それから実際に行軍をはじめるまでが、また長かった。
兵の数をそろえ、部将をまとめ、飼い葉をたっぷりやった馬が万全かどうかを念のためしらべさせ、緊張した面持ちでぴかぴかの鎖帷子を身にまとった兵卒たちに今度はきちんと演説をし、兵糧はじゅうぶんに持ったか、水を忘れているような粗忽者はないかと呼びかけてから、さて、出発である。
顔良が任されたのは歩兵ばかり数万の兵で、かれらが地面を踏みしめるたびに巻き起こる砂塵で、あたりは茶色く煙っていた。
部将たちは騎馬に乗り、兵卒たちを引き連れる。いつ戦にのぞむときでも、どこか物見遊山にでもいくような顔をした陳到は、あいかわらずのほほんとした表情で、顔良のうしろで馬に揺られている。
そののん気な顔を見ていると、顔良も無駄な力が抜けるのであった。
沮授、顔良、淳于瓊の軍団、という順番で列を成して、黎陽を出発する。
行列を歓声で見送る者たちもいれば、沈黙のまま、心配そうに眺めている者もいる。
軍馬の蹄鉄が地面を蹴る音と、兵卒たちが地面を踏みしめる音と、そのたびに鎖帷子や甲冑ががちゃがちゃとたてる音のせいで、否が応でもこれから戦がはじまるのだという緊張感がたかまってくる。
それでも、顔良をはじめとする兵の表情の中には、極端な悲壮感というものはなかった。だれもが、この戦は勝てるものだと考えている。
曹操の兵力はちいさく、恐れるに足らぬものであったからだ。
そうしてもくもくとつづく行軍が、途中でぴたりと止まった。
最初は、はて、なにゆえ先頭はまごついているのだろうといぶかしみつつ、いずれは動き出すだろうとおもって悠然としていたのであるが、それが風が吹き、太陽が真上ちかくに移動しはじめてもまだ動かない。
兵卒たちもざわめきはじめたので、気を利かせた陳到が先頭をうごかしている沮授の元へ馬を走らせた。
ほどなくかれは戻ってきて、めずらしく蒼い顔をして顔良に言った。
「将軍、一大事でございますぞ、行軍が止まっているのは、あくまで持久戦を主張する田豊どのが、なんとかそれを食い止めんと、門のそばでがんばっているからなのです」
「なんと、この期に及んで、まだ持久戦を主張するか。われらは出陣するのだぞ。そのめでたいときに」
「それだけではございませぬ、田豊どのには紅霞さまもお供をしていらして、ともに見送りに出ている主公に、戦を中止するように直訴しているのでございます」
「なんだと、して、主公は」
「は、それが、田豊どのの無礼な態度にたいそうお怒りのごようす。それを沮授どのが必死になだめてらっしゃるのです」
つづく…
兵の数をそろえ、部将をまとめ、飼い葉をたっぷりやった馬が万全かどうかを念のためしらべさせ、緊張した面持ちでぴかぴかの鎖帷子を身にまとった兵卒たちに今度はきちんと演説をし、兵糧はじゅうぶんに持ったか、水を忘れているような粗忽者はないかと呼びかけてから、さて、出発である。
顔良が任されたのは歩兵ばかり数万の兵で、かれらが地面を踏みしめるたびに巻き起こる砂塵で、あたりは茶色く煙っていた。
部将たちは騎馬に乗り、兵卒たちを引き連れる。いつ戦にのぞむときでも、どこか物見遊山にでもいくような顔をした陳到は、あいかわらずのほほんとした表情で、顔良のうしろで馬に揺られている。
そののん気な顔を見ていると、顔良も無駄な力が抜けるのであった。
沮授、顔良、淳于瓊の軍団、という順番で列を成して、黎陽を出発する。
行列を歓声で見送る者たちもいれば、沈黙のまま、心配そうに眺めている者もいる。
軍馬の蹄鉄が地面を蹴る音と、兵卒たちが地面を踏みしめる音と、そのたびに鎖帷子や甲冑ががちゃがちゃとたてる音のせいで、否が応でもこれから戦がはじまるのだという緊張感がたかまってくる。
それでも、顔良をはじめとする兵の表情の中には、極端な悲壮感というものはなかった。だれもが、この戦は勝てるものだと考えている。
曹操の兵力はちいさく、恐れるに足らぬものであったからだ。
そうしてもくもくとつづく行軍が、途中でぴたりと止まった。
最初は、はて、なにゆえ先頭はまごついているのだろうといぶかしみつつ、いずれは動き出すだろうとおもって悠然としていたのであるが、それが風が吹き、太陽が真上ちかくに移動しはじめてもまだ動かない。
兵卒たちもざわめきはじめたので、気を利かせた陳到が先頭をうごかしている沮授の元へ馬を走らせた。
ほどなくかれは戻ってきて、めずらしく蒼い顔をして顔良に言った。
「将軍、一大事でございますぞ、行軍が止まっているのは、あくまで持久戦を主張する田豊どのが、なんとかそれを食い止めんと、門のそばでがんばっているからなのです」
「なんと、この期に及んで、まだ持久戦を主張するか。われらは出陣するのだぞ。そのめでたいときに」
「それだけではございませぬ、田豊どのには紅霞さまもお供をしていらして、ともに見送りに出ている主公に、戦を中止するように直訴しているのでございます」
「なんだと、して、主公は」
「は、それが、田豊どのの無礼な態度にたいそうお怒りのごようす。それを沮授どのが必死になだめてらっしゃるのです」
つづく…