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【特集/台湾二二八事件④】台湾暗黒史を語る! アンソニー・トゥー博士

2022-02-27 16:07:45 | 特集/台湾二二八事件

【特集/台湾二二八事件④】

台湾暗黒史を語る!

アンソニー・トゥー(杜祖健)博士

▲アンソニー・トゥー(杜祖健)博士

 

国民党と台湾人のギクシャクした関係は、「二二八」という台湾人弾圧事件を起こしました。この事件の後でも執拗に繰り返された白色テロ、そして国民党上層部の腐敗。毒物研究の世界的権威、アンソニー・トゥー(台湾名・杜祖健)博士が榕樹会会報『榕樹文化』(第71・72号 2021年春夏季号)に寄稿した「恐怖時代の台湾の思い出①②」を昨年、本ブログに転載しました。今の民主主義国家・台湾では考えられない暗黒時代の台湾。歴史の教訓をしっかりと脳裏に刻み込み、二二八事件のような悲劇を繰り返さないためにも、再び本ブログに転載します。

 

恐怖時代の台湾の思い出 ①
軍法局長包啓黄の銃殺 

包啓黄局長


 私が台湾にいたのは1930年から1954年までで、1945年までは日本統治時代であった。1945年から私が渡米して留学するまでの1954年は中国の国民党時代の強権政治下であった。今の台湾はすっかり民主化して何をしゃベっても構わないが、昔は怖かった。その思い出の一つにあるご婦人が台北の道路で蒋介石に直訴して、軍法局長が銃殺されたことであった。その婦人が局長に頼んで夫の命を助けてもらうため懇願した。その局長はその婦人を性的に犯したが、夫は死刑に処されてしまった。夫人はかたき討ちの為、蒋介石に直接嘆願した。事実を知った蒋介石は立腹してその局長を銃殺してしまった。私はこれだけしか覚えておらず、詳しいことはそれ以上知らなかった。2020年の現在は武漢ウイルスの流行で3月以来在宅謹慎で暇なので、昔のことを思い出しながら調べ始めた。こういうわけでこの軍法局長の銃殺の詳しいことが初めてわかった。

事件の由来 

『榕樹文化』(第67、68号)で蒋偉国の夫人について書いた。今包啓黄の件を調ベていると、蒋偉国夫人とも関係が有るので驚いている。宋美齢がいろいろ雑費が必要なので、蒋偉国の管轄の戦車軍団が300万ドル香港から色んなものを買った。300万アメリカドルが勝手に使われたことに驚いた上の人はそれを許可した副司令官の大佐の人に証拠を出せと言うた。大佐は許可した書類を見せた。それには蒋偉国夫人が許可をサインしていた。
 それを知った蒋経国が蒋介石に報告して、蒋介石が立腹した。その300万ドルを許可した大佐を軍事裁判にかけた。大佐夫人は夫を助けるため、軍法局長に助けを求めた。その局長が包啓黄で20万ドル賄賂をとり、その上に夫人を犯した。そのうちに包氏は娘を求めた。夫人は夫を助けたいため自分の娘を局長の言うとおりに差し出した。夫人は其のうちに夫は無事に帰ってくると思っていた。しかし最後にわかったことは夫は罪を問われ銃殺された。憤慨した夫人はかたきを討とうと決心していろいろな人に頼んだ。
 蒋経国の特務の毛人鳳が同情し、その上彼は包局長が嫌いであった。毛氏は夫人に唯一の方法は蒋介石に直訴することだと知らせた。蒋介石は士林の家から台北の総統府まで車で行くから、中山南路のある角に来ると車は遅くなるから、その時に道路で直訴しろと言うた。それ以外に方法はないと告げた。
 夫人は蒋介石に事情を書いて胸に抱きじめ、蒋介石の車が曲がり角で遅くなった時に、車の前にさっと飛び込み手紙を差し上げた。それを読んで蒋介石は大いに怒り、すぐに包局長を逮捕しろと命令した。

包局長の逮捕

 蒋介石の命令の5時間後に憲兵隊は軍法局を包囲し、2人の憲兵将校が包局長に面会して、捕まえに来たと告げた。包は俺は中将だけど何の証拠があるのかと聞いた。憲兵将校は蒋介石直筆の逮捕状を見せ、一緒についてくるなら、手錠をはめないから、彼の部下は何もわからない。もし拒否するなら、軍法局はすでに憲兵に囲まれていると告げた。
 憲兵は5日間彼を尋問して、こっそり尋間を全部録音した。尋間が終わった後、憲兵は録音したのを文字に書き替え、それを包局長に見せた。包氏は自分に不利なことまでみな述ベているのに驚いた。憲兵は自白書を書けと命令し、ここに録音があるから疑うなら聞かせてあげると言うた。彼は何ともできず、録音で書かれたことをもう一度自分で書き直して自白書とした。
 その自白書は3万字にも及び、如何にして汚職したか、いかにして多くの婦女を犯したか、詳しく書いていた。この自白書によると彼は30人以上の婦人を犯していた。これはみな軍事裁判にかけられた人たちの夫人であった。つまり刑を軽くするから、金を出させ、また一緒に寝れと言うたのであった。
 包啓黄は蒋介石の信用が深かった理由は、国民党が大陸から台湾に逃げ出すとき、包氏に命じて西安事変の首謀者楊虎城将軍一家を殺害した。また台湾で中共のスパイで国民党政府の中で最高の地位に就いた参謀副総長の呉石将軍の尋間をして、呉石の足を折った人であった。とにかく蒋介石に反対するものはみな彼が拷間にかけて死刑にした人物であった。それで蒋介石の信用が深かった。

裁判 

 裁判と言うてもこれは形式だけで、包氏が逮捕されたときから死刑と決まっていた。中国人は形式を重んずるので、一応裁判してから死刑にした。裁判長は余漢謀将軍で大将である。裁判は予想通り死刑となり、包氏は1955年新店の軍事看守所で銃殺された。
 包氏は軍事裁判の一番上の人で中将であったが、この事件で新店の新しく作られた軍事看守所で殺された。不思議なのは処刑の場所は包氏が軍法局長の時、新しく作ったモダンな軍事刑務所であった。水洗便所、水道等完備しており、牢屋に入れられた大陸からの下っ端の軍人はこんなモダンな設備を見たことがない。
 毛氏は彼が建設した軍事拘留所が自慢で、よく新聞記者を招待して見せたりした。この新しい看守所で死刑になったのは彼が初めてある。皮肉にも彼が作つた自慢の所で死刑第1号になった。

蒋偉国夫人石静宜 

『榕樹文化』(第67、67号)で私の同級生の姉である石静宜について述べ、責任をとって自殺したと書いた。しかしこの包啓黄の物語を調べてわかったこと蒋経国、蒋偉国が小さい時は蒋介石は蒋偉国を可愛がり、蒋経国に対しては冷淡であった。蒋偉国と蒋経国は前から仲が良くなかった。成人した後、蒋偉国は戦車軍団の総司令であった。しかし副指令の人が謀反を起こそうとして以来、蒋介石は蒋偉国を信用しなくなった。
 それに反し、自分の子である蒋経国を信頼するようになった。蒋経国夫人はロシア人であるが、蒋介石のお気に入りであった。しかし蒋偉国夫人とは冷たい関係であった。蒋偉国夫人の死亡は、自殺でなく毒殺されたのであった。それは蒋介石が命令したのか、それとも蒋経国がしたのかわからないが、2人の男が蒋偉国夫人宅に侵入して無理やり毒を飲ませたのであった。その時蒋偉国はアメリカに出張中であった。 
 独裁者の特徴は権力維持のため無情で身内の人も殺す場合も在る。例えばムソリーニの婿チアノ外務大臣は彼に反対投票したため死刑になった。そのときムソリーニの娘が貴方の孫の父を助けてくれと嘆願したが聞かなかった。スターリンの息子がドイツ軍の捕虜になった時、ロシアの将軍たちがドイツの高官捕虜と交換して解放しようとしたが、スターリンは拒絶した。息子はドイツの捕虜収容所で自殺した。それで石静宜が殺されたのも、蒋介石又は蒋経国によってなされたものと思う。台湾でもこの情報はあまりないので、知っている人も少ない。


 
恐怖時代の台湾の思い出②
台湾電力公司総経理 
劉晉鈺的槍殺(銃殺)

 私が台湾大学にいた時劉晋鈺の息子がおり、同じ科目をとるときに時々彼を見た。私は彼の父が台湾電力会社の社長で蒋介石に銃殺されたことは知っていた。同情はしていたが、相手に声をかける代わりに、何も聞かないほうが良いと思って話したことは無かった。劉氏が処刑されたのは1950年の7月でその時私は大学の2年生であった。
  70年前のことなので総経理の名前を忘れてしまったが、元台湾電力に勤めていた林炳炎氏が教えてくれたので、また社長さんのお名前を知ることが出来た。当時私が知っていた事情は彼の子供が大陸に居り、共産党が台湾を占領した時に日月潭にある発電所を壊さないでそのまま無傷にして渡すようにといわれ、それを承諾したためという事であった。 
 彼はカトリック教徒であったので逮捕されると、奥さんがびっくりして知り合いのカトリックの司教の方に助けてくれと頼んだ。その司教は蒋介石ともよく知り合いであった。それでその司教は蒋介石に刑を軽くしてくれるように頼んだ。蒋介石はこの司教が話すまではこのことは知らなかったそうだ。当時は蒋介石は大陸を追い払わされたばかりで、共産党を徹底的に恨んでいた。そのことを聞いて蒋介石はかっと怒りだし、死刑にしろと言った。それで蒋介石の鶴の一声で彼は死刑となった。
 司教の助言が逆効果になったのであった。実際には死刑になるほどでなかったことと聞いている。当時の写真ではもう一人の職員も同時に処刑された。その職員の名前は当時知らなかったが、今回この文を書くのにあたり、名前は見つけ出した。しかし何故彼が社長さんと一緒に銃殺されたかは昔も今も知らない。こういうわけで電力会社社長宅は誰も住みたがらないそうである。ここまでが私が台湾で知っていたことである。

 最近私はこの文を書くあたり、少し調べてみた。驚いたことには彼が共産党の指示を受けたのは蔡孝乾が国民党に捕まった時に白状したためであった。蔡孝乾は共産党が台湾に派遣した最高責任者であったが、国民党に逮捕されて白状するかでなければ殺されるという選択しかないので、生きる道を選んだのである。
 蔡孝乾については以前何回も詳しく述べたが、今回の劉晉鈺の銃殺も蔡孝乾による白状の一部であることを知り、驚いているところである。噂によると蔡孝乾のおかげで1100人ばかし銃殺されたとのことである。それからこの記事を書くため調べて分かったことは劉社長には5人の息子と1人の娘がいた。息子5人の3人はすでに共産党に入っていて、台湾で情報を収集していた。息子3人は台湾大学に入学していたので、私が見た息子はこの3人の内どの一人かわからない。

日月潭にある台湾電力会社の発電所

 

 劉社長は上海の復旦大学を卒業後フランスに留学した。1930年に中国にもどり国民政府のいろいろな要職に就いた。特に電気関係の職に携わり、蒋介石の信用が高かった。劉社長と一緒に死刑になった台湾電力会社の社員厳恵先という人の経歴を調べたが、出てこなかったので、何でこの方が同時に処刑されたのかは私にはわからない。

 当時の職員録や董事や監察員を調べたが、厳恵先氏の名前がなかったが、董事に母の叔父である林献堂があり、また監察員としては別な母の叔父 林正Linの名前があった。

 私は電力と関係がないので日月潭の発電所についてはここで述べる以上のことは知らない。しかし日月潭は有名な所なので3回行ったことがあり、内2回は涵碧楼という旅館に泊まった。 

日月潭は台湾で一番大きい淡水の湖

 日月渾は台湾で一番大きい淡水の湖で、以前は台中からバスや車で行ったが、今では台北から直通のバスがあり、半日で行くことが出来、大変便利になった。私は終戦直後台中のお医者さんたちの宴会に一緒に行った。2回目は地震の跡と、霧社事件の後日本軍が初めて毒ガスを使った霧社にある遺跡を見て写真を撮る為行った。私は『化学・生物兵器概論』という本を出すときに、日本軍が日月潭の近くで毒ガスを使ったことを書いたので、写真をそのため使用し た。3回目は台湾のラマン分光会がここで開かれたときに Keynote Speakerとして行ったときであった 。

【編集部解説】劉晉鈺(りゅう・しんぎょく)は中華民国の電力事業の専門家で、台湾電力の会長職などを歴任した。1950年7月、スパイ容疑で逮捕され、台湾電力職員の厳恵先とともに銃殺刑に処される。


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