きのう目を通した。向坂くじら×紗倉まな「ふたりのための往復書簡(2)」『群像・3・P.208~223』講談社 二〇二五年)
そして昨日のうちに、ほぼ反射的に湧いてきたおもいを打ち込んでUPした。あれこれ考えるよりも反射的に湧いてきたもののほうが、このときはなぜか例外的に大事だとおもったからそうした。後から読み返すと少しばかり言葉足らずになってしまった部分があり、それはそれで結構恥ずかしい気がする。
一方。
蓮實重彦×工藤庸子「対話(1)」『群像・3・P.10~20』講談社 二〇二五年)
こちらのほうは一九八〇年代後半に大学在学中だった身としては前者の「往復書簡」とはまた別の意味でかなり重い。片付く片付かないということが問題なのではなく「そもそも何を読んでいたのか」という問いを改めて立て直し現時点へ運びこむ作業からやり直さないことには快い錯覚を条件として始めて成り立ちなおかつその場でほどよく微笑みの牙を剥きつつうづくまり安住することで手に入れた気になるふざけた「自由」の海をこのまま漂いつづけて生涯を終えることなどとてもではないができないと体の奥深くで足掻き立てる疼きのようなノイズが消えようはずはないからである。
ところで前者にせよ後者にせよ対話という点で共通しておりその意味で対話の作法といえば不必要に堅苦しいけれどもその指し示すところは意味内容だけでは決してなく他に何がしか学ぶことができるだろうとおもっている。
いずれにしても気づくことがある。
どちらの対話についても一方で背中を追い、もう一方でもまた背中を追っているということで、八〇年代バブルの同時代人のひとりとして実に中身からっぽな、半透明この上ない幽霊のようにこころもとないこれまでだったと、その点は認めるほかないのだ。
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