【短期集中連載】日本を愛したヴォーリズ③
ヴォーリズ建築が関西を華やかに
山本徳造(本ブログ編集人)
地下鉄御堂筋線と大丸心斎橋店
「Osaka Metroと大丸のむかし展」が昨年11月6日から12月20日にかけて大阪の大丸心斎橋店(大阪市中央区心斎橋筋)で開催された。Osaka Metro とは、大阪の地下鉄のことだ。大丸というと、大阪で知らない人はいない。
昭和8(1933)年、大阪の中心を南北につなぐ地下鉄御堂筋線が開通した。さらに大丸心斎橋店では、地上8階、地下2階建ての本館が完成する。御堂筋線は待ちに待った関西初の地下鉄だ。一方、大丸の本館は周囲を圧倒する近代建築だった。
昨年暮れに開催された「Osaka Metro と大丸のむかし展」は、この2つの出来事が90年前に起きたことを記念しての展示会である。同展では、御堂筋線開 業当時の構内写真や硬券切符、パンチ。大丸心斎橋店旧本館開業のパンフレットや写真、広告物などを展示した。
▲昭和9(1934)年の地下鉄心斎橋駅(提供:J.フロントリテイリング史料館)
▲ヴォーリズ建築の金物装飾パーツ
人口で横浜に抜かれた今では想像もつかないだろうが、1920年代からの大阪は首都・東京を凌ぐ世界的な都市として輝いていた。なにしろ名だたる大企業も新聞社も大阪に集中し、「大大阪」と呼ばれていたほどである。
その中でも心斎橋は、繁栄する大阪の中心地だった。大正14(1925)年に大阪の中心を示す「大阪市中心標」が大丸心斎橋店の東南角に設置されたことをみてもわかるだろう。
京都の呉服屋から近代的な百貨店へ
さて、大丸はもともと京都・伏見の呉服店で、享保11(1726)年に心斎橋にも進出して現金正札販売を始めた。幕末に活躍した新選組に隊士服を売ったのも京都の本店だったとか。
大正9(1920)年に「株式会社大丸呉服店」となって本店を京都から心斎橋に移すが、この年、心斎橋店が失火で全焼。建て直しのため、当時の下村正太郎社長がヴォーリズに設計を依頼した。下村社長は後に大丸となる呉服屋を創業した下村家の第11代だ。
早稲田大学商科の学生だった下村は明治40(1907)年、家業が傾いてきたので大学を中退する。翌年に大丸初代社長なった下村は、近代経営を視察するため、思い切って「洋行」した。今では死語になっているが、当時は欧米を視察することを「洋行」と言ったものだ。
その「洋行」帰りの下村がヴォーリズに初めて会ったのは、1916年頃だと言われているが、定かでない。その下村が知人のヴォーリズに設計を頼んだのは、きわめて自然の成り行きだった。ヴォーリズも喜んで快諾する。
ヴォーリズ建築事務所が設計し、工事が始まった。大正14年9月に第2期工事が竣工する。建物の中央玄関の上には、テラコッタの孔雀(大丸のシンボル)が掲げられた。工事が進む昭和3年(1928)、「株式会社大丸呉服店」は「株式会社大丸」に商号変更する。
そして昭和8年(1933)、新生大丸を祝福するかのように、本館が完成した。心斎橋筋側はネオ・ルネサンス様式だが、御堂筋側はネオ・ゴシック様式だ。
装飾というと、アール・デコで、天井にはアラベスク調の模様といった具合に、さまざまな様式が入り混じる。画一的でないというか、柔軟性に富んでいるというか、それとも依頼主の意向を最優先したのか。
昭和3年(1928)、家業の近代化を進める下村は「株式会社大丸呉服店」から「株式会社大丸」に商号変更した。ところで、京都の「大丸ヴィラ」(京都市上京区烏丸通丸太町上ル西側)は、かつての下村正太郎邸である。これもヴォーリズが設計している。
▲豪華な下村正太郎邸
時代は移り変わって平成19(2013)年に「株式会社松坂屋」と経営統合する。二年後の平成21(2015)年11月には、大丸に隣接する「そごう心斎橋本店」が営業不振で閉店。その建物を大丸が買い取りって大丸北館に。
平成27(2015)年末、大丸(大丸松坂屋百貨店)心斎橋店本館は建て替えのために閉館した。そのため、北館と南館の2館体制で営業継続されてきたが、令和元(2019)年9月、本館が建て替え工事を終えてグランドオープンする。地上11階・地下3階の新しい本館の低層階部分には、旧本館の外観がそのまま残された。新装なった大丸心斎橋店は「生きた建築ミュージアム・大阪セレクション」に選ばれる。
▲現在の大丸心斎橋店本館(トラベルwatch HPより)
さて、大丸神戸店第一別館(神戸戸市中央区明石町)もヴォーリズ建築の一つで、旧居留地にある歴史的建造物だ。アメリカン・ルネッサンス様式。地上3階・地下1階の鉄筋コンクリート造りである。
元はと言うと、ナショナルシティ銀行神戸支店の建物である。昭和4(1929)年に建てられた。戦後、しばらく大丸の倉庫として使われていたが、昭和63(1988)年に改修され、大丸(現在は大丸松坂屋)神戸店第一別館となっている。
矢尾政レストラン(京都府京都市下京区四条大橋/1926年施工)
ヴォーリズ唯一のレストラン建築だ。現在は「北京料理 東華菜館」として営業している。
▲今は中華レストランに
それはYМCA会館から始まった
近江八幡と京都を拠点にヴォーリズは活動した。当然、関西には彼の遺産とも言うべき建築物が数多い。先に触れたように、ヴォーリズが日本で建築家として最初の一歩を踏み出したのが、明治40(1907)年に施工された地上2階建てのYМCA会館である。
同会館はその後、今の場所に移築されて、ヴォーリズの親友、ハーバート・アンドリュースを称えるアンドリュース記念近江八幡基督教青年会館(滋賀県近江八幡市為心町中)となって国の登録有形文化財に指定された。
▲YМCA会館(現・アンドリュース記念近江八幡基督教青年会館)
ヴォーリズはもともとキリスト教の伝道目的で来日したので、YМCA会館に限らず、いくつかの教会を設計している。そのうちの何軒かを列挙しよう。
日本基督教団大阪教会(大阪市西区江戸堀/1922年施工)
地上2階建てのロマネスク様式の教会堂。平成7(1995)年の阪神・淡路大震災で半壊するも復興。翌年、国の登録有形文化財に。令和4(2022)年、大阪府指定有形文化財に指定される。
▲日本基督教団大阪教会
日本キリスト教団大津教会(滋賀県大津市末広町/1928年施工)
阪神・淡路大震災で半壊したが、修復されて平成8(1996)年に国の登録有形文化財に登録された。幼稚園も併設。
▲日本キリスト教団大津教会(トリップアドバイザーのHPより)
日本聖公会京都復活教会(京都府京都市北区紫野西御所田町/1935年施工)
聖公会はもともと英国国教会に発する教団。京都復活教会は大正3(1914)年、西陣に会堂が設けられたが、昭和7(1932)年に現在地に移転、同11年(1936)にヴォーリズ設計の礼拝堂が完成した。ゴシック様式で、鐘楼は地域のランドマークとなっている。幼稚園が併設。
▲日本聖公会京都復活教会(「京都を彩る建物や庭園」HPより)
神戸ユニオン教会(神戸市中央区生田町/1928年施工)、
国の登録有形文化財で、現在はSHOP&カフェ「フロインドリーブ」生田本店として営業している。
以上が戦前に施工された教会だが、ヴォーリズは第二次大戦後も熊本市と京都市で日本福音ルーテル教会を設計した。
日本福音ルーテル熊本教会(熊本県熊本市中央区水道町/1950年施工)
日本福音ルーテル賀茂川教会(京都市北区小山下内河原町/1954年施工)
もちろん、ヴォーリズが設計したのは、教会やキリスト教関連施設だけではない。
ヴォーリズ設計の一般住宅
公共施設だけではなく、一般住宅もヴォーリズは設計している。有名なのが滋賀県近江八幡市池田町に現存する3つの住宅だろう。いずれも「池田町洋風住宅街(ヴォーリズ建築群)」として、今でも目にすることができる。
ウォーターハウス邸(1913年施工)
アメリカの伝統的なコロニアルスタイル。当時、近江八幡市でヴォーリズと共にキリスト教の伝道活動をしていたP.B.ウォーターハウス一家の住居だった。一家の伝道活動をつたえるため、ウォーターハウス記念館に。平成20(2008)年に公益財団法人・近江兄弟社が全面修復を行い、現在は宿泊も可能。3階建て11室で、ビルトインタイプの暖炉が5カ所ある。国の登録有形文化財。
▲現在のウォーターハウス記念館
吉田悦蔵邸(1913年施工)
吉田悦蔵は近江兄弟社グループの創立者の一人で、生涯をヴォーリズのパートナーとして働いた。本館は木造3階建てのダツチコロニアル様式だが、内部はアメリカのスタイルで統一されている。本館、茶室、レンガ塀、家具23点、図面4点が県の指定有形文化財。離れ茶亭は国の登録有形文化財。現在は写真スタジオ、ギャラリースペースとして使われている。
▲写真スタジオに生まれ変わった吉田邸(ここ滋賀HPより)
ダブルハウス(1920年施工)
近江ミッションのアメリカ人が住むために建てられた。左右対称の2軒の家をつなげて1軒の家としたことで「ダブルハウス」と呼ばれた。現在も住居として使われている。
そうそう、ヴォーリズが満喜子夫人と共に過ごした家を忘れてはならない。ヴォーリズ邸(近江八幡市慈恩寺町元)は昭和6(1931)に建てられた。現在は遺品や資料が展示されたヴォーリズ記念館となっている。滋賀県指定有形文化財。
駒井家住宅(京都市左京区北白川伊織町/1927年施工)
遺伝子学者の駒井卓博士の住居だった。京都市指定有形文化財に指定されている。
舟岡省吾教授邸(京都市左京区松ヶ崎鞍馬田町/1929年に施工)
京都帝国大学医学部の舟岡教授の住宅だった。今では京都工芸繊維大学の厚生施設「KIT倶楽部」として使われている。登録有形文化財。
ナショナルシティ銀行神戸支店社宅(神戸市中央区北野町/1931年施工)
現在は写真スタジオとして使われている。「ひょうごの近代住宅100選」に選ばれた。
▲かつてナショナルシティ銀行神戸支店社宅だった
関西のミッション系大学
英語教師として来日したウォーリズは、教育者としての顔も持つ。当然、教育施設の設計にも関わっている。
ヴォーリズ学園幼稚園(滋賀県近江八幡市市井町/1931年施工)
ヴォーリズ夫妻が創立したヴォーリズ学園の幼稚園として使われていた。メンソレータム社の創設者、アルバート・ハイドの寄付で建てられた。現在はヴォーリズ学園ハイド記念館。隣にはヴォーリズ学園教育会館がある。当時、同学園の礼拝堂として使われていた。国の登録有形文化財。
滋賀県立商業学校(滋賀県近江八幡市宇津呂町/1940年施工)。
ヴォーリズは1905年に滋賀県立八幡商業学校(現在の滋賀県立八幡商業高等学校)に英語教師として来日した。この校舎の建て替えもヴォーリズが担当した。
▲滋賀県立商業学校(現・滋賀県立八幡商業高等学校)
関西学院大学(兵庫県西宮市上ヶ原一番町)
関西を代表するミッション・スクールである。滋賀県と同県近江八幡市、関西学院大学の3者は令和4(2022)年3月、ヴォーリズの建築などを通じた連携協定を締結した。
関学大は同年1月、建築学部(神戸三田キャンパス)に「ヴォーリズ研究センター」を新設したばかり。この協定でヴォーリズ建築の研究・保存や建築を活用した地域活性化、人材育成などに協力して取り組むことになった。
ところで、なぜ関学大とヴォーリズが結びついたのか。ミッション系の大学ということもあるだろうが、同大の初代学長となるカナダ人宣教師のベーツがヴォーリズと親交があったことが大きい。ベーツは昭和4(1929)年に開設された西宮上ケ原キャンパスの設計をヴォーリズに依頼した。
スパニッシュ・ミッション・スタイルで統一されているからなのか、まるでアメリカの西海岸にあるようなキャンパスに圧倒される。中央の芝生がじつにまぶしい。
キャンパス中央の北側を歩くと、森に囲まれた小道があり、赤い瓦のスパニッシュ風建造物が点在する。ヴォーリズが設計した外国人の宣教師用の住居だ。
すべて木造2階建てだが、屋根階がある。施工した昭和4(1929)年当初、10棟あっだ。しかし、今残っているのは、1号館から9号館までの9棟。ベール院長が住んでいたのが1号館だ。現在、「オハラホール」と呼ばれており、迎賓館として使用されている。
森の小道を下ったところに、ヴォーリズ設計のハミル館がある。もともとは日本メソジスト教会の日曜学校教師養成所だったが、昭和4(1927)年に神戸灘区の原田キャンパスから移設した。
▲大正7(1918)年施工のハミル館
先の大戦後もヴォーリズは大学本館をはじめ、法学部、文学部、経済学部、商学部の各別館、中央講堂などを設計している。大学創立70周年を記念して、創立者ランパスの名を冠した礼拝堂が昭和34(1959)年に建てられた。コンクリート造りの平屋建てで、赤瓦葺きが鮮やかだ。
しかし、ヴォーリズも高齢になり第一線から退くことに。ランパス礼拝堂がヴォーリズ建築事務所が手掛けた最後の建築物となった。
神戸女学院大学(西宮市岡田山)
アメリカ人宣教師が明治8(1875)年に神戸で女子専門の寄宿学校を開校した。単に「女學校(Girl's School)」と呼ばれていたが、4年後に「神戸英和女学校」に、そして明治27(1894)年には「神戸女学院」と改称される。関西学院大学にほど近い現在の場所に移ったのは、昭和8(1933)年のことだった。
第二次大戦後の昭和23(1948)年、神戸女学院大学が誕生する。関西初の新制女子大学だった。このミッション系女子大の校舎を設計したのもヴォーリズである。
関学と同様、スパニッシュ・ミッション・スタイルで統一されたキャンパスは、まさにため息が出るほど美しい。平成26(2014)年にヴォーリズが設計した校舎12棟(中学部・高等学部を含む)が一括して重要文化財に指定された。
▲重要文化財を強調する神戸女学院
ちなみに、全国に1500棟以上もあるというヴォーリズ建築での重要文化財に指定されたのは、神戸女学院が初めて。これがきっかけで春と秋に学内見学ツアーを始めたという。神戸女学院は令和7(2025)年に創立150周年を迎える。
同志社大学(京都市上京区)
新島襄が創立したミッション・スクールである。日本でのキリスト教の布教に貢献したヴォーリズとも関係が深いのは言うまでもないだろう。
もちろん、ヴォーリズが手掛けた建築物も少なくない。アーモスト館、致遠館、啓明館、新島遺品庫の計4棟もあるのだ。
まずアーモスト館が建てられた経緯に触れておこう。アメリカのアーモスト大学は新島の母校でもある。同大学が1921年に創立100周年を迎えたとき、日本の同志社に卒業生を送り出すプログラム「アーモスト・同志社プログラム」を開設した。
このプログラムでアーモスト館が建設されたというわけだ。設計したのはヴォーリズ。昭和7(1932)年に竣工した。現在は、主に外国人研究者の長期滞在用の宿泊施設として利用されている。平成17(2005)年6月に登録有形文化財に指定された。
同志社カレッジソングを作詞
多才なヴォーリズは建築家や実業家という顔だけではない。讃美歌の作詞やハモンドオルガンを日本に紹介するなど、音楽についての造詣も深かった。
同志社カレッジソングを作詞したのがヴォーリズだったことは、あまり知られていない。
まだ同志社に校歌のなかった時代のことである。同志社にはアメリカから来た宣教師が日本人の生徒を教えていた。ある日、生徒の何人かが彼らに尋ねた。
「先生、日本の学校には必ず効果があります。どうして同志社には校歌がないのですか?」
「うー、そういえばそうだな。わかった。何か考えるよ」
なぜか宣教師たちのほとんどがイェール大学の出身だった。そのうちの誰かが言った。
「そうだ。メロディーはイェール大学の校歌がいいんじゃないか」
「ああ、覚えやすい曲だし、それにしよう!」
何人かが賛同した。イェールの校歌は、ドイツ民謡「ラインの守り」のメロディーを勝手に拝借したものらしい。だから、同志社も同じメロディでいいのではというわけだ。
「問題は歌詞だ。誰に頼もうか」
「ヴォーリズでいいのでは。彼は詩も書くらしいから」
「そうだな。ヴォーリズに頼もう」
想像だが、おそらくこんなやり取りがあったのだろう。
こうしてヴォーリズ作詞の同志社カレッジ・ソングが出来上がった。それが以下だ。
Doshisha College Song
1.
One purpose, Doshisha, thy name
Doth signify; one lofty aim;
To train thy sons in heart and hand
To live for God and Native Land.
Dear Alma Mater, sons of thine
Shall be as branches to the vine;
Tho' through the world we wander far and wide,
Still in our hearts thy precepts shall abide!
2.
We came to Doshisha to find
The broader culture of the mind;
We tarried here to learn anew
The value of a purpose true;
Dear Alma Mater, ours the part
To face the future staunch of heart,
Since thou hast taught us with high aim to stand
For God, for Doshisha, and Native Land!
3.
When war clouds bring their dark alarms,
Ten thousand patriots rush to arms,
But we would through long years of peace
Our Country's name and fame increase.
Dear Alma Mater, sons of thine
Will hold their lives a trust divine.
Steadfast in purpose we will ever stand
For God, for Doshisha, and Native Land!
4.
Still broader than our land of birth,
We've learned the oneness of our Earth;
Still higher than self-love we find
The love and service of mankind.
Dear Alma Mater, sons of thine
Would strive to live the life divine;
That we may with increasing years have stood
For God, for Doshisha, and Brotherhood!
ついでに比較文学と英米文学の専門家、児玉実英氏の日本語訳を紹介しよう。
1、
同志社よ、その名は一つの目的を意味する
すなわち、その学徒の精神的,肉体的に
神のため、祖国のため
生きんという一つの崇高なる目的を。
親愛なる母校よ。同志社の学徒は
ぶどうの枝のごとくであるであろう。
たとえ世界くまなく、広くはるかに
われらさまようとも 汝の教訓は
われわれの心に、とわに生き続けるであろう。
2、
われわれが同志社にきたのは、
心のより広きかてを 求めてである。
われわれは 真の目的の価値を
新たなる意味において
学ばんとして ここにとどまった。
親愛なる母校よ。われわれのつとめは
かたき心をもって未来に処することである。
なぜなら同志社は、
神のため、同志社のため、また祖国のために
役だてよと 高き目的をもって
われわれに教えてきたからである。
3、
戦雲がその険悪な動向を示すとき、
いく万の愛国者は武器をもってはせ参ずる
しかしわれわれは
久しきにわたる平和の年月のうちに
祖国の名を名声を
いやましにましたいと思う。
親愛なる母校よ。その学徒は
その生涯をいつまでも
神への信頼に捧げるであろう。
確固不動の目的をもってわれわれは
たえず神のため、同志社のため、
また祖国のために立たんとするものである。
4、
われわれが生まれた国よりも、
さらに広い世界といえども
それは 一つであることを
われわれは学んだ。
自己愛よりもいや高き人類愛と
奉仕の精神を われわれは会得する。
親愛なる母校よ。その学徒は
聖なる生涯を送らんがため
励もうとしている。
重ねゆく年とともに
神のため、同志社のため、同胞のため
かえりみてくいなからんがために。
ヴォーリズは後に歌詞の意図をこう語っていたという。
「同志社の性格はその名のワンパーパス(One purpose)です。そこに構想の根拠をおいて書き続けました。そして三節までは神のため、同志社のため祖国のためと歌いましたが、最後の第四節においては世界同胞のためと歌いました、広い世界的なものの見方が同志社にはほしい、との念願からです」
なんとも意味深な歌詞である。「神のため、同志社のため、同胞のため」と綴ったヴォーリズは日米が戦うことになることを予感していたのだろうか。(つづく)