白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・子どもを生むという「暴力」への対話

2025年02月27日 | 日記・エッセイ・コラム

向坂くじらはいったんまとめる。

 

「『夏物語』の夏子は迷った末に子どもを生む。これも読書会の論点になったよね。夏子はセックスができず、だから性欲が生殖の理由にはならない。また決して裕福には描かれていなくて、社会の中にある金銭的な格差や、そこから来る苦悩や傷も、確実に物語のなかにちりばめられている。それでも生むのだ。夏子は生まれたことを否定する善百合子に、上に書いた愛情ともとれるほどのふしぎな共感を寄せながら、けれど『間違うことを選ぼうと思います』と宣言する。つまり、生むことの暴力を、みとめながらも引き受けようと決める。そんなふうに、夏子の生む動機はただひとつ、『会いたい』ということへ純化されていく」(向坂くじら×紗倉まな「ふたりのための往復書簡」『群像・3・P.212』講談社 二〇二五年)

 

有名な箇所だ。

 

「『わたしがしようとしていることは、とりかえしのつかないことなのかもしれません。どうなるのかもわかりません。こんなのは最初から、ぜんぶ間違っていることなのかもしれません。でも、わたしは』

 

自分の声がかすかに震えているのがわかった。わたしは小さく息をして、善百合子を見た。

 

『忘れるよりも、間違うことを選ぼうと思います』」(川上未映子「夏物語・P.631」文春文庫 二〇二一年)

 

言うまでもなくこの箇所は読者にとってすぐさま問いとして読まれ「訊ねられているような気分になってくる」。

 

「そのプロセスがていねいに描かれていくうち、だんだん、訊ねられているような気分になってくる。というか、わたしはちょっと追い詰められるような気分になった。性欲や金銭の有無では生まないことの完璧な理由にはならない、生むことは暴力であるとしてもそれを引き受けることはできるかもしれない、それではなぜ、あなたは生まないのか、と」(向坂くじら×紗倉まな「ふたりのための往復書簡」『群像・3・P.212』講談社 二〇二五年)

 

向坂くじらは教える立場、教師でもある。一般的には戸惑っていたらやっていられない<とされる>立場であると同時に戸惑いひとつなく一瞬でも立ち止まることのないあるいは反省ひとつしない教師は生徒の側からすれば信用ひとつされない立場だ。思考は当然のごとくこう続く。

 

「教育について考えているときには、本当に怖いのはそのためらいの方でもある。『教育の失敗を認めることは、生徒の努力を認めないことになる』というわたしの錯覚を正しいとするのなら、すべての教育が成功であると言えるようになってしまうから。だから実際のところでは、生徒の努力をなかったことにも、反対に買いかぶりもせず、反省と改善を重ねていくしかないんだけど、それでも誘惑みたいにためらいは来る。

 

生むことを考えるのも、それと同じようなものなんじゃないか」(向坂くじら×紗倉まな「ふたりのための往復書簡」『群像・3・P.213』講談社 二〇二五年)

 

全肯定も全否定もいけない。ということだけなら教師でなくてもそこらへんにごろごろいる人間、なかには小学生でさえ、もはや誰もが、どこで覚えてきたのか察しはつかないことにした上で、知らないのだが、いとも簡単に言うことができる。だがさらに一歩考えを進めるということは不毛な堂々巡りに穴を穿つ。穿たれた穴から猛火が炸裂するか洪水が噴出するか誰ひとり知らないにせよ。

 

こなしたトークイベントについて「あれはちょっと失敗だったね」とつぶやいたとしよう。イベントに参加していた人々が後になってそう聞かされてどう思うだろう。だからといって撤回したり修正したりするのはなおのこと間違いだろうと読んでいておもうとともに、読んだ本についてばんばん話せる人々は結構いるわけだが自分自身のことになるとやおらぎくしゃくしてしまう。例えばそれが「ふたりのトーク」という形式をとっているようなケースではオーディエンスの目には瞭然になる。共感もあれば違和感もあれば希望も絶望もある。

 

それらがまあ、一分半くらいか、混在(カオス)に映りつつも実は「共生」の急浮上であるようなとき、その一分半は「他人」ばかりの「共生」が実現されてもいる時間的=空間的な逆説性の成就でもあるのだ。


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