文偉は、休まず、数騎を伴い、すぐに北谷口に向けて出発した。
伴をするのは、姜維がみずから選んだ、姜維の部隊のなかでも、特に腕が立ち、そのうえ口の固い者たちばかりである。
姜維は、かれらには、孔明が死去したことを伝えた。
そして、魏延が、万が一、文偉に危害をくわえようとした場合には、なにがあっても文偉を守り、北谷口を抜け出し、帰還せよと命じた。
孔明の死を知った、魏延と通じる者が、ひそかに使者を送っていないかと注意しながらの道中である。
一睡もしていない状態で、ひたすら北に向けて馬を走らせる旅は辛いものであったが、心が高揚しているためか、疲労はさほどおぼえずに済んだ。
魏延に、先に情報を与えてはならない。
あらわれた文偉に、本心とはちがう答えをする可能性があるからだ。
できることならば、大人しく、ともに成都に帰ると答えてほしかった。
孔明の遺言に背くことになる。
それは判っていたが、楊儀の本音を聞いたあとでは、どうしても、魏延の本心も聞きたかったのである。
楊儀も、魏延も、ともに先代を知る人間だ。
本来ならば、自分たちよりも、孔明を理解しているはずの人間である。
どちらかでも、孔明の死を悼み、志を守ろうと言ってほしかった。
楊儀がだめならば、せめて魏延だけでも。これもまた、感傷からくる悪あがきなのだろうか。
ほぼ半日をかけてようやくたどり着いた北谷口には、まだものものしい空気はない。
だれもまだ、己の先に到着していないことに安堵し、文偉は、魏延に目通りを願った。
あえて、楊儀から命じられた、と告げた。
魏延が、楊儀の名にこだわり、面会を拒むようならば、魏延が軍を動かす証左だ。
構えた文偉であるが、魏延はあらわれた。
いかつい顔に紅潮した頬をして、息子たちとともにあらわれた魏延を見て、文偉は、もしや、孔明のことが漏れたかと危ぶんだ。
しかし、孔明の死を告げた時点で、そうではないことがわかった。
魏延は、文偉が、わずかな伴だけをつれて、陣を訪れたことで、孔明の死を直感したのである。
魏延は、孔明の死の報に触れると、ひとすじの涙を流した。
そして孔明の死を悼むと述べた。
孔明のことを、あれほど臆病だと罵っていた男の涙に、文偉も心を動かされた。
同時に期待をする。
魏延は、ともに帰ると言ってくれるのではないか。
「丞相のご遺言で、全軍撤退と相成りました。この北谷口の陣も、すみやかに撤収を願いたい」
しかし魏延は、その言葉が出ることを予測していたらしく、とうに涙を乾かし、腕を組んだまま、文偉に尋ねた。
「指揮はだれが執る」
「楊長史でございます」
とたん、魏延は鼻で笑い、うしろに控える息子たちも失笑を漏らした。
それは、まわりで話を聞いている部将たちも同じであった。
魏延は、笑いが収まるのを待ってから、吐き捨てるように言った。
「笑止! 楊儀ごときに軍を統率できるものか!」
「しかし、ご遺言にございます」
文偉が食い下がると、魏延は、顔を険しくして、一歩、文偉に歩み寄った。
「費司馬、俺をだれと思う。先帝の御世において、漢中を守りきり、蜀の今日を築いた男、魏文長なるぞ。いま、諸軍を見渡すに、俺ほどの功績を上げた者がおるか? 司馬仲達が動かぬのも、蜀に魏文長ありと恐れているからだ」
文偉の脳裏には、趙直の夢解きの話がすぐに浮かんだ。
まさか、魏延は、趙直の麒麟にかこつけたでまかせを疑うこともせず、鵜呑みにしているのではないか。
楊儀と魏延。お互いに憎悪を燃やし、ついには、まともな判断も出来ぬほどに、狂ってしまったのか。
「楊儀ごときに従い、殿(しんがり)など務められぬ! 貴殿はいますぐ楊長史のもとへ帰還し、こう伝えよ。貴殿らは、丞相のご遺体を持って、成都に帰れ。兵卒は、俺がもらう」
不遜な言葉に文偉は眉をひそめるが、魏延は高らかにつづける。
「丞相がお亡くなりになったことは、たしかに国の大事である。しかしだ、この北伐は、中原回復を目的とした、先代からの悲願であろう。それを、たった一人の人間が死んだからといって、廃するわけにはいかん!」
まったくだ、文官は、これだからいかん、などといった声が、魏延の息子たち、部将たちから、口々に漏れた。
ちょうど、文偉は、それらに囲まれる形となった。
結束力は高い、というわけか。
魏延は、たしかによく兵をまとめているようだ。
だが。
文偉は、気を鎮め、息をつくと、再度尋ねた。
「では、将軍は、このまま戦を続けられるとおっしゃるか」
「当たり前だ。丞相が死んだことは、いずれ司馬仲達にも知れる。そうなれば、連中はここぞとばかり、打って出るであろう。そこを、俺が迎撃するのだ。反撃はないと思っているであろうから、連中は泡を食って逃げ出そう。丞相すら為しえなかったことを、俺が成功させれば、国の者も、楊長史と俺と、どちらが上か、判るというものだ」
魏延は高らかにいうと、周囲の賛同を求める。
その素振りに呼応し、四方から、そうだ、そのとおりだと、追従の声が起こった。
愚かな。
この人も駄目かという失望と同時に、冷たく、それでいて、滾るような憎悪が、文偉の中に生まれた。
魏延は、兵卒たちの中にある、孔明への絶大な信頼を、あまりに過少評価している。
それは、魏延の、孔明に対する想いがどんなものであったかを、暴露するものであった。
陣を維持したところで、孔明が死んだと知れば、子飼いの部将らはともかく、兵卒たちの士気は落ちるのは明らか。
そんな状態で、夢占の結果にしがみ付き、ろくな戦術もなく老練な司馬仲達にぶつかれば、どちらが勝つか、それは文官である自分でさえ、すぐに答えが出せる問題だ。
伴をするのは、姜維がみずから選んだ、姜維の部隊のなかでも、特に腕が立ち、そのうえ口の固い者たちばかりである。
姜維は、かれらには、孔明が死去したことを伝えた。
そして、魏延が、万が一、文偉に危害をくわえようとした場合には、なにがあっても文偉を守り、北谷口を抜け出し、帰還せよと命じた。
孔明の死を知った、魏延と通じる者が、ひそかに使者を送っていないかと注意しながらの道中である。
一睡もしていない状態で、ひたすら北に向けて馬を走らせる旅は辛いものであったが、心が高揚しているためか、疲労はさほどおぼえずに済んだ。
魏延に、先に情報を与えてはならない。
あらわれた文偉に、本心とはちがう答えをする可能性があるからだ。
できることならば、大人しく、ともに成都に帰ると答えてほしかった。
孔明の遺言に背くことになる。
それは判っていたが、楊儀の本音を聞いたあとでは、どうしても、魏延の本心も聞きたかったのである。
楊儀も、魏延も、ともに先代を知る人間だ。
本来ならば、自分たちよりも、孔明を理解しているはずの人間である。
どちらかでも、孔明の死を悼み、志を守ろうと言ってほしかった。
楊儀がだめならば、せめて魏延だけでも。これもまた、感傷からくる悪あがきなのだろうか。
ほぼ半日をかけてようやくたどり着いた北谷口には、まだものものしい空気はない。
だれもまだ、己の先に到着していないことに安堵し、文偉は、魏延に目通りを願った。
あえて、楊儀から命じられた、と告げた。
魏延が、楊儀の名にこだわり、面会を拒むようならば、魏延が軍を動かす証左だ。
構えた文偉であるが、魏延はあらわれた。
いかつい顔に紅潮した頬をして、息子たちとともにあらわれた魏延を見て、文偉は、もしや、孔明のことが漏れたかと危ぶんだ。
しかし、孔明の死を告げた時点で、そうではないことがわかった。
魏延は、文偉が、わずかな伴だけをつれて、陣を訪れたことで、孔明の死を直感したのである。
魏延は、孔明の死の報に触れると、ひとすじの涙を流した。
そして孔明の死を悼むと述べた。
孔明のことを、あれほど臆病だと罵っていた男の涙に、文偉も心を動かされた。
同時に期待をする。
魏延は、ともに帰ると言ってくれるのではないか。
「丞相のご遺言で、全軍撤退と相成りました。この北谷口の陣も、すみやかに撤収を願いたい」
しかし魏延は、その言葉が出ることを予測していたらしく、とうに涙を乾かし、腕を組んだまま、文偉に尋ねた。
「指揮はだれが執る」
「楊長史でございます」
とたん、魏延は鼻で笑い、うしろに控える息子たちも失笑を漏らした。
それは、まわりで話を聞いている部将たちも同じであった。
魏延は、笑いが収まるのを待ってから、吐き捨てるように言った。
「笑止! 楊儀ごときに軍を統率できるものか!」
「しかし、ご遺言にございます」
文偉が食い下がると、魏延は、顔を険しくして、一歩、文偉に歩み寄った。
「費司馬、俺をだれと思う。先帝の御世において、漢中を守りきり、蜀の今日を築いた男、魏文長なるぞ。いま、諸軍を見渡すに、俺ほどの功績を上げた者がおるか? 司馬仲達が動かぬのも、蜀に魏文長ありと恐れているからだ」
文偉の脳裏には、趙直の夢解きの話がすぐに浮かんだ。
まさか、魏延は、趙直の麒麟にかこつけたでまかせを疑うこともせず、鵜呑みにしているのではないか。
楊儀と魏延。お互いに憎悪を燃やし、ついには、まともな判断も出来ぬほどに、狂ってしまったのか。
「楊儀ごときに従い、殿(しんがり)など務められぬ! 貴殿はいますぐ楊長史のもとへ帰還し、こう伝えよ。貴殿らは、丞相のご遺体を持って、成都に帰れ。兵卒は、俺がもらう」
不遜な言葉に文偉は眉をひそめるが、魏延は高らかにつづける。
「丞相がお亡くなりになったことは、たしかに国の大事である。しかしだ、この北伐は、中原回復を目的とした、先代からの悲願であろう。それを、たった一人の人間が死んだからといって、廃するわけにはいかん!」
まったくだ、文官は、これだからいかん、などといった声が、魏延の息子たち、部将たちから、口々に漏れた。
ちょうど、文偉は、それらに囲まれる形となった。
結束力は高い、というわけか。
魏延は、たしかによく兵をまとめているようだ。
だが。
文偉は、気を鎮め、息をつくと、再度尋ねた。
「では、将軍は、このまま戦を続けられるとおっしゃるか」
「当たり前だ。丞相が死んだことは、いずれ司馬仲達にも知れる。そうなれば、連中はここぞとばかり、打って出るであろう。そこを、俺が迎撃するのだ。反撃はないと思っているであろうから、連中は泡を食って逃げ出そう。丞相すら為しえなかったことを、俺が成功させれば、国の者も、楊長史と俺と、どちらが上か、判るというものだ」
魏延は高らかにいうと、周囲の賛同を求める。
その素振りに呼応し、四方から、そうだ、そのとおりだと、追従の声が起こった。
愚かな。
この人も駄目かという失望と同時に、冷たく、それでいて、滾るような憎悪が、文偉の中に生まれた。
魏延は、兵卒たちの中にある、孔明への絶大な信頼を、あまりに過少評価している。
それは、魏延の、孔明に対する想いがどんなものであったかを、暴露するものであった。
陣を維持したところで、孔明が死んだと知れば、子飼いの部将らはともかく、兵卒たちの士気は落ちるのは明らか。
そんな状態で、夢占の結果にしがみ付き、ろくな戦術もなく老練な司馬仲達にぶつかれば、どちらが勝つか、それは文官である自分でさえ、すぐに答えが出せる問題だ。