBIがトゥー博士を守った!

 

 北朝鮮に日本国民が拉致されても、手をこまねくニッポン。尖閣周辺で沖縄の漁民が中国「海警」に恫喝されても何もせず、中国に不当に逮捕され、非公開の裁判で「スパイ」とでっち上げられて服役した日本人にも救いの手を差し伸べようとしない。それが戦後日本です。そんな情けない日本と比べて、アメリカはどうでしょうか。アメリカに帰化したアンソニー・トゥー(杜祖健)博士は、「自国民を良く保護するアメリカ」と題した一文を『榕樹文化』(2021年春夏季号)に寄稿しています。日本とアメリカを比較するうえで大変参考になるので、転載することにしました。

 

自国民を良く保護するアメリカ①
杜祖健 

   

 私がアメリカに来たのは1954年で1957年にアメリカ市民権を獲得した。市民権をとるときに簡単な試験があるので、夜学に行って市民権をとる準備の科目をとった。それ以来私はアメリカの大学の学生としてまた教員として勤め今日に至る。私はアメリカに帰化した国民であるが、アメリカの各政府部門のコンサルタントをしたりした。その過程で感ずることはアメリカという国は自国民をよく守るという事である。これは大きなテーマで切り出したらきりがないと思う。それで私個人の経験したことをここで述べる。

FBIとの関係 

 ある時デンバーのFBIから電話が来て、中国からの誰々がアメリカ領事館でビザーを申請した時、君を訪ねると申請していたが、来たかという質問であった。それで後で来なくなると手紙が来たのでこなかったと返事した。私はあまり気をかけなかった。理由は日本人でも私の所に来るという理由で日本の大学に言って実際には来なくて他に旅行に行ったりするので、別に気分を悪くしたことは無かった。
 やがて私の研究室にブルガリアの研究者が私の研究室に2年間研究に来た。それでFBIの同じ方が時々電話をくれ、その人は何か特別な事をしているか、研究以外に何かしているかと問い合わせに来た。私は彼はまじめに研究をしており、別に特別なことは無いと返事した。
 だいぶ以前のことなのでそのFBIの方の名前を憶えていない。しかし時々電話で話しているうちに彼と親しくなり、2箇月に1回ぐらいの調子でデンバーから私のいるフォートコリンスの街にきて一緒に中国料理屋に行って昼ご飯を食べたりした。

台湾からのジャーナリスト江南の暗殺

 1984年10月カリフォルニア在住の江南(本名 劉宜良)が暗殺された。彼は『蒋経国伝』という本を中国語でアメリカで書いて出版した。私はこの本を読んだ事が無いので内容は知らない。おそらく蒋経国の内幕について書いて、蒋経国の気に入らなかったのであろう。蒋経国の息子が台湾のごろつきを使って殺害したのであった。この事件はアメリカにいる台湾人に大きな恐怖をもたらした。アメリカにいても国民党の魔手が伸びて自分たちの命がいつ狙われるかわからないからである。
 私が当時心配したのは国民党のブラックリストに入っているのではないかと薄々感じていたことであった。私は海外にコンサルタントとしてよく呼ばれて旅行していた。またその頃はアメリカ政府のお手伝いでソ連の毒素兵器や生物兵器の相談役をしていたので、旅行中に暗殺されたらいけないので、ソ連と国民党が怖かった。それで旅行のスケジュールは家内と台湾の父にだけ知らせていた。
 ある時私が海外旅行中に家内に誰かから電話が来て、私が旅行から帰ってきたかと尋ねた。家内は中国語ができないので英語で返事した。相手は中国人なのにどうして中国語ができないのかという。それで家内はI am not a Chineseと返事した。私は帰国後にこのことを聞き、私が海外旅行に出たのは父だけに手紙で知らせているので、私の台湾への手紙は国民党の特務に開封され検閲されていると感じた。私もひょっとすると国民党のブラックリストに載っているのではないかと思うようになった。
 これを確信するようになったのは1983年父が病気なので見舞いの為台湾に帰ったときであった。知らない警察局長が家に来て「台湾に帰って来て良かったですね。何か必要なことがあったら遠慮なく連絡してください」という。
 其のうちに国民党の調査局の特務から電話が来て、台湾に帰ってきたからご馳走しますと言ってどこかのレストランの地下室で多くの特務と食事をしていろいろ質問された。これで私はブラックリストに入っているのはまちがいがないと思い、父にお会いするのはこれが最後だと告げた。父も了解してくれたが、涙を流していた。
 父は3年後に亡くなったが、お葬式も怖くて台湾に帰らなかった。その時台湾を出る前に暗殺されるかもと心配したのでアメリカの台湾の事務所に行って、事情を話して保護を求めた。アメリカ人の職員が私が空港から出るまでアメリカの事務局の人が見届けると言うのでそれで安心して台湾を離れた。
 台湾に私の高校の同級生の郭伯偉君が開業をしており、患者の中に調査局の人がいるから聞いてみるという。その内に郭君から連絡があり、確かに私の名前がブラックリストに入っていると知らせてくれた。私のは第2級でハラスメントをし、1級ならば台湾で暗殺するとのことであった。
 
FBIによる保護 

 ある時私の知らない人から電話がきて、「Dr. Tuは有名な先生ですから、一度ぜひお会いしたいですからそのうちに尋ねに参ります」という。私はすぐに国民党の特務からの電話と察した。それで例のFBIの方と一緒に食事をした時にこのことを話し、彼が心配したのは私が万が一暗殺でもされたら大変だといった。
 彼はアメリカで国民党の特務がアメリカ人をハラスメントをするのはアメリカの法律に違反する。そんなことは絶対に許されない。その中国人が来る前に知らせくれ、君の研究室の隣の部屋で同僚と二人でピストルを持って待ち伏せしているから、危なくなったらベルを押せばすぐに隣の部屋から来てこの人を逮捕するからと言ってくれたので安心した。
 私はこの電話をくれた中国人は誰かわからなかった。しばらくしてこのFBIの方から電話があり、君に電話した人はデンバーにいる中国人で名前は「康」だという。それでアメリカでアメリカ人をハラスメントしてはいけないと警告したと話してくれた。それからこういうハラスメントの電話は来なくなった。
 私が不思議に思うのはFBIはどのようにして、私に電話をくれた人を特定できたかという事であった。FBIはすごいなと思い、また一介の私を心配してくれFBIがしてくれたことに感激した。今の中国共産党も同じことをアメリカでしている。台湾の国民党も中国の共産党も同じようである。確かに今の台湾では国民党の勢力は極端に弱くなり、野党であるので、台湾人を圧迫するようなことは無くなった。

▲コロラド州立大学の入り口

▲コロラド州立大学の著者の研究室で(1980年代)


自国民を良

く保護するアメリカ②

 1989年北京で有名な天安門事件が起きた。その時私はちょうど大連におり、2~3日後に北京に行く予定であった。その時私は機転を利かして自分で中国を脱出すると決心して結局は無事にアメリカに戻った。
 アメリカに帰ってきてわかったことは、アメリカ政府が私を救出しようとして、懸命に探していたことだった。アメリカの政府は自国民を良く保護するものだと実感し、今でも感謝に堪えない。
 今回はこの私の個人の経験を披露して少し詳細に述べたいと思っている。中国で天安門事件中にいたことは拙著『毒 サリン、VX、生物兵器』(角川新書)で述べたが、新書本なので詳しく書けなくごく簡単に描写した。今回はそういう制限がないので、詳しく述べることにした。
 
桂林で中国での初めての毒の学会

 1987年私は中国科学院の招待で初めて中国各地の研究所で講演をした。一番最後の訪間が広西医科大学で、ヘビ毒専門の湯聖希教授が毒の学会を開きたいが、学会を開いたことがないので手伝ってくれという。私がその時返事したのは学会を開くのはそう簡単でなく1~2年は準備の期間が必要であると述べた。
 彼は本当に開きたいと熱心で、私もお手伝いすることにして、2年間準備して1989年に桂林で中国初めての天然の毒の学会を開いた。彼は私を学会の会長にすると言って来たが、私は中国の学会だから中国人が会長になるのが自然である。私はただ国外からお手伝いするだけで満足だと返事した。
 彼からの返事では私を学会の顧問として招聘すると言って来た。それで私は顧間としてお手伝いした。中国での準備の費用は中国側が出し、英語での学会の紹介や宣伝の費用は私個人で出した。
 こうして2年間の準備の後、桂林で大きな毒の学会が挙行された。中国でも多数の反響を得たので、数百人の出席者でなかなか盛大であった。私は開会の辞を英語、中国語と日本語 で述べ皆がびっくりしていた。

学生の民主化運動 

 当時中国の学生たちが天安門広場で座り込んで中国の民主化を主張しており、中国全体が不穏な雰囲気であった。私は桂林に1週間ぐらい滞在して、後はどこに行くか学会の時に皆と相談して決めようと思った。普通なら私は旅行の行き先を家内に知らせるのだが、今回はどこに行くか決めていなかったので、桂林以外に行くことを家内に知らせていなかった。
 学会で中国の多くの毒の学者にお会いして、中には自分の研究室にも来てくれというのが出てきた。それで湯教授とも相談をして桂林の学会の後、福建医科大学、上海の復旦大学、大連の医者でヘビ毒を使って血液凝固の病気を治す赫文学教授、そして瀋陽の中国医科大学、北京の人民解放軍の化学兵器研究所、そして一番最後に武漢大学で講演をする予定であった。
 その後は香港に戻り、香港からアメリカに帰るようにするため帰りの航空券をすでにアメリカで購入していた。中国での旅程ははっきりしたことはわからなかったが、大体のスケジュールは家内に郵便で知らせていた。
 当時中国全体が不穏の状態だったので、アメリカの国務省からアメリカ人に中国に行くなというアドバイスが出されていた。それで私は新聞を毎日注意深く見ていた。新聞と言っても中国では人民日報しか見れない。
『人民日報』は中国共産党の新聞なので、本当のことはそんな新聞で情報を得られないと皆思うかもしれないが、私は新聞の消息の裏を想像して真意を探るようにしていた。
 当時の新聞では中国共産党のお偉い人たちの談話が沢山出てきて、共産党だけが中国を救助できるものであると強調していた。これは中国政府の態度が頑強で、それで私は中国政府は学生に対して譲歩しないと感じた。
 またそのころロシアのゴルバチョフが中国を公式に訪問した。歓迎の閲兵式は当然ながら天安門広場でなされるべきであるが、そこは学生によって座り込みの抗議でそんな閲兵式なんかできない。それで閲兵式は空港でなされた。
 中国人はメンツを重んずる民族である。天安門広場でゴルバチョフを歓迎できなかったことは中国政府にとってメンツ丸つぶれである。こういうことは中国政府は決して許さないと思い、其のうちに政府は必ず学生たちを弾圧すると思った。
 福建、上海では毎日『人民日報』を見て、何か中国政府の動きを察しようとした。しかしこれというニュースは見当たらなかった。

大連に着く
 
 上海で講演が終わった後、私は大連に飛んだ。飛行機がだいぶ遅れて大連に着いたのは夜であった。お迎えに来た赫文学教授が言うには明日の晩遼寧省政府が先生をご馳走するという。私の行くところ共産党はこちらが言わなくても皆知っているようであった。 
 翌日の晩遼寧省政府の方が、大連の台湾人数人を呼んで歓迎の晩餐をしてくれた。その翌日は赫先生が旅順を案内してくれ、昔の日露戦争の戦跡を案内してくれ、乃木大将などを思い出した。
 旅順港も203高地から良く見え、広瀬中佐の旅順港閉鎖のことを思い出した。『杉野はいずこ』という歌を一人で小声で歌った。
 翌日は列車で瀋陽、昔の奉天という大都市に行く予定であった。『人民日報』を見ると2cm四方の小さい記事が目についた。「人民解放軍が北京に侵入して秩序を回復した」と 簡単に述べていた。記事の見出しは小さいが、これは大ニュースだと即座に私は感じた。中国政府が遂に学生を弾圧したのだと想像した。
 私は瀋陽の後、北京それから武漢大学で講演の予定があった。北京に行って大丈夫かなと頭にひらめいた。それで赫教授に「北京に行つて大丈夫でしょうかね」と尋ねた。
 彼がいうには「心配するな。今日の新聞で北京の秩序は回復されたと書いているでしょうが」という。そうかなあと思って翌日特別列車で瀋陽に出かけた。同行の女性が「昨日北京で大事件が起きたようだ。BBCの短波放送で知った」という。大丈夫かなと一抹の不安がよみ返った。
 数時間の後瀋陽に着き、迎えの中国医科大学の若い助教授の方が駅に迎えに来ていた。彼の息子が九州大学に留学中とのことであり、日本のNHKの短波放送を聞いたところ、北京で多くの死傷者が出たのことである。中国では人民は勝手に外国の短波放送を聞いてはいけないことになっているが、皆聞いているようであった。これは大変だと思った。
 ホテルに入りすぐにテレビをつけて何か北京の消息があるかなと思った。しかしテレビは何も北京については述べず、アメリカのフットボールの映画でデンバーブロンコスについての映像だけだった。
 瀋陽の共産党の幹部が昼ご飯をご馳走してくれるという。それでその朝瀋陽の街をぶらついた。驚いたことに町はデモでごった返しで、電柱の張り紙には「打倒鄧小平」とか「李鵬を死刑にしろ」の反政府の物騒な標語で溢れていた。これじゃ北京に行ったら大変だと思った。
 そのお昼に瀋陽の共産党の幹部に御馳走になった。彼がいうには「杜教授のスケジュールは大変きついので、本来なら晩御飯を差し上げるのが礼ですが、こういうわけで昼ご飯で失礼させていただきます」。
 私は彼と面識もないし、私の旅行のスケジュールなど彼に知らせたことは無い。しかし中国政府は私がどこに行くか皆知っていた。私の頭はデモのシーンでいっぱいで、昼ご飯は何を食べたか覚えていない。
 それでその晩、赫教授に「私は北京に行かないと決めました」と言ったら彼は「それがいい。行かないほうが良い。明日すぐに大連に戻りましょう。病院の人に言って大連から日本に行くか又は香港に行く航空券が手に入るか聞かせましょう」
 大連で私が北京行きを聞いたときは行っても大丈夫だ言ってた人が今度は行かないほうが良いという。中国人は政治と関係することになると言葉が慎重になる。乱れた国なので、言葉使いには気をつけないといけないとという事が身についているのである。

大連から日本に脱出する 
 
 大連に戻り赫先生の病院の方が航空券が取れないという。赫先生は明日とにかく大連の空港へ行こうといい、翌日空港で聞いたら切符は買えないと言う。
 赫先生は空港の主任と知り合いだから直接聞いてみると言って中に入って行つた。しばらくして彼が出てきて香港行きは無いけど今北京から飛行機が大連に来る予定で、その飛行機は東京に行くという。
 それで急いで東京行きの片道切符を600ドルで買つて東京に飛んだ。1989年以来赫先生にお会いしていないが、今でも彼に感謝している。
 やがて東京の空港に着いた。日本の 新聞記者が大きなテレビカメラで私に 「日本のお方ですか。北京はどうですか」ときく。それで私は「私は日本人ではありません」と日本語で返事したら、そのカメラマンは他の人に聞きに行った。
 私は上野のホテルでしばらく休みすぐにUnited Airに電話をして、事情を説明して航空券を東京からデンバー行きに変更してくれと頼んだ。相手はすぐに了解してくれ、新しい飛行便をくれた。そして私はサンフランシスコ経由で無事にデンバーに戻り、そこからリムジンを雇って家に戻った。
 
アメリカ政府が私を追跡
 
 家内は私が帰ってくることをちゃんと知っていたので驚いた。家内が説明してくれて初めてわかったことはずっとアメリカ政府が私の居所を捜査していることだった。まずその経過を詳しく述べてみよう。
 家の人達は私が中国のどこにいるかわからないで心配していた。長女のマーシャが国務省に電話で尋ねた。
 その説明では中国にアメリカ人が約1万名いたが内千人は自分で残ると言った人達で、約100名ばかし消息が不明である。貴女のお父さんは其のうちの一人である。消息を探してあげましょうというので娘はよろしくお願いしますと頼んだ。 
 国務省の説明ではアメリカは常時キューバの無電を聴取しているのでその人に貴女のお父さんの居所を探させますと言った。翌日国務省から家内に電話が来て、瀋陽のアメリカ領事館に連絡したところ、Dr.Tuの瀋陽で誰を訪ねるのか又はどのホテルにいるか知らせてくれれば車で迎えに行くという。しかし家内は知らないと返事した。
 翌日国務省からまた電話が来て、Dr.Tu は瀋陽にきました。しかし誰かと一緒に北京には行かずに大連に戻ったという消息が瀋陽のアメリカ領事館から通知があったとのことだ。それで家内は以前私の研究室に来た中国人の教授2人に電話した。しかしみな怖がって電話で話したがらない。
 国務省は最後のアメリカ政府派遣のチャータフライトが北京に行き、アメリカ人を撤退させる予定なので、すぐに北京から大連に寄ってDr.Tuをピックアップするように手配しますという。そして瀋陽のアメリカ領事館に人を大連の空港に派遣して、Dr.Tuが飛行機の中に入るのを確認させますという。
 二日後に国務省から電話が来て、アメリカ領事館の人が大連の空港に行ったがDr.Tuは見当たりませんとのことで、もうどうしていいかわかりませんという。
 その後国務省から家内に通知が来て、Dr.Tuは今東京のどこかにいます。東京のアメリカ大使館からの通知では Dr.Tuは東京の United Airで航空券を交換しました。United Airのオフィスに尋ねたところDr.Tuはいついつまでサンフランシスコに着き、そこで乗り換えてデンバーに何時頃に着く予定ですとのことだ。それで家内も子供たちも私が無事に帰国するとわかって安心した。
 そういういきさつを私は全然知らなかったので、家内がいつ帰ってくるかちゃんとわかっているのだと知らせてくれた時はびっくりした。しばらくして国務省から電話が私に来て、無事に家に戻りましたかというので、お礼を言ったらYou are welcome と言って電話は切れ、これで私の捜索は終了した。
 このことを日本の友人たちに話すと皆さすがはアメリカですね。日本政府だったらそこまでは探してくれなかったでしょうと言う。私もアメリカ政府は自国民をここまで心配してくれたことについて、身をもって感じたので、只感謝の気持ちでいっぱいであった。
 中国人は皆自分の政府を信用しない。それで親戚や親友で固まり、お互いに助け合うという習慣ができている。アメリカと中国では人民の政府に 対する信用度が全然違うものである。(原文のママ)



 


この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 【速報】「白鳥の会」が解散... | トップ | 硫黄島の英霊に捧ぐ  あの玉... »
最新の画像もっと見る

アンソニー・トゥー(杜祖健)」カテゴリの最新記事