白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

言語化するジュネ/流動するアルトー129

2020年02月24日 | 日記・エッセイ・コラム
目まぐるしく回転する光景はジュネの少年時代を推測させるに十分である。しかし作品中ではディヴィーヌ(彼女)がキュラフロワ(彼)だった頃の想像力が創造した無数の光景の反復として記述される。たとえばキュラフロワの散歩。意識にのぼってくる言葉はたいがいの場合、すぐさま自分から飛び去るのが常だ。ところが彼は自分の意識にのぼってきた言葉が「すぐさま飛び去る」ところをほんの僅かの差で逆に捕らえて自分自身に「回れ右」を実現させる。

「並木道を通っていたとき、いくつもある並木道のひとつの端までやって来て、芝生の上に上がらないようにするには来た道を引き返さなければならないことに彼は気づいた。自分がそうするのを見て、彼は『奴っこさん、回れ右をしたな』と思った、そしてすぐさま飛び去るところを捕らえられたこの言葉が反転して、彼に敏捷な半回転を実行させた」(ジュネ「花のノートルダム・P.224~225」河出文庫)

なぜそれができたのか。キュラフロワの想像力が直後に想定できる事態を先取りしたからということができる。ちなみに今の日本政府にはその程度の想定力さえ持っていないことが今回の新型ウイルス蔓延問題ではっきりした。また、パンデミックの危機については国際社会で常々指摘されてきたにもかかわらず、想定内の事態に対する危機管理マニュアルすらまったく作成されていなかった。先送りし棚上げしてきた事実を自己暴露することになった。ところでキュラフロワは寸でのところで「軽い身振りを交えたダンスを彼は自分から進んで始めるところだった」。しかしそうはしない。キュラフロワの靴はそのような上品なものではなかったからである。

「もし口を開けた彼の靴の底が砂の上を引きずって、恥ずかしい下品な音を立てなかったなら、控えめで、軽い身振りを交えたダンスを彼は自分から進んで始めるところだった(というのもさらにこのことに留意すべきなのだから。つまり洗練された、言い換えるならかまととぶった、つまり礼儀正しい趣味をもったーーーというのも想像力のうちでは、われらがヒーローたちは怪物に魅了される若い娘たちの気持ちを示しているからだがーーーキュラフロワまたはディヴィーヌは、いつも彼らに嫌悪を催させる状況のなかにいたのである)」(ジュネ「花のノートルダム・P.225」河出文庫)

身に付けるものが身振り仕ぐさを鮮明化させる場合がある。作品「葬儀」で頻出したように。

「乱暴に向き直ったために、もともと目深に傾いでいた私の黒い軍帽は肩の上にずり落ち、地面へころがった。(俺から葉っぱが落ちたのだ)という考えがすばやく、私の脳裏をかすめた。地面に落ちた略帽を拾い上げようとするかのように私の左手はかすかに動きかけた」(ジュネ「葬儀・P.153」河出文庫)

社会化され一般化され普及していれば「黒い軍帽」はただそれだけでいつでも「略帽」との等価性を維持し得る。また維持されなければならない。社会化とはそういうことだ。しかしそれはまた「黒い軍帽」がヨーロッパにおいてすでに帝国の象徴として承認を得ているかぎりでようやく可能になり認められもする省略を意味する。たとえばハーケンクロイツの帝国は、ハーケンクロイツの社会的地位に比例して上りもするし下がりもするが、いったんドイツ帝国も象徴として絶対化され、貨幣の位置をかち取るやいなや、それまでナチス党員とその支持者らが行使してきた暴力的脅迫行為や国会での政権奪取過程などはすべて、貨幣《として》欲望されるハーケンクロイツという象徴によって跡形もなくおおい隠されてしまう。マルクス参照。

「商品世界のこの完成形態ーーー貨幣形態ーーーこそは、私的諸労働の社会的性格、したがってまた私的諸労働者の社会的諸関係をあらわに示さないで、かえってそれを物的におおい隠す」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.141」国民文庫)

さらに。

「わきに垂らした左手に黒い略帽を、そして右手には、伸ばした腕の先に、身体からかなり離して拳銃をにぎりしめながら、落着きはらって、ドイツ軍の長靴に、あふれ出る汗とむせ返る湯気でふくらんだ黒ズボンといういでたちで、万人のきびしい、だが安心できる暮らしを目ざして、私は夜の坂道をくだっていくのだった」(ジュネ「葬儀・P.157」河出文庫)

エリックの「背後」には誰もいない。が、ジュネ的感性はエリックの「背後」に続々とフェチの系列を付け加える。

「背後からは、化粧し、花を飾り、香水をつけ、鉄兜をかぶった戦士たちが、殺害された少年の開いた胸からぞくぞくと繰り出され、笑顔で或いは厳粛な顔付きで、素裸で或いは革や銅や鉄の鎧に身をつつんで、黒い喪章のついた真紅の旌旗(せいき)を押し立て、沈黙の世界の荘厳な行進曲(マーチ)に導かれて行進を開始するのだった」(ジュネ「葬儀・P.157」河出文庫)

叙述順に取り出す。「化粧し、花を飾り、香水をつけ、鉄兜をかぶった戦士たち」「黒い喪章のついた真紅の旌旗(せいき)」「行進曲(マーチ)」。さらに「鎧」とあるけれども「鎧」はどうでもよいのである。大事なのはそれが「革」「銅」「鉄」で仕上げられ洗練されていなくてはならないというフェチ愛好家の趣味によりけりで、他の何にでも置き換え可能だという事情にある。たとえば「本」より「本棚」を、「戦艦」より「戦艦むすめ」を、日本では太宰治「ダス・ゲマイネ」にあるように「ヴァイオリン」より「ヴァイオリンケエスを気にする」、というように。

あるいは。

「ついでに記しておくと、気をやる瞬間に先立つ渦巻ーーーそれをほとんど内包したーーーときには気をやる行為そのものよりも陶酔的な渦巻の真只中にあって、いちばんエロティックなすばらしい想像、いちばん厳粛な、いうなれば内なる祭典によって準備された、すべてがその方向を目指す想像、それは戦車兵の黒い軍服をまとったドイツ兵によって私に授けられるのだった」(ジュネ「葬儀・P.169~170」河出文庫)

「ついでに記しておく」、にもかかわらず描写が長くなるのは、フェチの系列の列挙による。一方にエリックを、もう一方に死刑執行人を配している。

「だけどエリックは、ガベスの眼の奥へ、黒い音楽のひびきと暁の香りによって運ばれてきたのにひきかえ、疾駆する光の馬にまたがって、鞍のわきに黒い喪布をかぶせた斧をむすびつけ、河や森や街々を一日で走りぬけドイツからやって来た、汗まみれの死刑執行人のほうは半裸体だった」(ジュネ「葬儀・P.170」河出文庫)

エリックは「ガベスの眼」「黒い音楽のひびき」「暁の香り」。死刑執行人は「疾駆する光の馬」「黒い喪布」「斧」「一日で走りぬけ」「汗まみれ」「半裸体」。

「ガベスの眼」は「青銅の眼」でも構わないとおもわれる。その意味は「男性の肛門」である。太陽との等価性が維持されているかぎりで。「黒い音楽」は「ひびき」が大事だ。響いて《来ない》音楽を指して「黒い」とは言い難い。さらに大事なのはそれが響いて《来る》という距離感と音響がものをいう。ナチスドイツ党大会の冒頭にベートーベン「エグモント」序曲が配置されていたのは、式典という意味ではかなり練り上げられたものであるという印象を受ける。そういう細かな部分への目配りがイタリアのファシスト党にはあまり見られないのではと感じる。それがムッソリーニとヒットラーとの差だといってしまえばそれまでかもしれないが。ファシスト党というよりイタリアの行進曲は今なおヴェルディなのであり、ベートーベンやヴァーグナーとの比較において、そこから醸造されてくる風土には余りにも違いがあり過ぎる。組織力は軍事力へ接続される。けれども軍事力の色彩を決定づけるのは、軍隊を送り出す国民の耳に向けて、耳を通して送り届けられる音楽の側に決定権がある。その音楽のもとで兵士らは死んでいく、と国民は考えるからである。耳という身体器官が持つ政治的重要性に気付いていたという点でジュネはほんの「泥棒」時代から詩人であった。そして「泥棒」として生涯を終えた。「暁の香り」はジュネ固有の趣味だろう。

「疾駆する光の馬」とあるけれども疾駆しているのは男性器自身である。疲れを知らないという条件も加わる。馬だからだ。そして馬は勝者の象徴でもある。たいそう古典的な舞台装置のようにおもわれるが、近現代になっても西洋の絵画では何度も繰り返し取り上げられてきたテーマである。馬に託された「光」は黒光りする男性器をより一層形式化された計り知れない速度を有していることを示す。形式化にもかかわらず計り知れないというのは論理的には矛盾しているけれども、官能の速度の逆説は、綿密に形式化しようとすればするほど逆に計り知れないものへと変容することを特徴としている。ジュネにしても、性行為において「気をやる瞬間」のすべてを本当に形式化できるとは思ってもいない。続く「黒い喪布」。明確なステレオタイプが用いられている。「斧」は死刑執行人の男性器だけのことを指すのではなく、世の中の男性の勃起した男性器すべての象徴と考えるのが妥当だろうとおもわれる。「一日で走りぬけ」という言い回しは今でもよく使われる。ふつうに考えれば武器全般が持つ速度の強調ということになるのだが、今の資本主義では武器が速度を所有するというより、速度そのものが武器へと転倒したことを上げておかねばならない。ネット社会では特にそうだ。だからネット空間は、ジュネ的感性からすれば、いつどこから飛んでくるか予想もつかない精液と死とで溢れかえっていて手もつけられない、と言うだろう。システムとしてのインターネットは資本の利潤率を平均化させる動作環境を自らの手で更新しさえする。ジュネを興奮の坩堝(るつぼ)に叩き込むこと間違いない。さらにステレオタイプな「汗まみれ」だが様々に解釈可能なので改めて付け加えるより、むしろ逆に差し引きたいくらいだ。そして「半裸体」。「全裸」では何らの意味も持たないことは明白である。官能の絶頂へと「渦巻く」意志が問題なのであり、射精そのものにはすでに労働のイメージが入り込んでいる。射精行為は半分以上、自分で自分自身を殺害済みの状態で感じる脱力の感覚であって、取り残された死としてもはや消滅である。

「色は浅黒くけむくじゃらで、筋骨たくましく、ずっしり柔らかい睾丸と陰茎の形を細部まで微妙に浮かび上がらせている、紺青色のきらきら光るジャージーの肉襦袢にぴっちり身をつつんで」(ジュネ「葬儀・P.170」河出文庫)

というイメージは当時のドイツで流行していたファッションの一つ。今でもときどき復活してくる。ということはそれ以前の流行の反復かもしれない。実際、サドの小説のイメージは黒革で覆われているのであり、黒革の衣装はファシズムよりもサディズムの側にはるかに近い。ファシズムを見て驚くのはその余りにも平板単調で時として無意識的な同一化の不気味さに、なのだが、サディズムを見て驚くのはその余りにも極端な残酷さの多岐に渡る行使応用とその自覚があるということに、である。ファシズムは増殖を目指すがサディズムは死を目指す。では日本はどうだったか。東京裁判ではっきりしたのは丸山真男のいう「無責任の体系」ということであって、アメリカの介入があったにせよ、戦争が終わってみれば責任者は始めからどこにもいなかったかのように映って見えるという異様さである。この異様さは或る意味、意識の確かさを戸惑わせ疑わせるに十分な破壊力を持っている。破壊力といっても劇的なものではまったくない。資料的文書を見ていると、逆に人間はどこにもおらず、言語だけがバトンタッチしていく奇妙なモンタージュ風景をおもわせる。影一つない空虚な砂漠に放り出されたかのような感覚におちいる。原爆投下直後の広島に入り、忽然と出現した平板な瓦礫の砂漠で思わず知らず放射能を身に浴びているような。

といったふうに。ところでキュラフロワは自分が履いているおんぼろな靴音を聞いてしまう。

「彼は靴底の音を聞いた。この秩序への復帰命令が彼の頭をうなだれさせた」(ジュネ「花のノートルダム・P.225」河出文庫)

少年キュラフロワの想像力とノスタルジーへの憧れに満ちた幻想世界はたちまち溶けてなくなる。

「彼は、ごく自然に瞑想的な態度になり、そしてゆっくりと戻った。公園を散歩している人たちは彼が通り過ぎるのを見たし、彼らが彼の顔色の蒼白いこと、からだが痩せていること、彼の伏せた瞼がビー玉のように重くて丸いことに気づいたのをキュラフロワは見た。彼はもっと首を傾げ、その足取りはさらにもっとゆっくりになった」(ジュネ「花のノートルダム・P.225」河出文庫)

ディヴィーヌ(彼女)になることでキュラフロワ(彼)は人生を変えた。ところがいつでも反復可能な少年時代の思い出は、周囲の光景のアナロジー(類似、類推)を含めたふとした身振り仕ぐさの一致だけでたちまちディヴィーヌをキュラフロワ時代の儚い夢の世界へ巻き戻してしまうのである。
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さて、アルトー。「生者と死者の出会い」の場としてのルネサンス。そしてルネサンス期に描かれた様々な芸術が市民社会に見せつけた無数の閃光。

「これらの蜂起が 二つの未知の世界の出会いをたえまなく描く 中世の絵を生み出した」(アルトー「残酷劇」『神の裁きと訣別するため・P.63』河出文庫)

その意味でルネサンスは一般大衆を大いに啓蒙したけれども、啓蒙には啓蒙の逆説というものがあるのだ。ヘーゲルはいう。

「啓蒙は、信仰に対し、抵抗できないほどの権力をふるうが、これは、信仰する意識自身のうちに、啓蒙を妥当させるような、いくつかの契機が在るからである。この力の影響をもっと詳しく考えると、信仰に対する啓蒙の態度は、《信頼》と直接的な《確信》との《美しい》統一を引き裂き、信仰の《精神的な》意識を、《感覚的》現実という低い思想によって、不純にし、信仰に帰順して《平静になり安定している》心情を、《空しい》悟性と利己的な意志の実行とによって、破壊することであるように思われる。しかし実際には、啓蒙は、信仰のうちに現存している分裂、《思想なき》あるいはむしろ《概念なき分裂を》、なくそうとしているのである。信仰する意識は、二重の物差しと錘(おもり)をもっており、二重の眼、二重の耳をもっており、二重の舌と言葉をもっており、すべての表象を二重にしてしまっている、が、この二重の意味を比較したりはしない。言いかえると、信仰は二重の知覚のなかに生きている、一方は《眠れる》意識の知覚で、全く概念なき思想のうちにあり、他方は《目覚めた》意識の知覚で、感覚的現実のなかに生きているだけの、意識の知覚である。信仰はその両者のいずれにおいても、それぞれ独自の暮らしを立てている。ーーー啓蒙は、感覚的世界の表象を使って、天上の世界に光をあて〔啓蒙とは光をあてること〕、信仰とても否定しえないこの有限性を、天上の世界に示す。というのは、信仰は自己意識であり、したがって二つの表象の仕方をもっており、それらを分離しておかない統一だからである。その理由は、両方とも分裂のない《単一な》自己に帰属しており、そこへ信仰は移ってしまっているからである。こうして信仰は、その境位〔場〕をみたしていた内容を失い、精神自身のくすんだ織物のうちに崩れて行く」(ヘーゲル「精神現象学・下・P.164~165」平凡社ライブラリー)

さらに啓蒙の側が犯してしまう錯覚について。

「啓蒙自身は、信仰のばらばらな契機が対立していることを、信仰に想い起させるのだが、自分自身について啓蒙されていない点では、信仰と同じである」(ヘーゲル「精神現象学・下・P.158」平凡社ライブラリー)

この態度は今なお環境問題関連の議論においてつきまとってくる事情である。こんなふうに。

「柔軟性の増進を目指す以上、エコロジストは他の公共複利政策のプラナーとちがって、立法によるコントロールを推進するのとは逆に、より専横的でない方策に訴えなくてはならないが、その一方で必要な権限を発揮し、現存する、あるいは作り出しうる柔軟性の保護に当たらなくてはならない。柔軟性保存のためには、彼の提案は(天然資源保存の場合と同様)専横的な支配力を持たなくてはならない」(ベイトソン「精神の生態学・P.658」新思索社)

総務部門でも事務局でも構わないのだが、或る政策を実行に移すとき必ずもめる元になるのが組織的なものにつきもののそのような不可避的事情である。政策の柔軟性を保持するために実現される組織化が逆に専横的な振る舞いに転化するという逆説だ。差し当たりアルトーの言葉にけりを付けてしまおう。来るべき舞踏の身振り仕ぐさは、これまで列挙された「あらゆる湿疹 あらゆる疱疹 あらゆる結核 あらゆる疫病 あらゆるペスト」という伝染病のようには実現されていない。演劇がペストを演じるのではなく、ペストのような感染力を持つ演劇が創造され実現されねばならない。だから来るべき舞踏はこれまでの古典芸能のようなものにはならない。まだ見ぬ感染力を兼ね備えた雷撃のように描き出されていかなければならないだろうと述べるのである。それはまだ始まっていないのだ。

「大地はおそるべき舞踏の行為のもとに 描かれ写される この舞踏はまだ伝染病のようにして そのあらゆる果実をもたらしてはいない」(アルトー「残酷劇」『神の裁きと訣別するため・P.63』河出文庫)

ところで環境問題に取り組むにあたって、不可避的に起こってくる組織的専横を避けて、より柔軟で適切な対応をすみやかに実行していくために何が必要か。これは世界的レベルの問題になる。まず第一にカントから。

「たがいに関係しあう諸国家にとって、ただ戦争しかない無法な状態から脱出するには、理性によるかぎり次の方策しかない。すなわち、国家も個々の人間と同じように、その未開な(無法な)自由を捨てて公的な強制法に順応し、そうして一つの(もっともたえず増大しつつある)諸民族合一国家を形成して、この国家がついには地上のあらゆる民族を包括するようにさせる、という方策しかない。だがかれらは、かれらがもっている国際法の考えにしたがって、この方策をとることをまったく欲しないし、そこで一般命題として正しいことを、具体的な適用面では斥(しりぞ)けるから、《一つの世界共和国》という積極的理念の代わりに(もしすべてが失われてはならないとすれば)、戦争を防止し、持続しながらたえず拡大する《連合》という《消極的》な代替物のみが、法をきらう好戦的な傾向の流れを阻止できるのである」(カント「永遠平和のために・P.45」岩波文庫)

次に重要なヒントとしてマルクスから。

「労働者たち自身の協同組合工場は、古い形態のなかでではあるが、古い形態の最初の突破である。といっても、もちろん、それはどこでもその現実の組織では既存の制度のあらゆる欠陥を再生産しているし、また再生産せざるをえないのではあるが。しかし、資本と労働との対立はこの協同組合工場のなかでは廃止されている。たとえ、はじめは、ただ、労働者たちが組合としては自分たち自身の資本家だという形、すなわち生産手段を自分たち自身の労働の価値増殖のための手段として用いるという形によってでしかないとはいえ。このような工場が示しているのは、物質的生産とそれに対応する社会的生産形態とのある発展段階では、どのように自然的に一つの生産様式から新たな生産様式が発展し形成されてくるかということである。資本主義的生産様式から生まれる工場制度がなければ協同組合工場は発展できなかったであろうし、また同じ生産様式から生まれる信用制度がなくてもやはり発展できなかったであろう。信用制度は、資本主義的個人企業がだんだん資本主義的株式会社に転化して行くための主要な基礎をなしているのであるが、それはまた、多かれ少なかれ国民的な規模で協同組合企業がだんだん拡張されて行くための手段をも提供するのである。資本主義的株式企業も、協同組合工場と同じに、資本主義的生産様式から結合生産様式への過渡形態とみなしてよいのであって、ただ、一方では対立が消極的に、他方では積極的に廃止されているだけである」(マルクス「資本論・第三部・第五篇・第二十七章・P.227~228」国民文庫)

そして両者の共通性はどちらも「アソシエーション」(“association”=緩やかな繋がり)であるという点だ。アメリカや中国の場合、どちらも「ユナイテッド」(“united”=団結、結合)に力点が置かれている。その方法ではどこから取り掛かるにしても国土強靭化計画という強引で高圧的な一国中心主義に陥ってしまう。だが「アソシエーション」(“association”=緩やかな繋がり)の場合、力点が置かれるのは「関係」(“relation”/“relationship”)であり「コンセンサス」(“consensus”/“informed consent”=説明と理解に基づく合意)である。世界は常に既に「相互依存関係」(“interdependence”)にあるほかない。にもかかわらずアメリカも中国もどちらともやっていることは一国中心主義にほかならないのであり、一目瞭然、不遜にもほどがあるといわねばならない。そのような態度を許していては日本政府による拉致問題解決などあり得ないと考えるほかなくなってしまう。北方領土問題も沖縄基地問題も。
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なお前回、アメリカの薬物乱用に関し俗称「ルード」(“lude”)に関して述べた。商品名「メタカロン」。薬剤名「クオルード」。主成分の効果はすでに述べたようにバルビツール酸系睡眠薬「アモバルビタール」に大変よく似ており、乱用者の場合、用い方はほぼ変わらない。アッパー系のカフェインやコカインあるいはエナジードリンクとの併用によって「ラリ」る。また、ネット検索すれば様々な表記があるが、眠気を十五分ほど我慢すれば逆にハイな気分になるというのは超短時間作用型睡眠薬「トリアゾラム」(商品名「ハルシオン」)と同様である。日本でも主に内科を受診する高齢者で「トリアゾラム」(商品名「ハルシオン」)なしには寝られないと訴える患者は少なくない。むしろ増えた。高齢化による睡眠の変化があるにせよ、いったん「トリアゾラム」(商品名「ハルシオン」)の常用によって睡眠することを覚えた高齢者はもうそれなしには寝られなくなる。あるいはより一層巧妙な方法では中間型抗不安薬アルプラゾラム(商品名「ソラナックス」)を処方してもらい就寝前にアルコールと併用する。すると家族あるいは同居人が寝静まったのを待って、それまで立って歩けなかった老人がてくてくと起き上がってきて風俗店で散財して遊んで帰ってくる。しかし朝になると認知症でもないのに自分の夜間の行動をすっかり忘れ去っていて家族あるいは同居人は途方もなく馬鹿馬鹿しい思いを味わうはめになったりする。にもかかわらずそうしたタイプにおちいった高齢者は、自分で自分自身の不眠を切々と訴えることで何とかして「トリアゾラム」(商品名「ハルシオン」)を処方してもらおうと医療機関を転々とするケースがある。若年層から中年層に対してさえそう簡単に「トリアゾラム」(商品名「ハルシオン」)が処方されることがないのは自明だが、高齢者だからといって油断は無用である。妙な言い方になるが、高齢者は自分の悲惨ぶりを切々と訴えることで不眠を解消したいというよりも、どちらかといえば、ハルシオンを手に入れたがっている場合が多い。高齢者は子どもではない。世渡り上手でもある。本当に必要としている症状なのか、それとも七〇歳を過ぎてなお、ただ単にハルシオン乱用による睡眠薬遊びを反復したがっているに過ぎないのか。見極めが肝要だろう。なぜなら、ただでさえ本当に必要としている人々に必要な薬剤が品切れで回ってこないという殺人的状況がときどき発生しているからである。ちなみに精神科の場合、一九七〇年代から八〇年代にかけて余りにも多くの依存症者を出した経験から、今では逆に、精神科でハルシオンを処方する医師はほとんどいない。
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

BGM1

BGM2


言語化するジュネ/流動するアルトー128

2020年02月23日 | 日記・エッセイ・コラム
ジュネは「夜」にこだわる。だがそれは必ずしも昼夜の区別を意味するわけではない。

「何度も私は『それは夜でした』と言っていたのだが、判事が私に指摘したとおり、それは私の立場をよけいに危うくする状況だった、しかし同じように判事は、狡猾な軽犯罪者ならそんな自白はしなかっただろうし、私はきっと新参者にちがいないと考えたのだ」(ジュネ「花のノートルダム・P.222」河出文庫)

ジュネは「取調室」で「頭に浮かんだ」という。告げる必要などまるでない。にもかかわらず「私は機械的に『夜』と言った」。

「『それは夜でした』と言おうという考えが私の頭に浮かんだのは、判事の取調室である、というのもこの同じ夜については、私には隠すべき細部があったからである。夜、すでに私は新たな犯罪の告発をかわそうと考えていたが、私はどんな痕跡も残してはいなかったので、それいんさして重要性を認めてはいなかった。ついで重要性が芽生え、増大したのだーーーなぜなのかは私にはわからないーーーそして私は機械的に『夜』と言った、機械的に、だがしつこく」(ジュネ「花のノートルダム・P.222~223」河出文庫)

ジュネのいう「夜」は、別のところで「夜陰的」という意味で用いられている。

「もちろんわたしは、当時その魅力においてベルナールと同等の他の男を愛することも可能であっただろうが、しかし、もしわたしが選択できる立場にあったとしても、わたしは自分の恋人を悪党仲間の者よりも警察官から選んだにちがいなかった。彼のそばにいるとき、わたしは主として彼の堂々たる挙措(きょそ)や、衣服を通して看取される彼の筋肉の躍動、彼の視線、要するに彼の固有のさまざまな美質によって圧服されていたのではあるが、わたしが独(ひと)りでいて我々の愛について思うときは、わたしは警察というもの全体の夜陰的な力に支配されていたのである(警察について語る場合、『夜陰的』あるいは『暗い』という言葉が否応なく頭に浮ぶ。警察の人間も一般の人々と同じようにさまざまな色合いの服を着るが、それにもかかわらず、彼らのことを思うとき、彼らの顔や衣服の上にわたしは必ず影のようなものを見る)」(ジュネ「泥棒日記・P.283~284」新潮文庫)

ジュネはいつも「夜陰的」な動作(観念的/実践的いずれにしても)をことのほか好む「泥棒、裏切り者、性倒錯者」として日常を言語化する。とともに言語化に伴う創造力を「増大する力の感じ」として深く受け止め味わう。
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さて、アルトー。何度も述べてきたように人間の身体は数千年に渡って引き継がれてきたかび臭い宗教的暴力によって「悲惨に切り詰められた身体の強制収容所」と化してしまったと告発せずにはおれない。

「病んだ者の呼吸や脈拍をききながら、これら悲惨に切り詰められた身体の強制収容所を前にして、おそるべき黴菌たちに おしつぶされた巨大な地平の 足や胴体や性器の鼓動に耳を傾けながら」(アルトー「残酷劇」『神の裁きと訣別するため・P.61』河出文庫)

そのような観察をのんびり行える立場にいた人々。それは一体どこにあったのか。どのような立場なのか。

「歴史的に でなければ地理的に予想もできない場所 ある種の墓のあるところ、あるいはその深み」(アルトー「残酷劇」『神の裁きと訣別するため・P.62』河出文庫)

アルトーは「歴史的」と書く。歴史的に実在した場所。「そこで生者は死者と」は「待ち合わせる」ことができる。そして実際、出会うことになった。それは残されている。動かぬ証拠として、知名度でいえば、まったく世界的というほかないほどの規模で。

「そこで生者は死者と 待ち合わせる そして死の舞踏を描いた絵の起源は まさにここにある」(アルトー「残酷劇」『神の裁きと訣別するため・P.62』河出文庫)

要するに時代と時代との《あいだ》。フーコーの用語にならえばそのときヨーロッパには「断層」が出現している。ニーチェは次のように評する。

「イタリアのルネサンスは、近代文化をわれわれに得させるに至ったあらゆる積極的な威力をその内に秘めていた、つまり思想の解放、諸権威の侮辱、素性の自惚れに対する教養の勝利、学問と人間の学問的過去とに対する感激、個人の解放、誠実とみせかけや単なる効用に対する嫌悪との灼熱(この灼熱は、自分の作品の完全さを、そしてただ完全さだけを、最高の道徳的純粋さをもって自身に求めたところのまったく多くの芸術家タイプの人々の中に燃えでたのであった)である、実にルネサンスは、われわれの《これまでの》近代社会において、まだ二度とこれほど強烈になったことがないような積極的な諸力をもっていた。それは、あらゆる汚点や悪徳にもかかわらず、この千年の黄金時代であった」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的1・二三七・P.257」ちくま学芸文庫)

もっとも、「断層」という用語は差し当たり時代と時代との《あいだ》あるいは《隙間》に見出されるほんのわずかな時期を指し示すに過ぎない。ところが人間が実現する文化的諸活動の一つの時代(パラダイム)を区切り、時代と時代との差異を実現するのは時代の側ではない。逆に《あいだ》あるいは《隙間》の側である。次のように。

「本来の商業民族は、エピクロスの神々のように、またはポーランド社会の気孔のなかのユダヤ人のように、ただ古代世界のあいだの空所に存在する」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.146」国民文庫)

彼らは非定住型の生活様式を持つ遊牧民あるいは移動民なのだ。そして始めてこう述べることができる。

「商品交換は、共同体の果てるところで、共同体が他の共同体またはその成員と接触する点で、始まる」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第二章・P.161」国民文庫)

ところで「麻薬」、違法ドラッグ。それは貨幣と同時に移動する。バロウズのいう「地区と地区の境い目あたりでしばしば見つかる」。《あいだ》あるいは《隙間》ということ。

「麻薬は性格のはっきりしない地区や、地区と地区の境い目あたりでしばしば見つかるものだ」(バロウズ「ジャンキー・P.171~172」思潮社)

とはいえ、今ではただ単に一種類の薬物を用いて乱用するというケースは減少しているように思える。たとえばアメリカ全土で社会問題化している俗称「ルード」(“lude”)乱用。バルビツール酸系睡眠薬「アモバルビタール」(商品名「イソミタール」)として処方される。処方されはする。しかし一般の精神科ではまず処方されない。アルコールや薬物依存症で専門機関に入院するときまず始めに薬物離脱時に出現する幻覚幻聴に見舞われて自傷事故を起こさないためにしっかりした睡眠が緊急と判断されるときに限り最大十日以内の条件付きで処方される。十日以上連用すると逆にバルビツール酸系睡眠薬依存を発症するので見切り時が肝要である。実際、アルコール依存で入院したときまっさきに保護室に一週間入って様子を見る。個人的にはアモバルビタール(商品名「イソミタール」)だけでなくブロチゾラム(商品名「レンドルミン」)とジアゼパム(商品名「セレンジン」)とエチゾラム(商品名「デパス」)とを粉末にしたものに胃薬ファモチジン(商品名「ガスター」)を含め点滴で二日間の投与を受けた。三日目からはアモバルビタールを抜いても睡眠が取れるようになり食欲も出だした。一週間後には朝夕にジアゼパム(商品名「セレンジン」)とファモチジン(商品名「ガスター」)とを主とする点滴。入眠時にのみそれにブロチゾラム(商品名「レンドルミン」)を加えた処方で眠れるように回復した。胃の修復のためその後もファモチジン(商品名「ガスター」)の点滴は続いたとおもうが。

アメリカで広く乱用されるケースはわざわざ医療機関を訪れない場合に広域化する傾向が強い。ネットでバルビツール酸系睡眠薬「アモバルビタール」=俗称「ルード」(“lude”)を手に入れる。それだけではたいへん眠い。しかし世の中には大量のエナジードリンクが出回っている。エナジードリンクにはカフェインが含まれているので簡単に寝てしまうことなく逆に活力が得られる。さらに表記指定されていない分量のアルコールが含まれている。このアルコールがくせもので、アッパー系のカフェインによる活力増強と新陳代謝の素早いアルコールとの相互作用で一般のビジネスパーソン、労働者らはその場その場を凌いでいる。だからバルビツール酸系睡眠薬「アモバルビタール」=俗称「ルード」(“lude”)とごくふつうのエナジードリンクとを同時摂取するだけでもかなりハイな気分になることができる。さらにアメリカでは州によって異なるものの医療用でない娯楽向けのマリファナが合法化されている。一緒に服用すれば相当「ラリる」ことができる。またネットではこれらに他の様々な薬物を取り入れて錠剤化したものも販売されているので医療福祉部門だけでも国家が傾くほどの予算を計上しなくてはならないレベルに達している。だからといって、これといった「特効薬」はない。ギャンブルもそうだが薬物依存の場合も、身体がどこで或る種の「苦痛」のために悲鳴を上げるかによって決まる。自分自身の身体の内部が破壊されることによって薬物すら受け付けなくなったとき始めて身体が「苦痛」を発する。「特効薬」とはそういう事態を指していうのである。バロウズはいう。

「麻薬をやめるということは、一つの生き方を放棄することだ。おれは何人ものジャンキーが麻薬をやめて酒に溺れ、二、三年のうちに死んでしまうのを見てきた。元ジャンキーのなかには自殺する者がしばしば出てくる。なぜジャンキーは自分から進んで麻薬をやめるのだろうか?この疑問に対する解答はだれにもわからない。麻薬がもたらす損失や恐怖をいくら並べたところで、麻薬をやめる心の推進力にはなりはしない。麻薬をやめようという決意は肉体の細胞の決意なのだ」(バロウズ「ジャンキー・P.220」思潮社)

世界はボーダーレス化したと言われる。だが脱コード化によって平滑空間化しただけであって国家による条理化=再領土化は常に行われている。資本主義はいつも一石で二鳥を落とす。ボーダーレスに映って見えているというだけのことであって、ボーダーは消滅するわけではない。資本主義はボーダー(限界)を押しのけ別のものに置き換えて無限に平滑化と条理化とを同時に実現していく諸力の運動なのだ。たとえば一九九〇年代後半にアメリカ主導で行われたNATOによる空爆。旧ユーゴ民族紛争解決は名目であって、実際は多国籍企業進出のための大規模な「更地化」に過ぎない。空爆の反動で二〇年を経た今なお西バルカンではいざこざが絶えない。結局、「健全な」経済発展を軌道に乗せることは、とてもではないがまだまだ途上を過ぎたかどうかといった状況でしかない。しかもイギリスは「美味しいとこ取り」してとっととEUから逃げてしまった。国際社会は名ばかりだとおもうほかない。
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

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言語化するジュネ/流動するアルトー127

2020年02月22日 | 日記・エッセイ・コラム
ディヴィーヌは持ち前の想像力から自分をマルチェッティに変え幽霊として徘徊させ、マルチェッティを花のノートルダムにまとわりつかせて堪能する。様々な衣装をによって仮装したマルチェッティによってまとわりつかれるノートルダムは、ディヴィーヌから見るとノートルダム自身によって仮装しているようにしか映らない。ノートルダムの姿はその時その時の身振り仕ぐさのアナロジー(類似、類推)によって次々に変身する。

「それはまるで謝肉祭のときに貧乏な百姓たちだけが、ペチコートや、ショールや、指手袋や、ボタンのついたルイ十五世風ヒールのブーツや、つば広の陽よけ帽や、祖母や姉の簞笥からくるねた三角肩掛けで変装する術を知っているようなものである」(ジュネ「花のノートルダム・P.201」河出文庫)

異質なもの同士がなぜ外見の相違にもかかわらず無数の個々人の諸系列を形成することができるのか。唯一の特権的な媒介物が出現していない場合がその条件をなす。次のように。

「B 《全体的な、または展開された価値形態》ーーーz量の商品A=u量の商品B、または=v量の商品C、または=w量の商品D、または=x量の商品E、または=etc.(20エレのリンネル=1着の上着、または=10ポンドの茶、または=40ポンドのコーヒー、または=1クォーターの小麦、または=2オンスの金、または=2分の1トンの鉄、または=その他.)

ある一つの商品、たとえばリンネルの価値は、いまでは商品世界の無数の他の要素で表現される。他の商品体はどれでもリンネル価値の鏡になる。こうして、この価値そのものが、はじめてほんとうに、無差別な人間労働の凝固として現われる。なぜならば、このリンネル価値を形成する労働は、いまや明瞭に、他のどの人間労働でもそれに等しいとされる労働として表わされているからである。すなわち、他のどの人間労働も、それがどんな現物形態をもっていようと、したがってそれが上着や小麦や鉄や金などのどれに対象化されていようと、すべてのこの労働に等しいとされているからである。それゆえ、いまではリンネルはその価値形態によって、ただ一つの他の商品種類にたいしてだけではなく、商品世界にたいして社会的な関係に立つのである。商品として、リンネルはこの世界の市民である。同時に商品価値の諸表現の無限の列のうちに、商品価値はそれが現われる使用価値の特殊な形態には無関係だということが示されているのである。第一の形態、20エレのリンネル=1着の上着 では、これらの二つの商品が一定の量的な割合で交換されうるということは、偶然的事実でありうる。これに反して、第二の形態では、偶然的現象とは本質的に違っていてそれを規定している背景が、すぐに現われてくる。リンネルの価値は、上着やコーヒーや鉄など無数の違った所持者のものである無数の違った商品のどれで表わされようと、つねに同じ大きさのものである。二人の個人的商品所持者の偶然的な関係はなくなる。交換が商品の価値量を規制するのではなく、逆に商品の価値量が商品の交換割合を規制するのだ、ということが明らかになる」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.118~120」国民文庫)

ディヴィーヌが創造したマルチェッティは差し当たり筋肉隆々の肉体美を誇る若年者である。だがジュネはディヴィーヌの仮面をつけてこう語る。それはマルチェッティが何か取り返しのつかない犯罪によってギュイヤーヌ(今の南米ギニアにあった終身刑務所)へ流刑される光景へ変換され、様々な殺人者ばかりがひしめく中に放り込まれるマルチェッティがおそらく落ちいるほかない境遇を連想させずにはおかない。ギュイヤーヌにはマルチェッティを遥かに上回る荒くれ果てた強者(つわもの)どもが次にやって来る生贄を待ち構えているはずに違いない永遠に閉じられた場所だ。マルチェッティの身体は際立つ筋肉美のためにかえって他の殺人者たちの欲望を叶えてやるための犠牲者として殉教への階段をのぼる。

「『美人』だ!マルチェッティは『美人』の役目をするだろう!彼は『美人』に《なるだろう》。それを思うと私の気持ちはやわらぐ、そして他の乱暴者たちの筋肉に服従する美しい筋肉のことを思うと、私はほろっとして泣きそうになる」(ジュネ「花のノートルダム・P.203」河出文庫)

次の犠牲者がやって来るまでマルチェッティは男性でしかないにもかかわらず、ギュイヤーヌという未来のない閉ざされた空間の中では女性としての唯一性を獲得することになる。彼は彼女としてずいぶん可愛がられるだろう。ジュネに言わせればそれは「女王」の位置にふさわしい。

「ヒモ、女たらし、心の虐待者が徒刑場の女王となるだろう。彼のギリシア的な筋肉、それが何の役に立つだろう?」(ジュネ「花のノートルダム・P.203」河出文庫)
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さて、アルトー。次のアルファベット部分は翻訳しても意味をなさない。かといって省略することはできない。儀式における「約束事」として述べられる祈祷の言葉だからである。アブラカタブラは「開けごま」という意味を持つが、そのようなサインではない。

「o pedana na come tau dedana tau komev na dedanu na komev tau komev na come cipsi tra ka figa ronda ka lakeou to cobbra cobra ja ja futsa mata DU serpent n’y en A NA」(アルトー「残酷劇」『神の裁きと訣別するため・P.59~60』河出文庫)

ちなみに意味論では、零(ゼロ)はただ単なる「無」を意味しない。逆に零(ゼロ)という意味を持つ。力学で「強度ゼロ」という度を意味するように。儀式で用いられる呪文にも似た語句は今なおどの祭礼でも見かけることができる。なるほどかつては明確な意味を持っていたのかもしれないが、数千年後には遂に意味が忘れ去られて言語的形式だけが保存されて残されるに至った祈祷の言葉だろう。それはかつて個々別々の諸民族が信奉した神の「真理」を言い現わす「祝詞」(のりと)のようなものだ。ただし正確な意味が忘れ去られているため、儀式における貨幣の役割を担っているにもかかわらず、もはやすり減ってただの金属と化してしまい、意味の把握が不可能になった貨幣である。

「真理とは、錯覚なのであって、ただひとがそれの錯覚であることを忘れてしまったような錯覚である。それは、使い古されて感覚的に力がなくなってしまったような隠喩なのである。それは、肖像が消えてしまってもはや貨幣としてでなく今や金属として見なされるようになってしまったところの貨幣なのである」(ニーチェ「哲学者の書・P.354」ちくま学芸文庫)

恣意的に決定され凝固し固定しステレオタイプ化した身体の中に閉じ込められ、有機体というものに形式化された自分の身体は余りにも息苦しく窒息しそうだとアルトーは叫ぶ。

「なぜならあなたがたは有機体が舌を出すままにしておいたのだ ほんとうは有機体の舌を 身体のトンネルの出口で 切ってやらねばならなかったのに」(アルトー「残酷劇」『神の裁きと訣別するため・P.60』河出文庫)

宗教教義の強力な裁きとして押し付けられた身体。人間である以上、その身体は「こうでなければならない」というドグマ(固定観念)を全人類に妥当させようとする性欲でいっぱいの権力意志。アルトーはそれを様々な伝染病が有する感染力として捉える。そしてそれら「黒いダンス」が今なお猛威を振っているのは結局のところ、本当の演劇、そしてダンスが開始されていないからだと述べる。

「ペスト、コレラ、黒い疱瘡が存在するのは ダンスと つまるところ演劇が まだ存在しはじめていないからだ」(アルトー「残酷劇」『神の裁きと訣別するため・P.61』河出文庫)

社会全体が今ほど合理性を追求している時代はかつてない次元に達している。にもかかわらず逆に人間の身体はまったく合理的にできていない。バロウズはあらかじめ与えられた身体の余りの非合理性についてユーモア混じりにこう述べる。

「人間の身体はまったく腹立たしいくらい非能率的だ。どうして調子の狂う口と肛門のかわりに、物を食べる《とともに》排出するようなすべての目的にかなう万能の穴があってはいけないのだ?鼻や口は密閉し、胃は詰め物をしてふさぎ、どこよりも第一にそれはそうあるべきはずの肺臓にじかに空気孔を作ることができるはずだ」(バロウズ「裸のランチ・P.183~184」河出書房新社)

また、バロウズはギンズバーグとの書簡の中で次のように述べている。

「アメリカではインテリは《すべて》社会的脱落者であることはまちがいない」(バロウズ&ギンズバーグ「麻薬書簡」思潮社)

ちなみにこのことは日本の高級官僚にも当てはまる。一九八〇年代バブルの時期。浅田彰が日本の高級官僚を揶揄していった言葉なのだが、上岡龍太郎の言葉を引用して「落ちこぼれ」に対する「浮きこぼれ」と呼んでいた。あれから四〇年近く過ぎた。にもかかわらず、日本政府は遂に官僚答弁を止めようとしない。なぜなら、第一に官僚答弁しか知らないし思いつかない教育課程をひたすら歩んできたこと、第二にいまさらニーチェ=フロイトの用語でいう「エス」としての一般大衆と交流することは不可能だからである。スピノザが観念論であると同時に唯物論としても妥当する「エチカ」を書くことができたのは常日頃から一般大衆との関わりを大切にしていたからだ。地に足が着いていた。この態度は今の日本の政財官界のあり方が維持される限り、大学生になってしまっては逆にますます無理になりいよいよ遠のいていく態度である。だから日本は今日より明日、明日より明後日、だんだんと暗闇にのめり込んでいくほかない。国会中継を見ていると失笑せずにはいられない場面が続出している。あれくらいなら慢性鬱病治療中の自分でも十分務まると思うからだ。もっとも、リハビリの一貫として眺めているので嫌悪を生じてきて鬱状態が悪化しそうになるとただちにテレビを消す。それにしても「老後資金二〇〇〇万円問題」はどうなったのだろう、というより、実際のところどうなのか。沖縄基地問題も北方領土も拉致問題も事実上の棚上げ状態におちいっているようだが。
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

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言語化するジュネ/流動するアルトー126

2020年02月21日 | 日記・エッセイ・コラム
破格の想像力によって出現する幽霊について前回述べた。次は身振り仕ぐさのアナロジー(類似、類推)によって出現する幽霊に重心を移動させてみる。

「時おり幽霊たちは、われわれの顔立ちの上に、われわれの足の上に、太腿をわれわれの太腿の上に交差させながら、われわれが身振りをするたびにペンで描いた線で描かれる」(ジュネ「花のノートルダム・P.200」河出文庫)

もっとも、身振り仕ぐさのアナロジー(類似、類推)による幽霊の出現は「人違い」という錯覚を通して日常生活の中でも実にしばしば出現するのではあるが。ディヴィーヌが創造したマルチェッティは透明であって、花のノートルダムにはまったく見えない。ディヴィーヌの極端な創造力とノートルダム自身の身振り仕ぐさのアナロジー(類似、類推)によって自分がマルチェッティ化されていることをノートルダムは知らない。

「澄みきった空気でできたマルチェッティと一緒にディヴィーヌは数日を過ごしたのだが、ノートルダムはいつも彼の幽霊を通り抜ける際に、自分の身振りのなかに、ミニョンと彼の偉大な友だち(彼は恐らく『俺のダチ』と言いたかったのだが、ある日、『美しい友だち』と言った)の目からすれば何も感じられないきらめく断片を引きずっていった」(ジュネ「花のノートルダム・P.200」河出文庫)

マルチェッティ化されたノートルダムは要するにディヴィーヌの幻影にしがみつかれているわけである。したがってディヴィーヌには次のように見える。

「あちらこちらで、ぼろを纏ったマルチェッティの幽霊はノートルダムにしがみつく。ノートルダムはそのために見違えるほど人が変わってしまう。これらの幽霊のぼろ着は彼の寸法にぴったり合わない。彼はほんとうに仮装しているようにしか見えない」(ジュネ「花のノートルダム・P.201」河出文庫)
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さて、アルトー。キリスト教独特の感染力が持つ破壊的浸透性についてありとあらゆる感染症の名称を列挙する。

「あらゆる湿疹 あらゆる疱疹 あらゆる結核 あらゆる疫病 あらゆるペストの起源を こういった黒い儀式のダンスの他にさがす必要はない」(アルトー「残酷劇」『神の裁きと訣別するため・P.58』河出文庫)

アルトーはミサに代表される「精神的残忍さ」について「黒い儀式のダンス」と述べる。なるほど黒づくめでありいかにも厳粛な雰囲気を演出することで信者を金縛りにしてしまう効果的儀式ではある。ニーチェはそのような儀式を発案したのは外への出口を堰き止められて逆に内攻するやいなや発生した「《観念の野獣性》」といっている。

「それは、内面化され自己自身の内へ逐い戻された動物人間のあの自己呵責への意志、あの内攻した残忍性である。飼い馴らすために『国家』のうちへ閉じ込められた動物人間は、この苦痛を与えようとする意欲の《より自然的な》はけ口がふさがれて後は、自分自らに苦痛を与えるために良心の疚(やま)しさを発案した、ーーー良心の疚しさをもつこの人間は、最も戦慄すべき冷酷さと峻厳さとをもって自分を苛虐するために宗教的前提をわが物とした。《神》に対する負い目、この思想は彼にとって拷問具となる。彼は自分に固有の除き切れない動物本能に対して見出しうるかぎりの究極の反対物を『神』のうちに据える。彼はこの動物本能を神に対する負い目として(「主」・「父」・世界の始祖や太初に対する敵意、反逆、不逞として)解釈する。彼は『神』と『悪魔』との矛盾の間に自分自らを挟む。彼は自分自身に対する、自分の存在の本性・本然・事実に対するあらゆる否定を肯定として、存在するもの・生身のもの・現実のものとして、神として、神の神聖として、神の審判として、神の処刑として、彼岸として、永遠として、果てしなき苛責として、地獄として、量り知ることのできない罰および罪として、自分自らのうちから投げ出す。それは精神的残忍における一種の意志錯乱であって、全く他にその比類を見ることのできないものである。すなわち、それは自分自身を到底救われがたい極悪非道のものと見ようとする人間の《意志》であり、自分の受ける刑罰は常に罪過を償(つぐな)うに足りないと考えようとする人間の《意志》であり、『固定観念』のこの迷路から一挙にして脱出するために事物の最奥に罪と罰の問題の害毒を感染させようとする人間の《意志》であり、一つの理想ーーー『聖なる神』という理想ーーーを樹てて、その面前で自分の絶対的無価値を手に取る如く確かめようとする人間の《意志》である。おお、この錯乱した痛ましい人間獣の上に禍あれ!この人間獣が《行為の野獣》たることを少しでも妨げられるとき、奴は何を思いつくことか!どんな途轍(とてつ)もないことが、どんな乱心の発作が、どんな《観念の野獣性》がただちに勃発することか!」(ニーチェ「道徳の系譜・P.109~110」岩波文庫)

アルトーにすれば、物心ついた頃からずっと、人間は心身ともに「こうでなければならない」とおごそかに告げる司祭らの声や身振り仕ぐさの連発に甘んじてきた。ところが我慢にも限界というものがある。アルトーは叫ぶ。「死んだまま生きようとした生者たちの行進」にいつまでも付き合うのはもう無理だと。司祭自身だけでなくすべての人間を瞞着しようなどともうやめてくれと。アルトーは司祭とその信者の精神の動きについて過剰なほどのアレルギー症状を示さずにはいられない。精神的身体的暴力、真っ赤な焼け火箸で無理やり押し付けるがごとき残酷さの刻印作業を止めることができないのはなぜなのか、司祭たちが自分自身に向き合って問わないのはどうしてなのかと。

「十年も前から、もっとも怪物的な棺の行進、あいもかわらぬ死者の世界の行進、欲望した生者たちの行進 (そして現状では、それは悪徳に由来する)、死んだまま生きようとした生者たちの行進が、私の感性にまで下降してきた」(アルトー「残酷劇」『神の裁きと訣別するため・P.58~59』河出文庫)
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なお、2020/02/20/MBSニュースから。京都市右京区「住吉山墓地無縁墓未確認撤去問題」について。すでに伝えられているように「久しぶりに拝みに行ってみたら更地になっていた」という事案。このような事例が違法に値するのは当たり前として、問題は、このような事態はなぜ起こるのか、という点に注目して考えたい。市当局が推進している墓地のデジタルデータ化。時代の流れではあるものの、もしデジタル入力するとすればデータ化に当たって前提となる必要条件が満たされていなくてはならない。ところがこの条件を満たそうとすれば必ずつきまとうのが、人間とコンピュータとは認識方法が決定的に異なる、というのっぴきならない問題である。なぜ「のっぴきならない」か。ここ数年相次いでいる米軍による実弾発射ミスや迫撃砲照明弾発射ミスにもその疑惑が拭いきれないのだが、さらに決定的なのは昨年、秋田県秋田市でのイージス・アショア配備を巡るデジタル地球儀を用いた防衛省調査報告書誤記と同じ過ちを犯しているからである。「土地と地図との違い」。ベイトソンはいう。

「例の『地図と土地』の対比において、問題は『土地にある何が地図にのるのか』ということです。土地がそのまま地図にのるのではないーーーこの一般的意味論の大綱に異議を唱える人は、ここには一人もいないはずです。では、土地から出た《何が》地図にのるのか。土地が完全に均質な場合、土地とその外部との境界線しか地図に現われてきません。この線は、均質なまま続く土地が終わり、外部のより大きなマトリックスとの間に差異をつくるところです。この差異が地図に現われる。実際のところ、土地から地図に入り込むのは『差異』以外にありません。海抜高度の差異であれ、植生の差異であれ、人工構造の差異であれ、地表のありさまの差異であれ。

しかし差異とは、『違い』とは、一体何なのでしょう。なんとも奇妙で、捉えがたい概念であります。『もの』でもなければ、『出来事』でもない。たとえばこの紙と、この演台の木との間には違いがあります。色の違い、手触の違い、形の違い、さまざまな違いがある。しかしそれらの違いはどこにあるのかと考え出すと、厄介なことになります。紙と木の違いは、紙のなかにもなければ、木の中にもありません。といって、紙と木の間の空間にあるのでもない。両者の間の時間の中にあるのでもありません(この、違いが時をへだてて生まれることを、われわれは「変化」と呼んでいます)。

差異とは、具象的な何かではありません。抽象的なものです。

一般にハード・サイエンスにおいて、結果effectを産むのは、力や衝撃等の具象的な条件または出来事であります。ところが、情報伝達と組織化の世界に一歩足を踏み入れたとき、われわれはそうした力と衝撃とエネルギー交換が結果をもたらす世界とは完全に決別して、差異が結果を生むーーー『結果』という言葉が、ここでも有効かどうかは疑問でありますがーーーまったく別様の世界に入るのです。そこは、土地から引き出されて地図に入るものーーー差異ーーーが結果を生んでいく世界であります」(ベイトソン「精神の生態学・P.600~601」新思索社)

要するに地図というのは「一種のフィルターにかけられた情報」でありまたその限りで現実の土地とは全然違っているというわけだ。カント「判断力批判」の議論を思い起こしてほしいとベイトソンはいう。或る対象(物、人物、動植物、等々)に関して人間が認識できる範囲は限られている。にもかかわらず人間の主観的想像力は或る対象に関して限度を知らず無際限に超感覚的自由を暴力的に押し込み押し付ける。カントから。

「物自体としての対象に関しては(思惟する主観に関してすら)理論的認識を与えることができないのである。物自体は、恐らく超感性的なものであろう、そして我々はかかる超感性的なものの理念を、経験の一切の対象〔単なる現象としての〕を可能ならしめる根拠とせざるを得ないが、しかしこの理念そのものを高め或は拡張して認識たらしめることはついに不可能である。ーーーそれだから我々の全認識能力にとっては、無辺際にしてしかもまた近傍し難いような土地が存在するということになる、即ちそれは超感性的なものという土地である。我々はこの土地において、我々のためにいかなる地域をも見出すことができない、従ってまたこの土地においては、悟性概念に対してもまた理性概念に対しても、およそ理論的認識に属する領域としては寸土をも所有し得ない」(カント「判断力批判・上・P.28~29」岩波文庫)

だから「批判」は思い上がった人間の「認識能力がややもすれば犯すところの一切の越権行為に及」ばざるを得ない。よってカントは次のように述べる。

「三個の認識能力の批判は、これらの能力がそれぞれア・プリオリに成就し得るところのものについて行なわれるが、しかしこの場合に批判そのものは、対象に関しては本来領域というものをもっていないのである。批判は積極的な主張的理論ではなく、むしろ我々の認識能力の在り方にかんがみ、かかる理論がこれらの能力によって可能であるのかどうか、また可能であるとすればどのようにして可能であるのかということを研究するだけだからである。批判の占める土地は、我々の認識能力がややもすれば犯すところの一切の越権行為に及んでいる、批判の旨とするところは、これらの能力をそれぞれその合法的な限界内に制限することだからである」(カント「判断力批判・上・P.30」岩波文庫)

さらに自然は無際限の事実の多様性としてしか存在しない。そのため人間の認識能力は極めて限られた部分しか認めることができない。それについて二箇所引いておく。

「自然のなかには無数の美しいものがある、そしてこれらの物については、すべての人の判断が我々の判断と一致することを要求し得るし、また実際にもまず間違いなくこのことを期待できるのである。ところが自然における崇高なものについて判断する場合には、我々の判断は必ずしもそれほどすらすらとほかの人達に受けいれられる見込みがなさそうである。自然における対象のかかるすぐれた性質〔崇高性〕について判断し得るためには、美的判断ばかりでなく、その根底に存する認識能力〔構想力と理性〕もまた美の場合よりも遥かに高度に開発されていることが必要だからである」(カント「判断力批判・上・P.180」岩波文庫)

「自然の崇高に関する適意は、《消極的》な適意でしかない(美に関する適意は《積極的》であるが)、即ち構想力が自分自身の自由をみずから奪うという感情である、その場合に構想力は、経験的使用の法則とは異なる法則に従って合目的に規定されるからである。とは言えこれによって構想力は、自分が犠牲に供したところのものよりも大きな拡張と威力とを得るのであるが、しかしかかるものの根拠は、構想力自身にすら隠されているのである。また構想力は、かかる犠牲や〔自由の〕剥奪を感じると同時にその原因をも《感じる》、そしてこの原因にみずから随順するのである」(カント「判断力批判・上・P.188」岩波文庫)

カントは「随順する」と述べる。それこそ、人間が無数回に渡って繰り返し反復してきた慣習の固定化によってただちに可能になった認識範囲であり、認識可能な領域を画する一定の動作によってたちどころに出現する認識である。ちなみにベルクソンは見慣れた風景や通勤通学を通して身体化する無意識的行動にともなう認識を「《瞬間的になりたつ》再認」として述べている。 

「まず極限的にいえば、《瞬間的になりたつ》再認といったものが存在する。これはまったく身体だけで可能となる再認であって、そこには明示的な記憶がすこしも介入してこない。その再認は行動にあってなりたち、表象において成立するものではない」(ベルクソン「物質と記憶・P.183」岩波文庫)

さらにベイトソンはカントのいう「或る対象」(物、人物、動植物、等々)について、たとえば「一本のチョーク」を取り上げこう述べる。

「(カントは)美的行為の一番の基本に、事実の選択ということを据えました。一本のチョークの中には、無限数の潜在的事実がある。この無限性のゆえに、ものそれ自体としてのチョークは決してコミュニケーションの中、精神プロセスの中に取り込まれることはない。感覚受容器が、ありのままのチョークを受け入れることはできない。感覚受容器とは、一種のフィルターであって、チョークからある事実を絞り取る。この選択を経ることで、事実は、現代の言葉で言う情報になるのです」(ベイトソン「精神の生態学・P.602」新思索社)

したがって「地図」というものは決して「ありのままの土地」ではあり得ず、逆に「一種のフィルターを通すことによって」、現実の土地から無数の諸要素を無視し脱落させてしまった後の、文字通りの「地図」以外の何ものでもなくなる。同時にデータバンク化による「住吉山墓地無縁墓未確認撤去問題」は今述べた過程を通過して加工されることでほぼ必ず生じる必然的産物であるとしか言えない。デジタル化の過程で現実の土地は土地ではなく地図という情報としてデジタル化されデータバンク化される。その際、諸々のデータは現実の土地とは異なるもの、一種の抽象的情報として、さらにビッグデータの一部分としてインプットされ世界中で共有される。人間はしばしばミスを犯す。そして人間が作ったコンピュータはそもそも人間がいつもすでに犯している「土地と地図との取り違え」をそのまま相続している限り、コンピュータもまた人間そっくりのミスを何度も繰り返し犯す。したがって昨年発覚した秋田県秋田市でのイージス・アショア配備を巡るデジタル地球儀を用いた防衛省調査報告書誤記は、たまたま起きたミスなどとはまったく違った、考えられもしない、ほんの一滴の偶然性も混入していない必然的産物であるというほかない。
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

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言語化するジュネ/流動するアルトー125

2020年02月20日 | 日記・エッセイ・コラム
或る日クレマンはソニアを殺す。しかし殺人という行為は両義的な行為である。軍事行動としてなされる場合、殺人は殺人加害者を「崇高化」する。神格化する。歴史的に動かしようのない事実である。とすればクレマンがソニアを殺したとしても、なぜ殺人によって兵士は神格化される一方、殺人によって崇高化されたクレマンは裁かれなくてはならないのだろうか。

「彼は崇高化された。彼は将軍に、聖職者に、生贄を捧げる祭司に、祭式執行者になった。彼は命令し、復讐し、犠牲にし、捧げていたのであって、ソニアを殺したのではなかった」(ジュネ「花のノートルダム・P.191」河出文庫)

クレマンも兵士と同様、自分で自分自身のことを「生贄を捧げる祭司」の資格を有すると考えてあえてソニアを殺した。国家に命じられたわけではなく、自主的に、十分能動的かつ意識的に殺した。他人に命じられて殺人を正当化する兵士らよりも遥かに堂々と自主独立的意志で殺害に及んだクレマンはなぜ、なにゆえ、逮捕され処刑されねばならなかったのだろうか。ジュネはクレマンの精神の動きについて「人に面食らわせる本能でもってこの技巧を用いた」と述べる。技巧とはどんな技巧だろうか。言語的技巧である。

「自分の行為を正当化するために、彼は人に面食らわせる本能でもってこの技巧を用いたのである。生まれつき気違いじみた想像力に恵まれた人間は、その代わりにこの大いなる詩的本能を備えていなければならない」(ジュネ「花のノートルダム・P.191」河出文庫)

ジュネはクレマンが言語を駆使して「祭式執行者」になることでソニア殺害を正当化したと述べる。ジュネが大いに利用しているのはキリスト教の論理そのままである。もっとも、正式な司祭に任命されるにはそれなりの資格がいる。しかし資格取得の権利を奪われているクレマンが神のためにソニア殺しを生贄に捧げた場合は処刑になるが、資格を持つ司祭が軍部の圧力と共同で何度も繰り返してきた戦争は裁かれない。この両義性についてジュネはほとんど白けつつそのようなエピソードに触れないわけにはいかなかったことは確かだ。「殺人してもよい」と認可する資格が世界的規模で日々ばんばん発行されているというだけでなく、そもそもそんな資格がこの世に存在することじたい、ジュネたちから見ればどう考えても奇妙におもえて仕方がないのである。だから、ジュネの仲間たちが殺してきた被害者たちの幽霊が日常生活の中でごくふつうにうろうろ歩き回っていても何らおかしく思えなくなる。そしてさらにジュネとその仲間たちが旺盛な想像力によってでっち上げてうろつき回らせている幽霊たちがふらふら現れたり消えたり横切ったり、さらには身体を正面から通り抜けたりしていても全然不思議でない。ディヴィーヌは相変わらずいつもの屋根裏部屋に居る。花のノートルダムもいるがミニョンは出ていったきりもういない。その代わりのようにして黒人のゴルギがいる。

「死者たちや、切り花や、酔っ払った墓掘人夫や、太陽に引き裂かれた陰険な幽霊たちの上に身を傾げた屋根裏部屋での三人の暮らしが再び始まる」(ジュネ「花のノートルダム・P.200」河出文庫)

ジュネは「昼間」という時間帯にこだわる。昼間は幽霊は見えないからだ。夜になれば見えるかといえばそういうものでもない。問題は個々人が、面識のあるなしにかかわらず、日頃からどれだけ真剣に死者のことをしっかり受け止めることができているかに掛かっている。紛争や殺人事件や事故や自殺など、ありとあらゆる死は同時に死者の《出現である》ということが理解できているか。「特に昼間」、ジュネたちの身体はそれら「幽霊たちを貫通している」という自覚がある。ジュネの想像力はそんなことを思わずにはいられない。

「幽霊たちは煙でも、不透明あるいは半透明の流体でもない。それらは大気のように透明なのだ。昼間、特に昼間は、われわれは幽霊たちを貫通している」(ジュネ「花のノートルダム・P.200」河出文庫)

敏感すぎると言われればそうかもしれない。しかし一人の人間の死はただちに少なくとも一人の死者の《出現である》と考えるジュネの精神には学ぶところが大きい。ジュネはオカルトなどまったく信じていない。ただ極めて論理的帰結について語っているに過ぎない。
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さて、アルトー。宗教は人間を性欲の塊として描き立てる。告白させることによって、始めからありもしないものを出現させる技術に長けている。その技術を大々的に駆使することで世界制覇を成し遂げたキリスト教が珍妙に見えて仕方がない。アルトーは神を「黴菌」と呼ぶ。アメリカやスターリンのロシアと並んで「糞」と述べる。

「私は何年ものあいだ もっぱら性的になった 黴菌たちのおそるべき世界の舞踏によって 困惑させられ 痙攣させられた」(アルトー「残酷劇」『神の裁きと訣別するため・P.57』河出文庫)

神の裁きというのは人間をつかまえて、人間は「こうでなければならない」という鋳型(いがた)にはめ込んだことだ。そしてまた身体と同時に精神も「こうでなければ《正常でない》」と決めつけたことだ。神の裁きは何らの根拠もなくいきなり人間を拘束し吊し上げる。神の残酷さにアルトーは呆れている。だからこそ「残酷演劇」なのだ。残酷演劇が今なお通用し理解を得るのには十分な理由がある。神は残酷だからだ。神は残酷を好む。次から次へとどんどん生贄を欲望する。いつも血に飢えている。さらに人間が「正常」とされる範囲を逸脱して冒険しようとすると「おさえつける」。

「そこに私は ある種おさえつけられた空間に生きる 男たち、女たち、現代生活の落とし子たちを認めた」(アルトー「残酷劇」『神の裁きと訣別するため・P.57』河出文庫)

そうして人間からだんだん可能性の領域を剥奪する。近現代の人間は力を謳歌することはもとより試してみることさえもはや許されなくなった。

「トリスタンとイゾルデは、二人とも姦通のために破滅することによって姦通に《反対》という教訓を与えていると思われるか?それは詩人たちを誤解することになるであろう。詩人たち、ことにシェークスピアのような人々は、情熱それ自身に夢中になっているのであり、その《死を覚悟した》気分ーーーあの、魂が、草葉の一滴ほどにもしっかりと生命に執着していない気分ーーーに夢中になっているのでは全くない。罪とその悪い結果とが、彼らにとって大切なのではない。シェークスピアにとっても、ソフォクレス(アイアスや、フィロクテテスや、オイディプスにおいて)にとっても、大切なのではない。ーーー悲劇詩人は、彼の人生像によって、人生に対して《反感》を抱かせようとはしない!彼はむしろ叫ぶ。『この刺戟的で、変わりやすく、危険で、陰鬱な、しかもしばしば太陽の灼熱に燃え立つ生存、それは、一切の魅力中の魅力である!生きるということ、それは《冒険》である、ーーーこの生き方に味方しようと、あの生き方に味方しようと、生きるということはいつもこの性格を持続するであろう!』ーーーこのように彼は、血と力の過剰に半ば酩酊し、麻痺し、動揺し、力に満ちた時代の中から語る。ーーーわれわれの時代よりも、悪い時代の中から。それゆえわれわれは、シェークスピアの演劇の目的をまず《整頓》し、《正当化》すること、すなわち、それを理解しないことが必要になる」(ニーチェ「曙光・二四〇・P.269」ちくま学芸文庫)

神の領域を突破するためにまず第一に必要なこととは何だろう。国家権力と合体した宗教によって諦めることを要請され矮小化された生の可能性を奪還することから始めなくてはならなくなったことは確かだ。アルトーは身体の力を信じていた。ゴッホが信じていたように。アルトーは身体に閉じ込められたと告発する。特定の形態に閉じ込められた身体はアルトーにとって「むずかゆい」。宗教家はいつも過剰な性欲の持ち主であり、他人もそうに違いないと考えて譲らない。そしてどういうわけか、他人もまた、そんなことはないと言わない。わからないにもかかわらず、同じように考える粗雑ぶりをまるで棍棒でも振り回すかのように振り回して見せた宗教家の側がなぜか勝利したのである。

「私は耐え難い湿疹のむずかゆさに限りなく苦しめられた そこでは棺のなかのエロティックな生活のあらゆる膿が 思う存分あばれていたのである」(アルトー「残酷劇」『神の裁きと訣別するため・P.57~58』河出文庫)

しかしアルトーやニーチェやゴッホという人々は、そんな馬鹿げた「覗き魔」のいうことなど気にしない。もっとも、気にしたゴッホは精神病院に入退院を繰り返したしアルトーも遂に精神病者として死んだ。しかしそのことをわざわざ大袈裟に取り上げて「悪のたたり」だと罵り騒ぐ人間の側が実はただ単なるカルトに過ぎない。自分の気に入らないものや人物を見るといきなり排除しようとする人間の残酷さが神の残酷さを生んだのでありその逆ではないのである。「外のもの」、「他のもの」、「自分とは異なるもの」を頭から否定する殺人的傾向を偏愛する宗教家。

「道徳上の奴隷一揆が始まるのは、《怨恨(ルサンチマン)》そのものが創造的になり、価値を生み出すようになった時である。ここに《怨恨=反感》というのは、本来の《反作用=反動》、すなわち行動上の反動が禁じられているので、単に想像上の復讐によってのみその埋め合わせをつけるような徒輩の《怨恨》である。すべての高貴な道徳はそれ自身に向かう高らかな自己肯定から生ずるが、奴隷道徳は『外のもの』『他のもの』、『自分とは異なるもの』を頭から否定する。そして《この》否定こそ奴隷道徳の創造的行為なのだ。評価を定める眼差しがこのように逆立ちしていることーーーすなわち、自分自身に向かい合うよりもむしろ、つねに外へと向かうこの《必然的な》方向ーーーこれこそはまさしく《怨恨》の本性である。奴隷道徳が成立するためには、常にまず一つの対立、一つの外界を必要とする。生理学的に言えば、奴隷道徳は一般に、動き、行動を起こすための外的刺激を必要とする。ーーーだから奴隷道徳の行動は根本的に反動である」(ニーチェ「道徳の系譜・P.36~37」岩波文庫)

しかし宗教にユートピアを見ようと欲するのは人間社会が余りにもひど過ぎるからである。神の残酷さは生身の人間の司祭をあいだに仲介させて語られる。その意味で神の残酷さは人間社会の残酷さをただ単に映し上げて見せてくれる鏡に過ぎない。しかし現実社会が残酷であればあるほど人間はますます宗教を欲し続ける。そうである以上、宗教司祭は神と大衆とのあいだを仲介する貨幣の立場に立つという利得を存分に貪り続けることができる。そこから得た金銭は差し当たり貯蓄され投資に廻され利子を得て回帰してくる。現実社会の残酷さは資本になるのだ。そして利子率が決まると今度は利子率の側から逆にトップダウンで生産、流通過程すべてに圧力がかかり、是が非でも決定された利潤を叩き出さなくてはならないという転倒が生じる。それは国家の成立過程にたいへん似ている。次のように。

「国家はけっして外部から社会におしつけられた権力ではない。同様にそれは、ヘーゲルの主張するような、『人倫的理念が現実化したもの』でも『理性が形象化し現実化したもの』でもない。それは、むしろ一定の発展段階における社会の産物である。それは、この社会が自分自身との解決しえない矛盾にまきこまれ、自分ではらいのける力のない、和解しえない諸対立に分裂したことの告白である。ところで、これらの諸対立が、すなわち相対抗する経済的利害をもつ諸階級が、無益な闘争のうちに自分自身と社会をほろぼさないためには、外見上社会のうえに立ってこの衝突を緩和し、それを『秩序』のわくのなかにたもつべき権力が必要となった。そして、社会からうまれながら社会のうえに立ち、社会にたいしてますます外的なものとなってゆくこの権力が、国家である」(エンゲルス「家族・私有財産および国家の起源・P.221」国民文庫)
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

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