孔明の幕舎に戻ると、すすり泣きのつづく中で、姜維は、ひとりだけ、人の輪から外れて、孔明の棺を見つめている。
表情をなくし、目を見開いたまま、涙がこぼれるままに任せていた。
それが、まるで、父親に先立たれ、この世にたった一人で残された子供のように見えて、ひどく哀れに見えた。
悲しみにくれる周囲の人々に気取られぬように注意しながら、文偉は近づくと、茫然自失の態にある姜維に呼びかけた。
「姜将軍、姜将軍」
しかし、姜維はまったく反応を示さず、人形のように動こうとしない。
文偉はちいさくため息をついて、それから、両の手で姜維の頬を挟むようにして打つと、再度、呼びかけた。
「伯約!」
字を呼ばれたことが意外だったのか、姜維は、驚いたような顔をして、ようやく文偉のほうに顔を向けた。
しかし、まだ現実に意識が戻らないのか、目の前に文偉がいることが、理解できないようである。
とはいえ、ゆっくりと姜維の回復を待ってはいられなかった。
文偉は、姜維の肩を抱くようにして、人々の目に付かぬように、幕舎の暗がりに屈みこんだ。
「おまえの悲しみはわかる。しかし、聞け。丞相のお志を曲げようとする者を、我らは排除せねばならぬ。すぐに動かねば、遅れを取る」
「丞相のお志を曲げる?」
それまで無表情であった姜維の顔に、ようやくはっきりと感情が兆した。
文偉は、こくりと頷く。
「いま、われらの敵は、もはや司馬仲達ではない」
では、だれか、と問いたげな姜維に目配せをして、文偉は、周囲がこちらを見ていないか気をつけながら、素早く地面に二文字を記した。
楊
魏
魏延はともかく、楊儀を示す字に、姜維は冷静な武将の顔を取り戻し、怪訝そうに顔を上げる。
「丞相の後継は、楊長史ではない。蒋琬だ。楊長史は、いまだそのことを知らず、己がつぎの後継だと信じておる。魏将軍を討ったあとは、成都に帰還し、丞相の後継として、陛下に取り入り、軍を完全に撤退し、蜀に籠もる作戦を取るつもりだ」
と、姜維に説明しながらも、文偉は、ふと、いやな可能性を思い描いた。
孔明と劉禅の絆が厚いものだと信じていたが、本当にそうか?
孔明とはべつに、楊儀は劉禅と、なんらかの連絡を取ってはいないだろうか。
楊儀の言葉が妄想ではないとしたら、劉禅の心は、楊儀の語ったとおりであるということだ。
孔明は、次の後継を蒋琬と指名し、了解を得ていたといっていた。
しかし、それは本当に、劉禅の納得の上でのことだったろうか。
孔明の志を引き継ぐ蒋琬を、土壇場になって認めないと言い出す可能性はないか。
文偉は、劉禅が皇太子であったころから、側に仕えていた。
だが、劉禅という人物、それこそ空気のようにつかみ所がない。
正直で素直かと思えば、平然と嘘をつくし、孤独を好むかと思えば、急に思い立って、派手な宴を開こうと言い出す。
そして、どれだけ尽くしても、劉禅は文偉たちに心を開こうとしなかった。
霧の向こうに身を隠しつづけて姿を現そうとしないひとと、ともに旅をしているような、奇妙な感覚がある。
ある程度、気心もしれているのだが、本音は明確ではないのだ。
しかも厄介なことに、こちらの気性は読まれているから、自分の気に染まぬことを文偉らが考えていると、野兎のように敏感に、逃げ出してしまう。
そんなふうであるから、楊儀の言葉を、妄言と一蹴できないのだ。
たとえ、すべてが事実ではないとしても、たしかに、楊儀や、劉禅の周囲にいる、孔明に反発を抱いていた一派が工作をはじめるまえに、成都の蒋琬たちも、自分たちの足場を固めておく必要がある。
孔明の死を知らせる早馬は出した。
蒋琬や休昭は、孔明の遺志を汲み取り、うまくやってくれているだろうか?
そして、もともと人を疑い、策謀を張り巡らせることが得意ではない文偉は、苛立って、己の頭をかきむしる。
ええい、なんと苦しい。
そして苛立たしいことか。
おのれの君主まで疑わねばならぬとは!
「どうなさいました」
姜維が、すでにいつもの顔を取り戻し、心配そうに尋ねてくる。
強い男だ、と文偉は心強く思う。
「すまぬな。平静であらねばならぬと判っているのだが、わたしも動揺してしまっているのだ」
「当然でしょう。動揺しないほうが、どうかしている」
「そうだ。どうかしているのだ。伯約よ、わたしはこれより、北谷口に参ろうかと思う」
文偉のことばに、姜維はおどろいて、体ごと、文偉のほうを向いた。
あわてて、文偉は周囲を気にしつつ、たしなめる。
「落ち着いて聞け。たしかに丞相はああ仰られたが、楊長史の思惑が明らかになった以上、魏将軍ばかりに一方的に責めを負わせるような結果になるのは、心苦しい。せめて、機会をさしあげたいのだ。魏将軍が、まことに趙直の見たように、二心があるのか、それを確かめてくる」
「お一人で大丈夫ですか」
その言葉に、文偉はわずかに笑みを浮かべた。
「大丈夫もなにも、ここには、おまえとわたし意外に、もはや丞相のお志を、真に引き継ぐ者はいない。二人で出かければ、楊長史は暴走する。おまえは、楊長史に注意してくれ」
「判り申した。では、わたしの馬をお貸しいたします。おそらくこの陣で、もっとも足の速い馬でございますゆえ」
「うむ、助かる。おまえは、楊長史、馬将軍と協力し丞相のご遺体を守り、兵卒たちが動揺せず、無事に成都に帰れるように進めよ。ご遺体は、魏の動きをいつでも見ていられるように、漢中の定軍山に葬ってくれとの、あの方の御遺言だ」
「あの方らしい」
そういって笑う姜維の目先には、孔明の棺があり、その睫毛には、涙の玉が浮かんでいた。
表情をなくし、目を見開いたまま、涙がこぼれるままに任せていた。
それが、まるで、父親に先立たれ、この世にたった一人で残された子供のように見えて、ひどく哀れに見えた。
悲しみにくれる周囲の人々に気取られぬように注意しながら、文偉は近づくと、茫然自失の態にある姜維に呼びかけた。
「姜将軍、姜将軍」
しかし、姜維はまったく反応を示さず、人形のように動こうとしない。
文偉はちいさくため息をついて、それから、両の手で姜維の頬を挟むようにして打つと、再度、呼びかけた。
「伯約!」
字を呼ばれたことが意外だったのか、姜維は、驚いたような顔をして、ようやく文偉のほうに顔を向けた。
しかし、まだ現実に意識が戻らないのか、目の前に文偉がいることが、理解できないようである。
とはいえ、ゆっくりと姜維の回復を待ってはいられなかった。
文偉は、姜維の肩を抱くようにして、人々の目に付かぬように、幕舎の暗がりに屈みこんだ。
「おまえの悲しみはわかる。しかし、聞け。丞相のお志を曲げようとする者を、我らは排除せねばならぬ。すぐに動かねば、遅れを取る」
「丞相のお志を曲げる?」
それまで無表情であった姜維の顔に、ようやくはっきりと感情が兆した。
文偉は、こくりと頷く。
「いま、われらの敵は、もはや司馬仲達ではない」
では、だれか、と問いたげな姜維に目配せをして、文偉は、周囲がこちらを見ていないか気をつけながら、素早く地面に二文字を記した。
楊
魏
魏延はともかく、楊儀を示す字に、姜維は冷静な武将の顔を取り戻し、怪訝そうに顔を上げる。
「丞相の後継は、楊長史ではない。蒋琬だ。楊長史は、いまだそのことを知らず、己がつぎの後継だと信じておる。魏将軍を討ったあとは、成都に帰還し、丞相の後継として、陛下に取り入り、軍を完全に撤退し、蜀に籠もる作戦を取るつもりだ」
と、姜維に説明しながらも、文偉は、ふと、いやな可能性を思い描いた。
孔明と劉禅の絆が厚いものだと信じていたが、本当にそうか?
孔明とはべつに、楊儀は劉禅と、なんらかの連絡を取ってはいないだろうか。
楊儀の言葉が妄想ではないとしたら、劉禅の心は、楊儀の語ったとおりであるということだ。
孔明は、次の後継を蒋琬と指名し、了解を得ていたといっていた。
しかし、それは本当に、劉禅の納得の上でのことだったろうか。
孔明の志を引き継ぐ蒋琬を、土壇場になって認めないと言い出す可能性はないか。
文偉は、劉禅が皇太子であったころから、側に仕えていた。
だが、劉禅という人物、それこそ空気のようにつかみ所がない。
正直で素直かと思えば、平然と嘘をつくし、孤独を好むかと思えば、急に思い立って、派手な宴を開こうと言い出す。
そして、どれだけ尽くしても、劉禅は文偉たちに心を開こうとしなかった。
霧の向こうに身を隠しつづけて姿を現そうとしないひとと、ともに旅をしているような、奇妙な感覚がある。
ある程度、気心もしれているのだが、本音は明確ではないのだ。
しかも厄介なことに、こちらの気性は読まれているから、自分の気に染まぬことを文偉らが考えていると、野兎のように敏感に、逃げ出してしまう。
そんなふうであるから、楊儀の言葉を、妄言と一蹴できないのだ。
たとえ、すべてが事実ではないとしても、たしかに、楊儀や、劉禅の周囲にいる、孔明に反発を抱いていた一派が工作をはじめるまえに、成都の蒋琬たちも、自分たちの足場を固めておく必要がある。
孔明の死を知らせる早馬は出した。
蒋琬や休昭は、孔明の遺志を汲み取り、うまくやってくれているだろうか?
そして、もともと人を疑い、策謀を張り巡らせることが得意ではない文偉は、苛立って、己の頭をかきむしる。
ええい、なんと苦しい。
そして苛立たしいことか。
おのれの君主まで疑わねばならぬとは!
「どうなさいました」
姜維が、すでにいつもの顔を取り戻し、心配そうに尋ねてくる。
強い男だ、と文偉は心強く思う。
「すまぬな。平静であらねばならぬと判っているのだが、わたしも動揺してしまっているのだ」
「当然でしょう。動揺しないほうが、どうかしている」
「そうだ。どうかしているのだ。伯約よ、わたしはこれより、北谷口に参ろうかと思う」
文偉のことばに、姜維はおどろいて、体ごと、文偉のほうを向いた。
あわてて、文偉は周囲を気にしつつ、たしなめる。
「落ち着いて聞け。たしかに丞相はああ仰られたが、楊長史の思惑が明らかになった以上、魏将軍ばかりに一方的に責めを負わせるような結果になるのは、心苦しい。せめて、機会をさしあげたいのだ。魏将軍が、まことに趙直の見たように、二心があるのか、それを確かめてくる」
「お一人で大丈夫ですか」
その言葉に、文偉はわずかに笑みを浮かべた。
「大丈夫もなにも、ここには、おまえとわたし意外に、もはや丞相のお志を、真に引き継ぐ者はいない。二人で出かければ、楊長史は暴走する。おまえは、楊長史に注意してくれ」
「判り申した。では、わたしの馬をお貸しいたします。おそらくこの陣で、もっとも足の速い馬でございますゆえ」
「うむ、助かる。おまえは、楊長史、馬将軍と協力し丞相のご遺体を守り、兵卒たちが動揺せず、無事に成都に帰れるように進めよ。ご遺体は、魏の動きをいつでも見ていられるように、漢中の定軍山に葬ってくれとの、あの方の御遺言だ」
「あの方らしい」
そういって笑う姜維の目先には、孔明の棺があり、その睫毛には、涙の玉が浮かんでいた。