白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・AIの孤独と性別未決定性

2025年03月01日 | 日記・エッセイ・コラム

千葉雅也が使っているchatGPTは「o1モデル」らしい。職場がそれなりの場所なので最新型を使えるメリットはあるだろうし、また今のところ最新型とされる「o1モデル」を相棒のように感じながらもこういう。

 

「回答がそれなりに妥当なときに、その優等生的な作文にうんざりするという意見もあるようだ。しかし、僕の見るところ、o1モデルのふるまいには、もっと微妙なところがある。理想論ではなく、諸条件を勘案した『現実的なおとしどころ』を提案してきたりする。そのことに狼狽させられる。そして、ふと、寂しくなる。身近な人が言ってもおかしくないような、一種の現実的なこと。言葉の出所が、混ざってくる感じがする。誰かから聞いたことなのか、AIが出した計算結果なのか?だが、そもそも人間の発話だって、その相当の割合が、過去の『言語断片』のくじ引きでできているんじゃないか?」(千葉雅也「AIと孤独」『群像・3・P.88』講談社 二〇二五年)

 

年少時からの個人的な癖でエッセイはごくふつうに読むという感じなのだが小説はほとんどいつも「問い」へ変換されつつ読み進める習慣が抜けない。先日も千葉雅也の創作「未来人の全身タイツ」に目をとおした時は「小説」として、「問い」へ変換されつつ読み進めている気分で読んだのだが、案の定ひとつの「問い」を転がり出してきてしまった印象がどこか消えない傷のようにわだかまっている。こう書いた。

 

«千葉雅也はいう。

 

「いろいろな多様性が承認を求めるようになった一方で、より細かな手法による自己の隠蔽が逆説的にその向こうに隠された闇を予感させること、およびそれが惹起するだろうエロティシズムが、新たな文化を形成しつつあるように思われる」(千葉雅也「未来人の全身タイツ」『群像・3・P.48』講談社 二〇二五年)

 

アームカバーやレッグカバーの「機能性」とは別に、千葉雅也はそれらにある種の「キャラ性」を感じるとともに「コスプレ風の要素」摂取への抵抗感減少、「現実のアニメ化」を指摘している。

 

ちなみに「コスプレ」のひとつに「ゾンビ」を上げることは今でもできるだろう。ただゾンビ風コスプレには「ぼろぼろで血まみれでどす黒い包帯」が付きもので、そこらへんがなんだか「アニメ/映画」的なのかもしれない。ところでしかしなぜゾンビなのか。

 

アームカバーやレッグカバーの「機能性」とは別に、現在五十七歳の読者の記憶を「惹起」させたのは小学生・中学生時代にときおり見かけた「包帯(姿)」である。実際に何らかの怪我をしているわけではない。ある日突然、腕あるいは脚に包帯を巻きつけた姿で登校してきて早退する。クラスの誰でも構わないという「任意」の「匿名性」も兼ね備えている。今思えば「機能性」とは真逆の、どこか痛々しい「包帯(姿)」で出現する生徒が少数だがいた。そしてその姿は無傷であるにもかかわらず頑なに言語化を拒む「特権性」を帯びて見えた。

 

もっとも、コスプレゾンビのように「ぼろぼろで血まみれでどす黒い包帯」であるわけはなく、むしろもし本当にそこに傷があるとすれば傷をぴたりと覆い隠しきれいに巻き付けられた包帯は小さいにもかかわらず必ずそれとわかる金属製の医療器具できちんと止められていなければならない。それは「より細かな手法による自己の隠蔽が逆説的にその向こうに隠された闇を予感させること、およびそれが惹起するだろうエロティシズム」という条件を満たすに十分なようにおもえた。

 

あれはなんだったのだろう。そして今はどんなふうに変容しているのだろう。»

 

最後の問い。「あれはなんだったのだろう。そして今はどんなふうに変容しているのだろう」。要約した上でchatGPTに訊ねてみてもかんばしい返事が得られない。かえって混乱させてしまい何だかいけないことをしてしまったような妙な気になった。とはいえ「あれはなんだったのだろう。そして今はどんなふうに変容しているのだろう」と書くはるか以前、ドゥルーズを読んでいた頃ある程度察しはついていた。もう少し細かく補足してみる。

 

小学生・中学生時代にときおり見かけた「包帯(姿)」。もっと絞り込んでみるとだいたい小学四、五年の男子が最も多く中学生になるとせいぜい一年までで二年になると探すのも困難なほど激減する。さらに一九七〇年代、小学四、五年生の男子のあいだで意味不明の感染症のように打ち広がる「機能性」とは真逆のどこか痛々しい「包帯(姿)」がぽつぽつ流行していた頃、中学二、三年から高校にかけて、風邪を引いているわけでもないのにマスクをして登校するいわゆるヤンキー女子がそこそこいて通称「マスク軍団」とか呼ばれていたのだけれどそれとこれとは明瞭な区別を要する。

 

ではなぜ小学四、五年の男子に目立った傾向であり女子ではほとんど見かけることがなかったのか。クラスの誰でも構わないという「任意」の「匿名性」は維持されつつ「ある日突然、腕あるいは脚に包帯を巻きつけた姿で登校してきて早退する」だけではなく、おそらくここが重大なヒントなのかもしれないが体育の授業がある場合包帯(姿)の下はまったくの「無傷であるにもかかわらず」<見学>し、言葉にならない不穏な痛みでも大切に抱え込んでいるかのようなやや憂鬱で瞬間的に戸惑いの稲妻でもよぎったかのような表情を垣間見せていたと、きちんと書いておくべきだったかもしれない。

 

一方女子の場合、体育の授業の<見学>は肌の見える部分に痛々しい「包帯(姿)」で出現する必要はまったくない。その意味もはっきりしておりよほど悪質ないじめっ子でない限りからかって残酷に傷つけたりしない。生理だからだ。

 

すべての男子生徒ではないにせよクラスの誰でも構わない「任意」の男児の場合は必ず肌が露出している箇所に包帯が小さくだがこの上ない貴重品のようにどこか輝かしく大変丁寧に巻き付けられている。あたかも血が滲んだりこぼれ落ちたりしたらそれこそ取り返しのつかないことになり世界がひっくり返ってしまいそうな予感とともに周囲に警戒のアンテナを張り巡らせているかのようなのだ。

 

ネット普及期と並行して世のコメンテーターが競って騒いだ「自己承認の病」というステレオタイプから「病」という文字を除去しなくてはならないだろう。小中学の女子生徒とほぼ同じ時期に思春期にさしかかる男子生徒の中には一学年の中のほんの数人だとはいえ今のアームカバーやレッグカバーの「機能性」とは別に、どこか痛々しい「包帯(姿)」で出現しないわけにはいかない必要性を無意識のうちに見せつけている生徒がいた。もしそれに「機能性」があるすればファッションやスポーツに求められるものとは異なる「機能性」、今のジェンダーでいう「性別未決定性」の証明であるというのが最も近いと考えるほかない。

 

ただ、そうした男子生徒たちのすべてがのちのち性的マイノリティへ編入されたかというとこれまた全然違ってくる。その後ほとんどの男子は何事もなかったかのようにいわゆる「ふつうの男」、どこにでもいる男性異性愛者として成長した。かつての一時期の記憶もすっかり忘れ去っていることだろう。だからといって性的マイノリティが消滅するなどといったことが一体この世のどこにあるというのか。

 

日本でも一九八〇年代後半から一九九〇年代一杯をとおして思いもよらぬ転機が訪れた。ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー」。こうある。

 

「性愛とは数かぎりない性を産み出すことであり、そのような性はいずれも制御不可能な生成変化となる。《性愛は、男性をとらえる女性への生成変化と、人間一般をとらえる動物への生成変化を経由する》。つまり微粒子の放出である。だからといって獣性の体験が必要なわけではない。性愛に獣性の体験が顔を出すことは否定できないし、精神医学の逸話にも、この点でなかなか興味深い証言が数多く含まれている。だがそれは極度の単純さから、いずれも婉曲で、愚かしいものになりさがっている。絵葉書の老紳士のように犬の『ふりをする』ことが求められているのではない。動物と交わることが求められているわけでもない。動物への生成変化を性格づけるのは何よりもまず異種の力能だ。なぜなら、動物への生成変化は、模倣や照応の対象となる動物にその現実性を見出すのではなく、みずからの内部には、つまり突如われわれをとらえ、われわれに<なること>をうながすものに現実性を見出していくからである。動物への生成変化の現実性は、《近傍の状態》や《識別不可能性》に求められる。それが動物から引き出すものは、馴化や利用や模倣をはるかに超えた、いわくいいがたい共通性だ。つまり『野獣』である」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・中・10・P.248」河出文庫 二〇一〇年)

 

「機能性」とは真逆の、どこか痛々しい「包帯(姿)」で出現する生徒。体育の授業がある場合包帯(姿)の下はまったくの「無傷であるにもかかわらず」<見学>し、言葉にならない不穏な痛みでも大切に抱え込んでいるかのようなやや憂鬱で瞬間的に戸惑いの稲妻でもよぎったかのような表情を垣間見せていた<男子生徒>。

 

いまでは世界各地でLGBT承認の動きが加速する。

 

にもかかわらず恐ろしく黴臭く時代錯誤な「絶対的男女二元論」というアメリカ大統領のわるあがき。さらに一九八四年韓国で起こった全斗煥軍事クーデタの時代錯誤から四十年を経て尹錫悦大統領が二〇二四年末の戒厳令でまたしても反復させたおそれいるばかりの時代錯誤。


コメントを投稿