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私の体験したロシア 緊急企画■バック・イン・ザ・U.S.S.R.①

2022-08-26 06:32:13 | 特別記事

緊急企画■バック・イン・ザ・U.S.S.R.

 ウクライナ侵攻が膠着状態になっている中、プーチンのロシアは一体何を目指しているのか。今、囁かれているのがスラブ連邦の構築です。そう、崩壊したソ連邦(USSR)の再建がプーチンの最終目的ではないでしょうか。1968年に発売されたビートルズの「バック・イン・ザ・U.S.S.R.」の冒頭では、マイアミビーチからソ連に戻る不快なフライトについて歌われました。はたして、ロシアは再び多民族国家に戻ろうとしているのか、ソ連訪問の経験があるアンソニー・トゥー(杜祖健)博士(コロラド州立大学名誉教授)の思い出話(『榕樹文化』2022年秋季―23年新年号より転載)を中心に緊急企画を組みました。

 

バック・イン・ザ・U.S.S.R.①
私の体験したロシア
杜祖健

 

 私がアメリカ政府のお手伝いをするようになったのは1984年からである。1983年に当時のソ連が天然毒を使って生物兵器にしたのをアメリカが発見し大いに驚いた。 1年間右往左往して1984年にアメリカ政府はようやっと正気に戻り対抗策を作らないといけないと言うて、アメリカ陸軍に対抗策を命じた。それでアメリカ陸軍はすべての天然毒、これには海洋毒も含めて責任をもって対処することになった。私はFDA(Food and Drug Administration)からマサチューセッツ州での海洋毒の会議に出るように言われた。 この会議はアメリカ陸軍が主催であるが、表には出ず、FDAに会議を命じたのであった。私は平生から文献調査でロシア人の研究も調べていた。是は特にロシアだけでなく世界中の毒に関する文献は皆一応目を通していた。アメリカ政府の相談の内容は割と簡単であった。私が返事したのは公開の文献からの内容をお知らせした。そのうちにだんだん質問も深くなり、私も相手から習うことが多くなった。

ロシア人との接触
 インドで学会があった時にロシア人のDr.Grishinに会い、相手が機会が有ったらロシアにいらっしゃいという。私はただのお世辞と思って別に気にしなかった。アメリカに帰ってから文献を調べてみるとDr.Grishinは蜘蛛の毒でなかなかいい論文を出している。当時私はWashington,D.C.のアメリカ化学会で毒のシンポジウムを開催の責任者であったので彼を招待した。彼は喜んで受理すると返事してきた。学会の日が近くなったので私はワシントンD.C.のヒルトンホテルに泊まった。突然モスコーから彼からの電話で、ビザが出ないから手伝ってくれという。私が今でも不思議に思っているのはどうして私がワシントンD.C.のヒルトンホテルに泊まっているということがわかつたのであろうか。とにかく国務省に電話したら、何でこの人を呼ぶのかと聞くのでアメリカ化学会で私が主催の毒の会議にスピーカーとして招待するためであると答えた。国務省は今日は金曜日でモスコーは土曜日だからすくに返事が無いかもしれないが、わかり次第また連絡するという。翌日国務省から電話でモスコーのアメリカ大使館からの通知では月曜日の午後4時にビザを出すという返事であった。彼は火曜日にワシントンD.C.についた。助手を一人連れてきており、カバンはいつも助手が持っていた。しかし彼の規定の講演の時刻には遅れていたので、彼は最後の時間に講演をさせてくれという。それですぐにアメリカ化学会の責任者に聞いたら、発表した時刻を変更できないとのことでとうとう彼はロシアから馳せ参じてきたが、講演は出来なかった。
 私が驚いたのは FBIやCIAから電話が来て彼はどういう予定か。ワシントンD.C.の後 どこに行くか、君は彼がワシントン滞在中どう対応すかという質問であった。それで私が答えたのはワシントンD.C.の後、オクラホマ州立大学で彼は講演することになっているが、そのあとはわからん。今日の晩は一流のレストランで夕飯をご馳走するつもりだと返事した。私は初めて彼が当時のソ連の毒 素兵器研究所の所長であるという大物であることを知った。その晩私は彼のホテルに迎えに行った。彼と助手は部屋の中でテレビをつけて会話中であった。テレビをつけるのは盗聴されないためである。これはスタンダードの方法である。重要な話をするときテレビをかけていると盗聴しにくいためである。タクシーで一流のホテルに行きそこで彼等二人をご馳走した。案内されたテーブルの隣に男の人が一人座っていた。私はすぐにFBIの反間諜の人だと思った。こんな一流のホテルに男一人で来ることは無い。明らかに私たちの会話を聞くためであった。
 翌日FBIの方が訪ねて来ていろいろ質問した。彼が言うにはあの助手が抱いているカバンの中には重要な書類が入っていると思う。これが外国ならあのカバンをかっぱらってやるのだが、ここはアメリカなのでそんな無茶なことはできない、残念だと言うていた。ロシア人二人はワシントンD.C.の後、メリーランド州のアメリカ陸軍の生物兵器研究所に招待されてそこで講演をした。この研究所はアメリカの対生物兵器対処の一番多い所であるので、普通の人は入れないところである。
 その規則に反してDr.Grishinを招待したのは私見では次のような理由だとおもう。彼は大物であるのでソ連の毒素兵器の所長がどんな人物であるか直接観察したい。次に考えられるのは「アメリカの対ソ連のプログラムはダントツに優れているから、お前なんかアメリカと争っても無駄だ」と知らせるためではないかと思う。それで冷戦時代の敵国人であるが丁寧にしたのだと思う。
 その後はオクラホマ州立大学に呼ばれて講演に行った。そこでもFBIやCIAの人たちが彼の行き先を追跡したそうだ。オクラホマには蜘蛛毒の専門家がいるので、このロシア人の専門と同じ分野なのであった。話によると大勢の人たちが彼の講演を聞きに来たそうであった。私と彼の接触はワシントン滞在の三日間だけであった。私は学会のOrganizerとして彼を招待しただけであるので、ワシントンD.C.の後の彼らの行動は関係がないのでどうしたか知らない。
 FBIの人が話してくれたのは彼がビザがなかなか取れなかった理由は、陸軍が彼を講演に招待することを国務省に通知していなかったので、国務省が怒ったためとのことであった。外交関係は一応国務省に通知しないといけない規則になっているのである。私がアメリカ海軍の用事で海外旅行をするときは海軍省は必ず国務省に通知していた。
 それからしばらくして彼の事を忘れた頃にロシアからTelexが来た。内容は「貴殿をロシアアカデミーサイエンスに招待します。この番号を世界中のどこにでもあるロシアの大使館又は領事館に出せばロシアへのビザがとれます」と書いていた。9月は大学で講義が有るので海外旅行は遠慮したいのでその旨返事した。彼らからの返事は「短期間でもいいからいらっしゃい。将来時間があるときにまた招待しますから今回は短期間で来てください」と書いていた。

ロシアにいっていいのかと迷う
 私はアメリカ政府のお手伝いはロシアの毒素兵器が主なコンサルタントであったが、ロシア自身とは別に深い関係はなかった。それでロシアに招待されたのは驚きと不安の気持ちで一杯であった。ロシアのような閉鎖的な国に行って安全かというのが第一の心配であった。コロラド州立大学の教員でロシアに行ったことがあるという人に会って大丈夫かと聞いたりした。彼の話ではロシア人はフレンドリーで招待されたなら問題はないだろうという。アメリカ政府の方たちとも相談したら、ロシアと言う国は招待をあまりしないが、招待すると親切にするという。それでも1990年代は冷戦中のど真ん中である。私はアメリカ政府をお手伝いしていたので、アメリカは国務省や陸海軍の人がソ連や東欧の国に行くときは特別な訓練を受けることを知っていたので、私にもその訓練をしてくれと頼んだ。「こういう事は国務省、陸海軍の上の人がソ連や東ヨーロッパに赴任する前の訓練であり、普通の人にはしない。しかし君はアメリカ政府にずいぶん貢献しているから、特別にしてあげましょう」という返事なので私は少し安心した。やがてワシントンD.C.から一人コロラドに来て「政府の依頼で君を指導するように言われたので、来ました。さっそく君の車で田舎道に行きましょう」という。何で田舎道に行くのかと怪訝に思ったが、彼の言う通り田舎道に行った。突然彼が叫ぶ。「前に誰かが機関銃を持って君が通るのを遮ろうとしている。こういう時君はどうやって逃げるか」という。その対処方を教えてくれた後、大学の駐車場に戻った。「君が離れた後、誰かが君の車の中をさぐっているとする。君はどうしてそういうことをされたかを察知できるか」というようなことを指導してくれた。

 やがてワシントンD.C.に来いという。GeorgetownというワシントンD.C.に近い町で「約1時間ばかしどこでもいいから歩きなさい。その後どこそこのCoffee Shopで合いましょう」という。それでGeorgetownをぶらついた後、指定のコーヒーショップに行った。「この5人が貴方の後をつけました。誰がしたかがわかりますか」と聞く。それで3人ばかし指してこれらの人が私の後をつけていましたと返事したところ初めてにしては上出来だとほめられた。こういう町で実際にだれが後ろからついているか、どうして見分けるか、どうやって追跡から逃げるかなどを訓練してくれた。アメリカ政府の中にはこういう特別な訓練をする部門がある。当時のソ連も似たような訓練を海外に出る人達にするそうである。話によると約2週間訓練するそうである。

ロシアに着く
 私はコロラド州立大学で講義が有るのでこの度のロシア行きは1週間だけにした。パンアメリカンの飛行機でフランクフルト経由でモスコーに行った。初めてのロシア行きであり、緊張する。モスコーの空から下を眺めると森や小さな湖が沢山ある。空港に着くと前アメリカにDr.Grishinと一緒に来た助手が迎えに来ていた。それで「ちょっとまってくれ。ドルをルーブルに交換するから」というたら彼は「お金なんかいりません。貴方はソ連邦の招待した方ですから、費用は皆ソ連政府が負担しますからお金を交換する必要はありません」と言い、ソ連アカデミーサイエンスの招待所に連れて行ってくれた。
 翌日ソ連の毒素兵器研究所で講演をした。その後研究所を案内してくれた。マススペクトル、ラマン分光学、NMRなど当時としては一流の機器がありね私個人の研究室よりは立派な設備で、アメリカ陸軍の生物兵器研究所の設備と比べて決して劣らないものであった。翌日ボリショイバレーの劇院に連れて行ってくれ、世界的に有名なバレーを鑑賞した。その間別な助手が外で待っており、ショーが終わってから其の助手が私の泊まっている招待所までつれもどしてくれた。
 
エストニアの学会に出る
 当時はエストニアはソ連邦の一部であり、タリンでソ連で初めての天然毒の学会が開かれた。研究所の人は皆Trainでモスコーからタリンまで行った。私だけソ連が航空券を購入して飛行機でタリンに行った。タリン空港ではエストニアサイエンスアカデミーの所長 Dr.Seegruが迎えに来て言う。「ソ連政府はソ連からDr.Tuに招待状を送ったからエストニアから招待状を出さなくていいというが、エストニアで開かれる学会なので私は貴方にEstoniaからも招待状をだしました」。学会では通常2人に一室の部屋を充てられたが、私は特別に元ソ連の軍司令官の官舎に泊まらしてくれた。

クレムリンを案内してくれる 
 Estoniaには僅か2日間の滞在で飛行機でモスコーに戻った。翌日クレムリンの中を案内してくれ、ここに昔スターリンが全ソ連を統治していたことを思うと感慨無量であった。クレムリンの中は素晴らしかった。こんなところにはソ連の高官の世話がなければとても行けないところである。

▲モスクワのカテドラル(右)と筆者が描いたスケッチ(左)

 

 最後の晩は一流のホテルで晩御飯をご馳走になり、食後はそのレストランでもよおされたショーを見て、翌日Pan AmでモスコーからNew Yorkに飛び、コロラドに戻りほっとした。今回のロシア旅行は短期間であったが、思い出の多い旅であった。当時はソ連とアメリカは冷戦中であらゆることでにらみ合っていた時代であったが私に特別に待遇してくれた。これはワシントンD.C.での学会に出るのを手助けしたため、ロシアが恩返しをしたいと思ってしたためと思う。私は当時アメリカ政府のお手伝いでロシアの毒素兵器や生物兵器の事で相談役になった。しかしアメリカ政府と相談したことは一言も漏らしていない。相手が話すのを聞いただけである。ロシアは私がアメリカ政府と関係あるということは知っていたように感ずる。それにも関わらず、親切にしてくれたのはワシントンでお手伝いしたのを向こうが恩に感じたためと思う。(『榕樹文化』2022年秋季―23年新年号より転載)


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