目まぐるしく回転する光景はジュネの少年時代を推測させるに十分である。しかし作品中ではディヴィーヌ(彼女)がキュラフロワ(彼)だった頃の想像力が創造した無数の光景の反復として記述される。たとえばキュラフロワの散歩。意識にのぼってくる言葉はたいがいの場合、すぐさま自分から飛び去るのが常だ。ところが彼は自分の意識にのぼってきた言葉が「すぐさま飛び去る」ところをほんの僅かの差で逆に捕らえて自分自身に「回れ右」を実現させる。
「並木道を通っていたとき、いくつもある並木道のひとつの端までやって来て、芝生の上に上がらないようにするには来た道を引き返さなければならないことに彼は気づいた。自分がそうするのを見て、彼は『奴っこさん、回れ右をしたな』と思った、そしてすぐさま飛び去るところを捕らえられたこの言葉が反転して、彼に敏捷な半回転を実行させた」(ジュネ「花のノートルダム・P.224~225」河出文庫)
なぜそれができたのか。キュラフロワの想像力が直後に想定できる事態を先取りしたからということができる。ちなみに今の日本政府にはその程度の想定力さえ持っていないことが今回の新型ウイルス蔓延問題ではっきりした。また、パンデミックの危機については国際社会で常々指摘されてきたにもかかわらず、想定内の事態に対する危機管理マニュアルすらまったく作成されていなかった。先送りし棚上げしてきた事実を自己暴露することになった。ところでキュラフロワは寸でのところで「軽い身振りを交えたダンスを彼は自分から進んで始めるところだった」。しかしそうはしない。キュラフロワの靴はそのような上品なものではなかったからである。
「もし口を開けた彼の靴の底が砂の上を引きずって、恥ずかしい下品な音を立てなかったなら、控えめで、軽い身振りを交えたダンスを彼は自分から進んで始めるところだった(というのもさらにこのことに留意すべきなのだから。つまり洗練された、言い換えるならかまととぶった、つまり礼儀正しい趣味をもったーーーというのも想像力のうちでは、われらがヒーローたちは怪物に魅了される若い娘たちの気持ちを示しているからだがーーーキュラフロワまたはディヴィーヌは、いつも彼らに嫌悪を催させる状況のなかにいたのである)」(ジュネ「花のノートルダム・P.225」河出文庫)
身に付けるものが身振り仕ぐさを鮮明化させる場合がある。作品「葬儀」で頻出したように。
「乱暴に向き直ったために、もともと目深に傾いでいた私の黒い軍帽は肩の上にずり落ち、地面へころがった。(俺から葉っぱが落ちたのだ)という考えがすばやく、私の脳裏をかすめた。地面に落ちた略帽を拾い上げようとするかのように私の左手はかすかに動きかけた」(ジュネ「葬儀・P.153」河出文庫)
社会化され一般化され普及していれば「黒い軍帽」はただそれだけでいつでも「略帽」との等価性を維持し得る。また維持されなければならない。社会化とはそういうことだ。しかしそれはまた「黒い軍帽」がヨーロッパにおいてすでに帝国の象徴として承認を得ているかぎりでようやく可能になり認められもする省略を意味する。たとえばハーケンクロイツの帝国は、ハーケンクロイツの社会的地位に比例して上りもするし下がりもするが、いったんドイツ帝国も象徴として絶対化され、貨幣の位置をかち取るやいなや、それまでナチス党員とその支持者らが行使してきた暴力的脅迫行為や国会での政権奪取過程などはすべて、貨幣《として》欲望されるハーケンクロイツという象徴によって跡形もなくおおい隠されてしまう。マルクス参照。
「商品世界のこの完成形態ーーー貨幣形態ーーーこそは、私的諸労働の社会的性格、したがってまた私的諸労働者の社会的諸関係をあらわに示さないで、かえってそれを物的におおい隠す」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.141」国民文庫)
さらに。
「わきに垂らした左手に黒い略帽を、そして右手には、伸ばした腕の先に、身体からかなり離して拳銃をにぎりしめながら、落着きはらって、ドイツ軍の長靴に、あふれ出る汗とむせ返る湯気でふくらんだ黒ズボンといういでたちで、万人のきびしい、だが安心できる暮らしを目ざして、私は夜の坂道をくだっていくのだった」(ジュネ「葬儀・P.157」河出文庫)
エリックの「背後」には誰もいない。が、ジュネ的感性はエリックの「背後」に続々とフェチの系列を付け加える。
「背後からは、化粧し、花を飾り、香水をつけ、鉄兜をかぶった戦士たちが、殺害された少年の開いた胸からぞくぞくと繰り出され、笑顔で或いは厳粛な顔付きで、素裸で或いは革や銅や鉄の鎧に身をつつんで、黒い喪章のついた真紅の旌旗(せいき)を押し立て、沈黙の世界の荘厳な行進曲(マーチ)に導かれて行進を開始するのだった」(ジュネ「葬儀・P.157」河出文庫)
叙述順に取り出す。「化粧し、花を飾り、香水をつけ、鉄兜をかぶった戦士たち」「黒い喪章のついた真紅の旌旗(せいき)」「行進曲(マーチ)」。さらに「鎧」とあるけれども「鎧」はどうでもよいのである。大事なのはそれが「革」「銅」「鉄」で仕上げられ洗練されていなくてはならないというフェチ愛好家の趣味によりけりで、他の何にでも置き換え可能だという事情にある。たとえば「本」より「本棚」を、「戦艦」より「戦艦むすめ」を、日本では太宰治「ダス・ゲマイネ」にあるように「ヴァイオリン」より「ヴァイオリンケエスを気にする」、というように。
あるいは。
「ついでに記しておくと、気をやる瞬間に先立つ渦巻ーーーそれをほとんど内包したーーーときには気をやる行為そのものよりも陶酔的な渦巻の真只中にあって、いちばんエロティックなすばらしい想像、いちばん厳粛な、いうなれば内なる祭典によって準備された、すべてがその方向を目指す想像、それは戦車兵の黒い軍服をまとったドイツ兵によって私に授けられるのだった」(ジュネ「葬儀・P.169~170」河出文庫)
「ついでに記しておく」、にもかかわらず描写が長くなるのは、フェチの系列の列挙による。一方にエリックを、もう一方に死刑執行人を配している。
「だけどエリックは、ガベスの眼の奥へ、黒い音楽のひびきと暁の香りによって運ばれてきたのにひきかえ、疾駆する光の馬にまたがって、鞍のわきに黒い喪布をかぶせた斧をむすびつけ、河や森や街々を一日で走りぬけドイツからやって来た、汗まみれの死刑執行人のほうは半裸体だった」(ジュネ「葬儀・P.170」河出文庫)
エリックは「ガベスの眼」「黒い音楽のひびき」「暁の香り」。死刑執行人は「疾駆する光の馬」「黒い喪布」「斧」「一日で走りぬけ」「汗まみれ」「半裸体」。
「ガベスの眼」は「青銅の眼」でも構わないとおもわれる。その意味は「男性の肛門」である。太陽との等価性が維持されているかぎりで。「黒い音楽」は「ひびき」が大事だ。響いて《来ない》音楽を指して「黒い」とは言い難い。さらに大事なのはそれが響いて《来る》という距離感と音響がものをいう。ナチスドイツ党大会の冒頭にベートーベン「エグモント」序曲が配置されていたのは、式典という意味ではかなり練り上げられたものであるという印象を受ける。そういう細かな部分への目配りがイタリアのファシスト党にはあまり見られないのではと感じる。それがムッソリーニとヒットラーとの差だといってしまえばそれまでかもしれないが。ファシスト党というよりイタリアの行進曲は今なおヴェルディなのであり、ベートーベンやヴァーグナーとの比較において、そこから醸造されてくる風土には余りにも違いがあり過ぎる。組織力は軍事力へ接続される。けれども軍事力の色彩を決定づけるのは、軍隊を送り出す国民の耳に向けて、耳を通して送り届けられる音楽の側に決定権がある。その音楽のもとで兵士らは死んでいく、と国民は考えるからである。耳という身体器官が持つ政治的重要性に気付いていたという点でジュネはほんの「泥棒」時代から詩人であった。そして「泥棒」として生涯を終えた。「暁の香り」はジュネ固有の趣味だろう。
「疾駆する光の馬」とあるけれども疾駆しているのは男性器自身である。疲れを知らないという条件も加わる。馬だからだ。そして馬は勝者の象徴でもある。たいそう古典的な舞台装置のようにおもわれるが、近現代になっても西洋の絵画では何度も繰り返し取り上げられてきたテーマである。馬に託された「光」は黒光りする男性器をより一層形式化された計り知れない速度を有していることを示す。形式化にもかかわらず計り知れないというのは論理的には矛盾しているけれども、官能の速度の逆説は、綿密に形式化しようとすればするほど逆に計り知れないものへと変容することを特徴としている。ジュネにしても、性行為において「気をやる瞬間」のすべてを本当に形式化できるとは思ってもいない。続く「黒い喪布」。明確なステレオタイプが用いられている。「斧」は死刑執行人の男性器だけのことを指すのではなく、世の中の男性の勃起した男性器すべての象徴と考えるのが妥当だろうとおもわれる。「一日で走りぬけ」という言い回しは今でもよく使われる。ふつうに考えれば武器全般が持つ速度の強調ということになるのだが、今の資本主義では武器が速度を所有するというより、速度そのものが武器へと転倒したことを上げておかねばならない。ネット社会では特にそうだ。だからネット空間は、ジュネ的感性からすれば、いつどこから飛んでくるか予想もつかない精液と死とで溢れかえっていて手もつけられない、と言うだろう。システムとしてのインターネットは資本の利潤率を平均化させる動作環境を自らの手で更新しさえする。ジュネを興奮の坩堝(るつぼ)に叩き込むこと間違いない。さらにステレオタイプな「汗まみれ」だが様々に解釈可能なので改めて付け加えるより、むしろ逆に差し引きたいくらいだ。そして「半裸体」。「全裸」では何らの意味も持たないことは明白である。官能の絶頂へと「渦巻く」意志が問題なのであり、射精そのものにはすでに労働のイメージが入り込んでいる。射精行為は半分以上、自分で自分自身を殺害済みの状態で感じる脱力の感覚であって、取り残された死としてもはや消滅である。
「色は浅黒くけむくじゃらで、筋骨たくましく、ずっしり柔らかい睾丸と陰茎の形を細部まで微妙に浮かび上がらせている、紺青色のきらきら光るジャージーの肉襦袢にぴっちり身をつつんで」(ジュネ「葬儀・P.170」河出文庫)
というイメージは当時のドイツで流行していたファッションの一つ。今でもときどき復活してくる。ということはそれ以前の流行の反復かもしれない。実際、サドの小説のイメージは黒革で覆われているのであり、黒革の衣装はファシズムよりもサディズムの側にはるかに近い。ファシズムを見て驚くのはその余りにも平板単調で時として無意識的な同一化の不気味さに、なのだが、サディズムを見て驚くのはその余りにも極端な残酷さの多岐に渡る行使応用とその自覚があるということに、である。ファシズムは増殖を目指すがサディズムは死を目指す。では日本はどうだったか。東京裁判ではっきりしたのは丸山真男のいう「無責任の体系」ということであって、アメリカの介入があったにせよ、戦争が終わってみれば責任者は始めからどこにもいなかったかのように映って見えるという異様さである。この異様さは或る意味、意識の確かさを戸惑わせ疑わせるに十分な破壊力を持っている。破壊力といっても劇的なものではまったくない。資料的文書を見ていると、逆に人間はどこにもおらず、言語だけがバトンタッチしていく奇妙なモンタージュ風景をおもわせる。影一つない空虚な砂漠に放り出されたかのような感覚におちいる。原爆投下直後の広島に入り、忽然と出現した平板な瓦礫の砂漠で思わず知らず放射能を身に浴びているような。
といったふうに。ところでキュラフロワは自分が履いているおんぼろな靴音を聞いてしまう。
「彼は靴底の音を聞いた。この秩序への復帰命令が彼の頭をうなだれさせた」(ジュネ「花のノートルダム・P.225」河出文庫)
少年キュラフロワの想像力とノスタルジーへの憧れに満ちた幻想世界はたちまち溶けてなくなる。
「彼は、ごく自然に瞑想的な態度になり、そしてゆっくりと戻った。公園を散歩している人たちは彼が通り過ぎるのを見たし、彼らが彼の顔色の蒼白いこと、からだが痩せていること、彼の伏せた瞼がビー玉のように重くて丸いことに気づいたのをキュラフロワは見た。彼はもっと首を傾げ、その足取りはさらにもっとゆっくりになった」(ジュネ「花のノートルダム・P.225」河出文庫)
ディヴィーヌ(彼女)になることでキュラフロワ(彼)は人生を変えた。ところがいつでも反復可能な少年時代の思い出は、周囲の光景のアナロジー(類似、類推)を含めたふとした身振り仕ぐさの一致だけでたちまちディヴィーヌをキュラフロワ時代の儚い夢の世界へ巻き戻してしまうのである。
ーーーーー
さて、アルトー。「生者と死者の出会い」の場としてのルネサンス。そしてルネサンス期に描かれた様々な芸術が市民社会に見せつけた無数の閃光。
「これらの蜂起が 二つの未知の世界の出会いをたえまなく描く 中世の絵を生み出した」(アルトー「残酷劇」『神の裁きと訣別するため・P.63』河出文庫)
その意味でルネサンスは一般大衆を大いに啓蒙したけれども、啓蒙には啓蒙の逆説というものがあるのだ。ヘーゲルはいう。
「啓蒙は、信仰に対し、抵抗できないほどの権力をふるうが、これは、信仰する意識自身のうちに、啓蒙を妥当させるような、いくつかの契機が在るからである。この力の影響をもっと詳しく考えると、信仰に対する啓蒙の態度は、《信頼》と直接的な《確信》との《美しい》統一を引き裂き、信仰の《精神的な》意識を、《感覚的》現実という低い思想によって、不純にし、信仰に帰順して《平静になり安定している》心情を、《空しい》悟性と利己的な意志の実行とによって、破壊することであるように思われる。しかし実際には、啓蒙は、信仰のうちに現存している分裂、《思想なき》あるいはむしろ《概念なき分裂を》、なくそうとしているのである。信仰する意識は、二重の物差しと錘(おもり)をもっており、二重の眼、二重の耳をもっており、二重の舌と言葉をもっており、すべての表象を二重にしてしまっている、が、この二重の意味を比較したりはしない。言いかえると、信仰は二重の知覚のなかに生きている、一方は《眠れる》意識の知覚で、全く概念なき思想のうちにあり、他方は《目覚めた》意識の知覚で、感覚的現実のなかに生きているだけの、意識の知覚である。信仰はその両者のいずれにおいても、それぞれ独自の暮らしを立てている。ーーー啓蒙は、感覚的世界の表象を使って、天上の世界に光をあて〔啓蒙とは光をあてること〕、信仰とても否定しえないこの有限性を、天上の世界に示す。というのは、信仰は自己意識であり、したがって二つの表象の仕方をもっており、それらを分離しておかない統一だからである。その理由は、両方とも分裂のない《単一な》自己に帰属しており、そこへ信仰は移ってしまっているからである。こうして信仰は、その境位〔場〕をみたしていた内容を失い、精神自身のくすんだ織物のうちに崩れて行く」(ヘーゲル「精神現象学・下・P.164~165」平凡社ライブラリー)
さらに啓蒙の側が犯してしまう錯覚について。
「啓蒙自身は、信仰のばらばらな契機が対立していることを、信仰に想い起させるのだが、自分自身について啓蒙されていない点では、信仰と同じである」(ヘーゲル「精神現象学・下・P.158」平凡社ライブラリー)
この態度は今なお環境問題関連の議論においてつきまとってくる事情である。こんなふうに。
「柔軟性の増進を目指す以上、エコロジストは他の公共複利政策のプラナーとちがって、立法によるコントロールを推進するのとは逆に、より専横的でない方策に訴えなくてはならないが、その一方で必要な権限を発揮し、現存する、あるいは作り出しうる柔軟性の保護に当たらなくてはならない。柔軟性保存のためには、彼の提案は(天然資源保存の場合と同様)専横的な支配力を持たなくてはならない」(ベイトソン「精神の生態学・P.658」新思索社)
総務部門でも事務局でも構わないのだが、或る政策を実行に移すとき必ずもめる元になるのが組織的なものにつきもののそのような不可避的事情である。政策の柔軟性を保持するために実現される組織化が逆に専横的な振る舞いに転化するという逆説だ。差し当たりアルトーの言葉にけりを付けてしまおう。来るべき舞踏の身振り仕ぐさは、これまで列挙された「あらゆる湿疹 あらゆる疱疹 あらゆる結核 あらゆる疫病 あらゆるペスト」という伝染病のようには実現されていない。演劇がペストを演じるのではなく、ペストのような感染力を持つ演劇が創造され実現されねばならない。だから来るべき舞踏はこれまでの古典芸能のようなものにはならない。まだ見ぬ感染力を兼ね備えた雷撃のように描き出されていかなければならないだろうと述べるのである。それはまだ始まっていないのだ。
「大地はおそるべき舞踏の行為のもとに 描かれ写される この舞踏はまだ伝染病のようにして そのあらゆる果実をもたらしてはいない」(アルトー「残酷劇」『神の裁きと訣別するため・P.63』河出文庫)
ところで環境問題に取り組むにあたって、不可避的に起こってくる組織的専横を避けて、より柔軟で適切な対応をすみやかに実行していくために何が必要か。これは世界的レベルの問題になる。まず第一にカントから。
「たがいに関係しあう諸国家にとって、ただ戦争しかない無法な状態から脱出するには、理性によるかぎり次の方策しかない。すなわち、国家も個々の人間と同じように、その未開な(無法な)自由を捨てて公的な強制法に順応し、そうして一つの(もっともたえず増大しつつある)諸民族合一国家を形成して、この国家がついには地上のあらゆる民族を包括するようにさせる、という方策しかない。だがかれらは、かれらがもっている国際法の考えにしたがって、この方策をとることをまったく欲しないし、そこで一般命題として正しいことを、具体的な適用面では斥(しりぞ)けるから、《一つの世界共和国》という積極的理念の代わりに(もしすべてが失われてはならないとすれば)、戦争を防止し、持続しながらたえず拡大する《連合》という《消極的》な代替物のみが、法をきらう好戦的な傾向の流れを阻止できるのである」(カント「永遠平和のために・P.45」岩波文庫)
次に重要なヒントとしてマルクスから。
「労働者たち自身の協同組合工場は、古い形態のなかでではあるが、古い形態の最初の突破である。といっても、もちろん、それはどこでもその現実の組織では既存の制度のあらゆる欠陥を再生産しているし、また再生産せざるをえないのではあるが。しかし、資本と労働との対立はこの協同組合工場のなかでは廃止されている。たとえ、はじめは、ただ、労働者たちが組合としては自分たち自身の資本家だという形、すなわち生産手段を自分たち自身の労働の価値増殖のための手段として用いるという形によってでしかないとはいえ。このような工場が示しているのは、物質的生産とそれに対応する社会的生産形態とのある発展段階では、どのように自然的に一つの生産様式から新たな生産様式が発展し形成されてくるかということである。資本主義的生産様式から生まれる工場制度がなければ協同組合工場は発展できなかったであろうし、また同じ生産様式から生まれる信用制度がなくてもやはり発展できなかったであろう。信用制度は、資本主義的個人企業がだんだん資本主義的株式会社に転化して行くための主要な基礎をなしているのであるが、それはまた、多かれ少なかれ国民的な規模で協同組合企業がだんだん拡張されて行くための手段をも提供するのである。資本主義的株式企業も、協同組合工場と同じに、資本主義的生産様式から結合生産様式への過渡形態とみなしてよいのであって、ただ、一方では対立が消極的に、他方では積極的に廃止されているだけである」(マルクス「資本論・第三部・第五篇・第二十七章・P.227~228」国民文庫)
そして両者の共通性はどちらも「アソシエーション」(“association”=緩やかな繋がり)であるという点だ。アメリカや中国の場合、どちらも「ユナイテッド」(“united”=団結、結合)に力点が置かれている。その方法ではどこから取り掛かるにしても国土強靭化計画という強引で高圧的な一国中心主義に陥ってしまう。だが「アソシエーション」(“association”=緩やかな繋がり)の場合、力点が置かれるのは「関係」(“relation”/“relationship”)であり「コンセンサス」(“consensus”/“informed consent”=説明と理解に基づく合意)である。世界は常に既に「相互依存関係」(“interdependence”)にあるほかない。にもかかわらずアメリカも中国もどちらともやっていることは一国中心主義にほかならないのであり、一目瞭然、不遜にもほどがあるといわねばならない。そのような態度を許していては日本政府による拉致問題解決などあり得ないと考えるほかなくなってしまう。北方領土問題も沖縄基地問題も。
ーーーーー
なお前回、アメリカの薬物乱用に関し俗称「ルード」(“lude”)に関して述べた。商品名「メタカロン」。薬剤名「クオルード」。主成分の効果はすでに述べたようにバルビツール酸系睡眠薬「アモバルビタール」に大変よく似ており、乱用者の場合、用い方はほぼ変わらない。アッパー系のカフェインやコカインあるいはエナジードリンクとの併用によって「ラリ」る。また、ネット検索すれば様々な表記があるが、眠気を十五分ほど我慢すれば逆にハイな気分になるというのは超短時間作用型睡眠薬「トリアゾラム」(商品名「ハルシオン」)と同様である。日本でも主に内科を受診する高齢者で「トリアゾラム」(商品名「ハルシオン」)なしには寝られないと訴える患者は少なくない。むしろ増えた。高齢化による睡眠の変化があるにせよ、いったん「トリアゾラム」(商品名「ハルシオン」)の常用によって睡眠することを覚えた高齢者はもうそれなしには寝られなくなる。あるいはより一層巧妙な方法では中間型抗不安薬アルプラゾラム(商品名「ソラナックス」)を処方してもらい就寝前にアルコールと併用する。すると家族あるいは同居人が寝静まったのを待って、それまで立って歩けなかった老人がてくてくと起き上がってきて風俗店で散財して遊んで帰ってくる。しかし朝になると認知症でもないのに自分の夜間の行動をすっかり忘れ去っていて家族あるいは同居人は途方もなく馬鹿馬鹿しい思いを味わうはめになったりする。にもかかわらずそうしたタイプにおちいった高齢者は、自分で自分自身の不眠を切々と訴えることで何とかして「トリアゾラム」(商品名「ハルシオン」)を処方してもらおうと医療機関を転々とするケースがある。若年層から中年層に対してさえそう簡単に「トリアゾラム」(商品名「ハルシオン」)が処方されることがないのは自明だが、高齢者だからといって油断は無用である。妙な言い方になるが、高齢者は自分の悲惨ぶりを切々と訴えることで不眠を解消したいというよりも、どちらかといえば、ハルシオンを手に入れたがっている場合が多い。高齢者は子どもではない。世渡り上手でもある。本当に必要としている症状なのか、それとも七〇歳を過ぎてなお、ただ単にハルシオン乱用による睡眠薬遊びを反復したがっているに過ぎないのか。見極めが肝要だろう。なぜなら、ただでさえ本当に必要としている人々に必要な薬剤が品切れで回ってこないという殺人的状況がときどき発生しているからである。ちなみに精神科の場合、一九七〇年代から八〇年代にかけて余りにも多くの依存症者を出した経験から、今では逆に、精神科でハルシオンを処方する医師はほとんどいない。
ーーーーー
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
BGM1
BGM2
「並木道を通っていたとき、いくつもある並木道のひとつの端までやって来て、芝生の上に上がらないようにするには来た道を引き返さなければならないことに彼は気づいた。自分がそうするのを見て、彼は『奴っこさん、回れ右をしたな』と思った、そしてすぐさま飛び去るところを捕らえられたこの言葉が反転して、彼に敏捷な半回転を実行させた」(ジュネ「花のノートルダム・P.224~225」河出文庫)
なぜそれができたのか。キュラフロワの想像力が直後に想定できる事態を先取りしたからということができる。ちなみに今の日本政府にはその程度の想定力さえ持っていないことが今回の新型ウイルス蔓延問題ではっきりした。また、パンデミックの危機については国際社会で常々指摘されてきたにもかかわらず、想定内の事態に対する危機管理マニュアルすらまったく作成されていなかった。先送りし棚上げしてきた事実を自己暴露することになった。ところでキュラフロワは寸でのところで「軽い身振りを交えたダンスを彼は自分から進んで始めるところだった」。しかしそうはしない。キュラフロワの靴はそのような上品なものではなかったからである。
「もし口を開けた彼の靴の底が砂の上を引きずって、恥ずかしい下品な音を立てなかったなら、控えめで、軽い身振りを交えたダンスを彼は自分から進んで始めるところだった(というのもさらにこのことに留意すべきなのだから。つまり洗練された、言い換えるならかまととぶった、つまり礼儀正しい趣味をもったーーーというのも想像力のうちでは、われらがヒーローたちは怪物に魅了される若い娘たちの気持ちを示しているからだがーーーキュラフロワまたはディヴィーヌは、いつも彼らに嫌悪を催させる状況のなかにいたのである)」(ジュネ「花のノートルダム・P.225」河出文庫)
身に付けるものが身振り仕ぐさを鮮明化させる場合がある。作品「葬儀」で頻出したように。
「乱暴に向き直ったために、もともと目深に傾いでいた私の黒い軍帽は肩の上にずり落ち、地面へころがった。(俺から葉っぱが落ちたのだ)という考えがすばやく、私の脳裏をかすめた。地面に落ちた略帽を拾い上げようとするかのように私の左手はかすかに動きかけた」(ジュネ「葬儀・P.153」河出文庫)
社会化され一般化され普及していれば「黒い軍帽」はただそれだけでいつでも「略帽」との等価性を維持し得る。また維持されなければならない。社会化とはそういうことだ。しかしそれはまた「黒い軍帽」がヨーロッパにおいてすでに帝国の象徴として承認を得ているかぎりでようやく可能になり認められもする省略を意味する。たとえばハーケンクロイツの帝国は、ハーケンクロイツの社会的地位に比例して上りもするし下がりもするが、いったんドイツ帝国も象徴として絶対化され、貨幣の位置をかち取るやいなや、それまでナチス党員とその支持者らが行使してきた暴力的脅迫行為や国会での政権奪取過程などはすべて、貨幣《として》欲望されるハーケンクロイツという象徴によって跡形もなくおおい隠されてしまう。マルクス参照。
「商品世界のこの完成形態ーーー貨幣形態ーーーこそは、私的諸労働の社会的性格、したがってまた私的諸労働者の社会的諸関係をあらわに示さないで、かえってそれを物的におおい隠す」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.141」国民文庫)
さらに。
「わきに垂らした左手に黒い略帽を、そして右手には、伸ばした腕の先に、身体からかなり離して拳銃をにぎりしめながら、落着きはらって、ドイツ軍の長靴に、あふれ出る汗とむせ返る湯気でふくらんだ黒ズボンといういでたちで、万人のきびしい、だが安心できる暮らしを目ざして、私は夜の坂道をくだっていくのだった」(ジュネ「葬儀・P.157」河出文庫)
エリックの「背後」には誰もいない。が、ジュネ的感性はエリックの「背後」に続々とフェチの系列を付け加える。
「背後からは、化粧し、花を飾り、香水をつけ、鉄兜をかぶった戦士たちが、殺害された少年の開いた胸からぞくぞくと繰り出され、笑顔で或いは厳粛な顔付きで、素裸で或いは革や銅や鉄の鎧に身をつつんで、黒い喪章のついた真紅の旌旗(せいき)を押し立て、沈黙の世界の荘厳な行進曲(マーチ)に導かれて行進を開始するのだった」(ジュネ「葬儀・P.157」河出文庫)
叙述順に取り出す。「化粧し、花を飾り、香水をつけ、鉄兜をかぶった戦士たち」「黒い喪章のついた真紅の旌旗(せいき)」「行進曲(マーチ)」。さらに「鎧」とあるけれども「鎧」はどうでもよいのである。大事なのはそれが「革」「銅」「鉄」で仕上げられ洗練されていなくてはならないというフェチ愛好家の趣味によりけりで、他の何にでも置き換え可能だという事情にある。たとえば「本」より「本棚」を、「戦艦」より「戦艦むすめ」を、日本では太宰治「ダス・ゲマイネ」にあるように「ヴァイオリン」より「ヴァイオリンケエスを気にする」、というように。
あるいは。
「ついでに記しておくと、気をやる瞬間に先立つ渦巻ーーーそれをほとんど内包したーーーときには気をやる行為そのものよりも陶酔的な渦巻の真只中にあって、いちばんエロティックなすばらしい想像、いちばん厳粛な、いうなれば内なる祭典によって準備された、すべてがその方向を目指す想像、それは戦車兵の黒い軍服をまとったドイツ兵によって私に授けられるのだった」(ジュネ「葬儀・P.169~170」河出文庫)
「ついでに記しておく」、にもかかわらず描写が長くなるのは、フェチの系列の列挙による。一方にエリックを、もう一方に死刑執行人を配している。
「だけどエリックは、ガベスの眼の奥へ、黒い音楽のひびきと暁の香りによって運ばれてきたのにひきかえ、疾駆する光の馬にまたがって、鞍のわきに黒い喪布をかぶせた斧をむすびつけ、河や森や街々を一日で走りぬけドイツからやって来た、汗まみれの死刑執行人のほうは半裸体だった」(ジュネ「葬儀・P.170」河出文庫)
エリックは「ガベスの眼」「黒い音楽のひびき」「暁の香り」。死刑執行人は「疾駆する光の馬」「黒い喪布」「斧」「一日で走りぬけ」「汗まみれ」「半裸体」。
「ガベスの眼」は「青銅の眼」でも構わないとおもわれる。その意味は「男性の肛門」である。太陽との等価性が維持されているかぎりで。「黒い音楽」は「ひびき」が大事だ。響いて《来ない》音楽を指して「黒い」とは言い難い。さらに大事なのはそれが響いて《来る》という距離感と音響がものをいう。ナチスドイツ党大会の冒頭にベートーベン「エグモント」序曲が配置されていたのは、式典という意味ではかなり練り上げられたものであるという印象を受ける。そういう細かな部分への目配りがイタリアのファシスト党にはあまり見られないのではと感じる。それがムッソリーニとヒットラーとの差だといってしまえばそれまでかもしれないが。ファシスト党というよりイタリアの行進曲は今なおヴェルディなのであり、ベートーベンやヴァーグナーとの比較において、そこから醸造されてくる風土には余りにも違いがあり過ぎる。組織力は軍事力へ接続される。けれども軍事力の色彩を決定づけるのは、軍隊を送り出す国民の耳に向けて、耳を通して送り届けられる音楽の側に決定権がある。その音楽のもとで兵士らは死んでいく、と国民は考えるからである。耳という身体器官が持つ政治的重要性に気付いていたという点でジュネはほんの「泥棒」時代から詩人であった。そして「泥棒」として生涯を終えた。「暁の香り」はジュネ固有の趣味だろう。
「疾駆する光の馬」とあるけれども疾駆しているのは男性器自身である。疲れを知らないという条件も加わる。馬だからだ。そして馬は勝者の象徴でもある。たいそう古典的な舞台装置のようにおもわれるが、近現代になっても西洋の絵画では何度も繰り返し取り上げられてきたテーマである。馬に託された「光」は黒光りする男性器をより一層形式化された計り知れない速度を有していることを示す。形式化にもかかわらず計り知れないというのは論理的には矛盾しているけれども、官能の速度の逆説は、綿密に形式化しようとすればするほど逆に計り知れないものへと変容することを特徴としている。ジュネにしても、性行為において「気をやる瞬間」のすべてを本当に形式化できるとは思ってもいない。続く「黒い喪布」。明確なステレオタイプが用いられている。「斧」は死刑執行人の男性器だけのことを指すのではなく、世の中の男性の勃起した男性器すべての象徴と考えるのが妥当だろうとおもわれる。「一日で走りぬけ」という言い回しは今でもよく使われる。ふつうに考えれば武器全般が持つ速度の強調ということになるのだが、今の資本主義では武器が速度を所有するというより、速度そのものが武器へと転倒したことを上げておかねばならない。ネット社会では特にそうだ。だからネット空間は、ジュネ的感性からすれば、いつどこから飛んでくるか予想もつかない精液と死とで溢れかえっていて手もつけられない、と言うだろう。システムとしてのインターネットは資本の利潤率を平均化させる動作環境を自らの手で更新しさえする。ジュネを興奮の坩堝(るつぼ)に叩き込むこと間違いない。さらにステレオタイプな「汗まみれ」だが様々に解釈可能なので改めて付け加えるより、むしろ逆に差し引きたいくらいだ。そして「半裸体」。「全裸」では何らの意味も持たないことは明白である。官能の絶頂へと「渦巻く」意志が問題なのであり、射精そのものにはすでに労働のイメージが入り込んでいる。射精行為は半分以上、自分で自分自身を殺害済みの状態で感じる脱力の感覚であって、取り残された死としてもはや消滅である。
「色は浅黒くけむくじゃらで、筋骨たくましく、ずっしり柔らかい睾丸と陰茎の形を細部まで微妙に浮かび上がらせている、紺青色のきらきら光るジャージーの肉襦袢にぴっちり身をつつんで」(ジュネ「葬儀・P.170」河出文庫)
というイメージは当時のドイツで流行していたファッションの一つ。今でもときどき復活してくる。ということはそれ以前の流行の反復かもしれない。実際、サドの小説のイメージは黒革で覆われているのであり、黒革の衣装はファシズムよりもサディズムの側にはるかに近い。ファシズムを見て驚くのはその余りにも平板単調で時として無意識的な同一化の不気味さに、なのだが、サディズムを見て驚くのはその余りにも極端な残酷さの多岐に渡る行使応用とその自覚があるということに、である。ファシズムは増殖を目指すがサディズムは死を目指す。では日本はどうだったか。東京裁判ではっきりしたのは丸山真男のいう「無責任の体系」ということであって、アメリカの介入があったにせよ、戦争が終わってみれば責任者は始めからどこにもいなかったかのように映って見えるという異様さである。この異様さは或る意味、意識の確かさを戸惑わせ疑わせるに十分な破壊力を持っている。破壊力といっても劇的なものではまったくない。資料的文書を見ていると、逆に人間はどこにもおらず、言語だけがバトンタッチしていく奇妙なモンタージュ風景をおもわせる。影一つない空虚な砂漠に放り出されたかのような感覚におちいる。原爆投下直後の広島に入り、忽然と出現した平板な瓦礫の砂漠で思わず知らず放射能を身に浴びているような。
といったふうに。ところでキュラフロワは自分が履いているおんぼろな靴音を聞いてしまう。
「彼は靴底の音を聞いた。この秩序への復帰命令が彼の頭をうなだれさせた」(ジュネ「花のノートルダム・P.225」河出文庫)
少年キュラフロワの想像力とノスタルジーへの憧れに満ちた幻想世界はたちまち溶けてなくなる。
「彼は、ごく自然に瞑想的な態度になり、そしてゆっくりと戻った。公園を散歩している人たちは彼が通り過ぎるのを見たし、彼らが彼の顔色の蒼白いこと、からだが痩せていること、彼の伏せた瞼がビー玉のように重くて丸いことに気づいたのをキュラフロワは見た。彼はもっと首を傾げ、その足取りはさらにもっとゆっくりになった」(ジュネ「花のノートルダム・P.225」河出文庫)
ディヴィーヌ(彼女)になることでキュラフロワ(彼)は人生を変えた。ところがいつでも反復可能な少年時代の思い出は、周囲の光景のアナロジー(類似、類推)を含めたふとした身振り仕ぐさの一致だけでたちまちディヴィーヌをキュラフロワ時代の儚い夢の世界へ巻き戻してしまうのである。
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さて、アルトー。「生者と死者の出会い」の場としてのルネサンス。そしてルネサンス期に描かれた様々な芸術が市民社会に見せつけた無数の閃光。
「これらの蜂起が 二つの未知の世界の出会いをたえまなく描く 中世の絵を生み出した」(アルトー「残酷劇」『神の裁きと訣別するため・P.63』河出文庫)
その意味でルネサンスは一般大衆を大いに啓蒙したけれども、啓蒙には啓蒙の逆説というものがあるのだ。ヘーゲルはいう。
「啓蒙は、信仰に対し、抵抗できないほどの権力をふるうが、これは、信仰する意識自身のうちに、啓蒙を妥当させるような、いくつかの契機が在るからである。この力の影響をもっと詳しく考えると、信仰に対する啓蒙の態度は、《信頼》と直接的な《確信》との《美しい》統一を引き裂き、信仰の《精神的な》意識を、《感覚的》現実という低い思想によって、不純にし、信仰に帰順して《平静になり安定している》心情を、《空しい》悟性と利己的な意志の実行とによって、破壊することであるように思われる。しかし実際には、啓蒙は、信仰のうちに現存している分裂、《思想なき》あるいはむしろ《概念なき分裂を》、なくそうとしているのである。信仰する意識は、二重の物差しと錘(おもり)をもっており、二重の眼、二重の耳をもっており、二重の舌と言葉をもっており、すべての表象を二重にしてしまっている、が、この二重の意味を比較したりはしない。言いかえると、信仰は二重の知覚のなかに生きている、一方は《眠れる》意識の知覚で、全く概念なき思想のうちにあり、他方は《目覚めた》意識の知覚で、感覚的現実のなかに生きているだけの、意識の知覚である。信仰はその両者のいずれにおいても、それぞれ独自の暮らしを立てている。ーーー啓蒙は、感覚的世界の表象を使って、天上の世界に光をあて〔啓蒙とは光をあてること〕、信仰とても否定しえないこの有限性を、天上の世界に示す。というのは、信仰は自己意識であり、したがって二つの表象の仕方をもっており、それらを分離しておかない統一だからである。その理由は、両方とも分裂のない《単一な》自己に帰属しており、そこへ信仰は移ってしまっているからである。こうして信仰は、その境位〔場〕をみたしていた内容を失い、精神自身のくすんだ織物のうちに崩れて行く」(ヘーゲル「精神現象学・下・P.164~165」平凡社ライブラリー)
さらに啓蒙の側が犯してしまう錯覚について。
「啓蒙自身は、信仰のばらばらな契機が対立していることを、信仰に想い起させるのだが、自分自身について啓蒙されていない点では、信仰と同じである」(ヘーゲル「精神現象学・下・P.158」平凡社ライブラリー)
この態度は今なお環境問題関連の議論においてつきまとってくる事情である。こんなふうに。
「柔軟性の増進を目指す以上、エコロジストは他の公共複利政策のプラナーとちがって、立法によるコントロールを推進するのとは逆に、より専横的でない方策に訴えなくてはならないが、その一方で必要な権限を発揮し、現存する、あるいは作り出しうる柔軟性の保護に当たらなくてはならない。柔軟性保存のためには、彼の提案は(天然資源保存の場合と同様)専横的な支配力を持たなくてはならない」(ベイトソン「精神の生態学・P.658」新思索社)
総務部門でも事務局でも構わないのだが、或る政策を実行に移すとき必ずもめる元になるのが組織的なものにつきもののそのような不可避的事情である。政策の柔軟性を保持するために実現される組織化が逆に専横的な振る舞いに転化するという逆説だ。差し当たりアルトーの言葉にけりを付けてしまおう。来るべき舞踏の身振り仕ぐさは、これまで列挙された「あらゆる湿疹 あらゆる疱疹 あらゆる結核 あらゆる疫病 あらゆるペスト」という伝染病のようには実現されていない。演劇がペストを演じるのではなく、ペストのような感染力を持つ演劇が創造され実現されねばならない。だから来るべき舞踏はこれまでの古典芸能のようなものにはならない。まだ見ぬ感染力を兼ね備えた雷撃のように描き出されていかなければならないだろうと述べるのである。それはまだ始まっていないのだ。
「大地はおそるべき舞踏の行為のもとに 描かれ写される この舞踏はまだ伝染病のようにして そのあらゆる果実をもたらしてはいない」(アルトー「残酷劇」『神の裁きと訣別するため・P.63』河出文庫)
ところで環境問題に取り組むにあたって、不可避的に起こってくる組織的専横を避けて、より柔軟で適切な対応をすみやかに実行していくために何が必要か。これは世界的レベルの問題になる。まず第一にカントから。
「たがいに関係しあう諸国家にとって、ただ戦争しかない無法な状態から脱出するには、理性によるかぎり次の方策しかない。すなわち、国家も個々の人間と同じように、その未開な(無法な)自由を捨てて公的な強制法に順応し、そうして一つの(もっともたえず増大しつつある)諸民族合一国家を形成して、この国家がついには地上のあらゆる民族を包括するようにさせる、という方策しかない。だがかれらは、かれらがもっている国際法の考えにしたがって、この方策をとることをまったく欲しないし、そこで一般命題として正しいことを、具体的な適用面では斥(しりぞ)けるから、《一つの世界共和国》という積極的理念の代わりに(もしすべてが失われてはならないとすれば)、戦争を防止し、持続しながらたえず拡大する《連合》という《消極的》な代替物のみが、法をきらう好戦的な傾向の流れを阻止できるのである」(カント「永遠平和のために・P.45」岩波文庫)
次に重要なヒントとしてマルクスから。
「労働者たち自身の協同組合工場は、古い形態のなかでではあるが、古い形態の最初の突破である。といっても、もちろん、それはどこでもその現実の組織では既存の制度のあらゆる欠陥を再生産しているし、また再生産せざるをえないのではあるが。しかし、資本と労働との対立はこの協同組合工場のなかでは廃止されている。たとえ、はじめは、ただ、労働者たちが組合としては自分たち自身の資本家だという形、すなわち生産手段を自分たち自身の労働の価値増殖のための手段として用いるという形によってでしかないとはいえ。このような工場が示しているのは、物質的生産とそれに対応する社会的生産形態とのある発展段階では、どのように自然的に一つの生産様式から新たな生産様式が発展し形成されてくるかということである。資本主義的生産様式から生まれる工場制度がなければ協同組合工場は発展できなかったであろうし、また同じ生産様式から生まれる信用制度がなくてもやはり発展できなかったであろう。信用制度は、資本主義的個人企業がだんだん資本主義的株式会社に転化して行くための主要な基礎をなしているのであるが、それはまた、多かれ少なかれ国民的な規模で協同組合企業がだんだん拡張されて行くための手段をも提供するのである。資本主義的株式企業も、協同組合工場と同じに、資本主義的生産様式から結合生産様式への過渡形態とみなしてよいのであって、ただ、一方では対立が消極的に、他方では積極的に廃止されているだけである」(マルクス「資本論・第三部・第五篇・第二十七章・P.227~228」国民文庫)
そして両者の共通性はどちらも「アソシエーション」(“association”=緩やかな繋がり)であるという点だ。アメリカや中国の場合、どちらも「ユナイテッド」(“united”=団結、結合)に力点が置かれている。その方法ではどこから取り掛かるにしても国土強靭化計画という強引で高圧的な一国中心主義に陥ってしまう。だが「アソシエーション」(“association”=緩やかな繋がり)の場合、力点が置かれるのは「関係」(“relation”/“relationship”)であり「コンセンサス」(“consensus”/“informed consent”=説明と理解に基づく合意)である。世界は常に既に「相互依存関係」(“interdependence”)にあるほかない。にもかかわらずアメリカも中国もどちらともやっていることは一国中心主義にほかならないのであり、一目瞭然、不遜にもほどがあるといわねばならない。そのような態度を許していては日本政府による拉致問題解決などあり得ないと考えるほかなくなってしまう。北方領土問題も沖縄基地問題も。
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なお前回、アメリカの薬物乱用に関し俗称「ルード」(“lude”)に関して述べた。商品名「メタカロン」。薬剤名「クオルード」。主成分の効果はすでに述べたようにバルビツール酸系睡眠薬「アモバルビタール」に大変よく似ており、乱用者の場合、用い方はほぼ変わらない。アッパー系のカフェインやコカインあるいはエナジードリンクとの併用によって「ラリ」る。また、ネット検索すれば様々な表記があるが、眠気を十五分ほど我慢すれば逆にハイな気分になるというのは超短時間作用型睡眠薬「トリアゾラム」(商品名「ハルシオン」)と同様である。日本でも主に内科を受診する高齢者で「トリアゾラム」(商品名「ハルシオン」)なしには寝られないと訴える患者は少なくない。むしろ増えた。高齢化による睡眠の変化があるにせよ、いったん「トリアゾラム」(商品名「ハルシオン」)の常用によって睡眠することを覚えた高齢者はもうそれなしには寝られなくなる。あるいはより一層巧妙な方法では中間型抗不安薬アルプラゾラム(商品名「ソラナックス」)を処方してもらい就寝前にアルコールと併用する。すると家族あるいは同居人が寝静まったのを待って、それまで立って歩けなかった老人がてくてくと起き上がってきて風俗店で散財して遊んで帰ってくる。しかし朝になると認知症でもないのに自分の夜間の行動をすっかり忘れ去っていて家族あるいは同居人は途方もなく馬鹿馬鹿しい思いを味わうはめになったりする。にもかかわらずそうしたタイプにおちいった高齢者は、自分で自分自身の不眠を切々と訴えることで何とかして「トリアゾラム」(商品名「ハルシオン」)を処方してもらおうと医療機関を転々とするケースがある。若年層から中年層に対してさえそう簡単に「トリアゾラム」(商品名「ハルシオン」)が処方されることがないのは自明だが、高齢者だからといって油断は無用である。妙な言い方になるが、高齢者は自分の悲惨ぶりを切々と訴えることで不眠を解消したいというよりも、どちらかといえば、ハルシオンを手に入れたがっている場合が多い。高齢者は子どもではない。世渡り上手でもある。本当に必要としている症状なのか、それとも七〇歳を過ぎてなお、ただ単にハルシオン乱用による睡眠薬遊びを反復したがっているに過ぎないのか。見極めが肝要だろう。なぜなら、ただでさえ本当に必要としている人々に必要な薬剤が品切れで回ってこないという殺人的状況がときどき発生しているからである。ちなみに精神科の場合、一九七〇年代から八〇年代にかけて余りにも多くの依存症者を出した経験から、今では逆に、精神科でハルシオンを処方する医師はほとんどいない。
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
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