ジュネにとって美しく見えるものは多くの場合、世間一般の美的感覚と異なる。そこにジュネ固有の唯一性がある。ディヴィーヌとジュネはともに美しいマルチェッティたちをあちこちに作り上げ解き放った。しかしマルチェッティたちが美しいのはジュネたちの考える「冒険」をくぐり抜けてきた場合に限ってである。ところがマルチェッティたちでないにもかかわらず詩(ポエジー)を出現させる点で次の場合もまた「驚異にくるまれ」つつ美しい現象としてジュネを当惑させる。
「最も奇妙な詩的現象についてはどう言えばいいのか、つまり世界中がーーーそしてそれ自身のうちで最も陰鬱な世界、最も不吉な、黒焦げになった、厳格主義にいたるまで乾ききった世界、工場労働者たちの厳しくむき出しの世界がーーー根本的に豊かで、金ぴかで、ダイヤのように輝き、スパンコールを施され、あるいは絹のように光沢のある声によって歌われた、風のなかに失われた民衆の歌という驚異にくるまれているという現象である」(ジュネ「花のノートルダム・P.234~235」河出文庫)
そこでは或る種の「歌」が歌われる。ジュネは「最も陰鬱な世界、最も不吉な、黒焦げになった、厳格主義にいたるまで乾ききった世界、工場労働者たちの厳しくむき出しの世界」で、それは歌われる。ジュネの耳にはこう聴こえる。
「これらの歌は、もし私がそれらの歌が労働者たちの重々しい口によって歌われるということを知っているならば、恥ずかしさを覚えずには考えることのできない文章をもっているのだが、そこには、身を任せるーーー、優しさーーー、恍惚ーーー、薔薇の園ーーー、別荘ーーー、大理石の階段席ーーー、愛人ーーー、美しき愛ーーー、宝石ーーー、王冠ーーー、おお、わが女王ーーー、名も知らぬ愛しき人ーーー、金ぴかのサロンーーー、美しき上流婦人ーーー、花籠ーーー、肉の宝庫ーーー、金色の入り日ーーー、わが心はおまえを崇拝するーーー、花で一杯のーーー、夕暮れの色調ーーー、上品で薔薇色をした乙女ーーー、などといった言葉、最後には残酷なまでに贅沢なあれらの言葉が、ルビーを嵌め込まれた短刀ならばそうであるように、それらの肉に切り傷をつけるにちがいない言葉が見出される」(ジュネ「花のノートルダム・P.235」河出文庫)
当時のフランスで歌われる労働歌といえば「インターナショナル」か「ワルシャワ労働歌」かどちらかしかなかっただろうと思われるわけだが、その歌詞がジュネの耳にはこうも違って聴こえること自体、それが美しいからにほかならない。とはいえジュネは個々の労働者を褒め称えているわけではない。彼らの労働運動がフランス国家の秩序に向けて根底から揺さぶりをかけていることを見せつけられ、その暴力的なまでに黒々と渦巻く力が実際にうねりくねりながら動き回る様相を目の当たりにして、そこに倫理的美を発見し動揺してしまう自分自身を感じるからである。「泥棒日記」にこうある。
「すべて倫理的行為の美しさは、その表現の美しさによって決定される。それは美しい、と言えば、それですでにそれが美しい行為となることが決る。あとはそれを立証すればよいのだ。そしてその役目は、もろもろの表象(イメージ)、すなわち、さまざまな物理的世界の壮麗さとの照応、が行う。それがもし歌を、我々の咽喉(のど)の中で発見させ、湧き起こさせるならば、その行為は美しいのだ」(ジュネ「泥棒日記・P.24」新潮文庫)
あるいは作品「ブレストの乱暴者」に出てくる、船底で埃まみれになって働くクレルの黒々とした肉体美がそれに相当する。クレルは白人なのだが船底で石炭を扱う肉体労働によって鍛え抜かれている。石炭の灰で黒々として、光の加減で微妙な変化を見せつけつつ様々な陰影を描き出す肉体美は上官であるセブロン少尉の同性愛的嗜好性を刺激して止まない。
「耳の上とうしろの髪の毛を掌で撫でつけようとして、クレルは腕を上げた。虹鱒(にじます)の腹のように青白く張りつめた脇の下を露わに見せる、この彼の動作があまりに美しかったので、士官はもう堪えられないほどの苦悩の色を、その眼にありありと現わした。士官の眼は、もう勘弁してくれと叫んでいた。その眼ざしは、拝跪の姿勢よりもっと卑下していた。クレルは自分の力を意識していた。少尉を軽蔑していたが、以前のように、彼を頭から馬鹿にしたいという気は起らなかった。自分の力が今までとは別の種類のものではないかという気がしていたので、自分の魅力と軽々しくたわむれることは、無駄なような気がしていたのだ。彼の力は地獄に属する力であり、肉体と顔の美しさによって成立する、地獄の領分に属する力だった。女たちが腕や腰の上に襞のある織物をまとって女王然とするように、クレルは身体の上に石炭の粉の存在を感じていた。彼の裸身を触れるべからざるものにする、この一種の化粧品が、彼を神にしていた」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.124~125」河出文庫)
「豊かで、金ぴかで、ダイヤのように輝く声の間で開花する金木犀と薔薇の花でできたこれらの花飾りのあれこれを昼の間ずっと頭にかぶっているのを知って、哀れな恥ずべき男である私は戦慄を覚える」(ジュネ「花のノートルダム・P.235」河出文庫)
しかしなぜジュネは「哀れな恥ずべき男である私は戦慄を覚える」というだろうか。ともかく当時の劣悪な環境に置かれた労働者は群れをなしている。彼らはジュネたちのように夜に限らず「昼の間ずっと」、終始一貫して「花飾りのあれこれ」に包み込まれているように見える。実際、鍛え抜かれた労働者の身体はその微細な筋肉繊維のことごとくに至るまで陰影深く激しく躍動する。ジュネ的感性にとってはたまらない動作を夜陰にまぎれてではなく、あろうことか真っ昼間に休むことなくリズリカルに律動させている。ジュネは「戦慄を覚える」。ジュネたちの場合はほとんど夜間に限られた淫猥この上ない肉体美の躍動が、まだ陽の高い時間帯であるにもかかわらず、この世にあっていいものかと。
ちなみに日本近代文学でも暗い部分が持つ力について述べた文章は色々とある。それは社会的な意味で「地下的」な部分に自分の領域を持つ労働者であることがほとんどだ。船や鉱山の労働者の場合を上げておこう。第一に有島武郎から。
「突然震えを帯びた、低い、重い声が焼きつくように耳近く聞こえたと思うと、葉子は倉地の大きな胸と太い腕とで身動きできないようん抱きすくめられていた。もとより葉子はその朝倉地が野獣のようなassaultに出る事を直覚的に覚悟して、むしろそれを期待して、そのassaultを、心ばかりでなく、肉体的な好奇心をもって待ち受けていたのだったが、かくまで突然、なんの前ぶれもなく起こって来ようとは思いも設けなかったので、女の本然の羞恥(しゅうち)から起こる貞操の防衛に駆られて、熟しきったような冷えきったような血を一時の体内に感じながら、かかえられたまま、侮蔑(ぶべつ)をきわめて表情を二つの目に集めて、倉地の顔を斜めに見返した。その冷ややかな目の光は仮初(かりそ)めの男の心をたじろがすはずだった。事務長の顔は振り返った葉子の顔に息気(いき)がかかるほどの近さで、葉子を見入っていたが、葉子が与えた冷酷なひとみには目もくれぬまで狂わしく熱していた。(葉子の感情を最も強くあおり立てるものは寝床を離れた朝の男の顔だった。一夜の休息にすべての精気を充分回復した健康な男の容貌の中には、女の持つすべてのものを投げ入れても惜しくないと思うほどの力がこもっていると葉子は始終感ずるのだった)葉子は倉地に存分な軽侮の心持ちを見せつけながらも、その顔を鼻の先に見ると、男性というものの強烈な牽引(けんいん)の力を打ち込まれるように感ぜずにはいられなかった。息気(いき)せわしく吐く男のため息は霰(あられ)のように葉子の顔を打った。火と燃え上がらんばかりに男のからだからはdesireの焔(ほむら)がぐんぐん葉子の血脈にまで広がって行った。葉子はわれにもなく異常な興奮にがたがた震え始めた」(有島武郎「或る女・前編・P.149~150」岩波文庫)
次に夏目漱石から。
「たださえ暗い抗の中だから、思い切った喩(たとえ)を云えば、頭から暗闇に濡れてると形容しても差支ない。その上本当の水、しかも坑と同じ色の水に濡れるんだから、心持の悪い所が、倍悪くなる。その上水は踝(くるぶし)から段々競(せ)り上がって来る。今では腰まで漬かっている。しかも動くたんびに、波が立つから、実際の水際以上までが濡れてくる。そうして、濡れた所は乾かないのに、波はことによると、濡れた所よりも高く上がるから、つまりは一寸二寸と身体が腹まで冷えてくる。坑で頭から冷えて、水で腹まで冷えて、二重に冷え切って、不知(ふち)案内の所を海鼠(なまこ)の様に附いて行った。すると、右の方に穴があって、洞(ほら)の様に深く開いてるから、水が流れてくる。そうしてその中でかあんかあんと云う音がする。作事場に違いない。初さんは、穴の前に立ったまま、『そうら、こんな底でも働いてるものがあるぜ。真似が出来るか』と聞いた。自分は、胸が水に浸るまで、屈(こご)んで洞の中を覗き込んだ。すると奥の方が一面に薄明るくーーー明るくと云うが、締りのない、取り留めのつかない、微(かすか)な灯を無理に広い間(ま)へ使って、引っ張り足りないから、折角の光が暗闇(くらやみ)に圧倒されて、茫然と濁っている体(てい)であった。その中に一段と黒いものが、斜めに岩へ吸い附いている辺(あたり)から、かあんかあんと云う音が出た。洞の四面へ響いて、行(ゆ)き所のない苦しまぎれに、水に跳ね返ったものが、纏(まと)まって穴の口から出て来る。水も出てくる。天井の暗い割には水の方に光がある」(夏目漱石「坑夫・P.269~230」新潮文庫)
これらはいずれも、時系列を知らない「増大する力の感じ」というものが、ほとんどの場合非日常的な「暗闇」で生産されていることについて述べられたものだ。ただ単に女性の性欲の表現だとか過酷な鉱山労働の現場のルポに過ぎないわけではまったくない。近代日本の資本主義創成期において、ニーチェ=フロイトのいう「エス」はそのような場で顕著に見ることができたということが一点。さらに重要なのは、「或る女」の葉子にしても「坑夫」の主人公にしても、どちらもこの「暗闇」を通過することでその後の人生ががらりと変わるという点で共通していることを見極めることができるだろう。そして近代日本はこのような「暗闇」を通過し保存することなしに増殖することは不可能だったことに留意すべきである。力は常に「地下的なもの」として存在したのだ。
ーーーーー
さて、アルトー。人間存在の平面はただ一つではなくまた「別の平面」が存在すると述べる。しかしそれは疑似的なルアーのようなものに過ぎない。引っかかってはいけないとアルトーはいう。
「しかし人間存在には別の平面が存在し、それは薄暗く形を成さず、そこに意識は侵入せず、この平面は無明の広がりや、場合によっては、脅威のような何かで意識を取り囲む。そしてこれもまた冒険的な感覚や知覚を出現させる」(アルトー『タラウマラ・P.42~43』河出文庫)
意識はいつも想像力を行使する。アルトーが警戒すべき「別の平面」というのは「病んだ意識を犯すあつかましい幻想」であって、ともすれば人間はついそちら側へ吸い込まれそうになる。そこでもしペヨトルの正当な取り扱い方を用いることができるのであれば、その場合に限り、「病んだ意識」のおもむくまま「数々の偽の感情や知覚」の側へどんどんはまり込んでいくことを阻止することができる。
「それは病んだ意識を犯すあつかましい幻想なのだ。意識は、もし何も自分を引き止めるものが見つからなければ、それに身を委ね、まるごとそこに溶けてしまう。そしてペヨトルはこの恐ろしい方面で、<悪>に対する唯一の防壁となるのだ。私もまた数々の偽の感情や知覚を経験し、それを信じ込んだことがある」(アルトー『タラウマラ・P.43』河出文庫)
ところでしかし「病んだ意識」とは一体どんな意識を指して言われているのだろうか。アルトーの場合、数千年に渡って成し遂げられたステレオタイプな意識、盲目的に凝り固まった固着的意識、端的にいえば「国家装置」である。たとえばドゥルーズとガタリのいう「国家(パラノイア=病的固着)」からの《逃走線としての》「分裂症(スキゾフレニー)」的態度といった戦略はアルトーを大いに参照している。
ーーーーー
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
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「最も奇妙な詩的現象についてはどう言えばいいのか、つまり世界中がーーーそしてそれ自身のうちで最も陰鬱な世界、最も不吉な、黒焦げになった、厳格主義にいたるまで乾ききった世界、工場労働者たちの厳しくむき出しの世界がーーー根本的に豊かで、金ぴかで、ダイヤのように輝き、スパンコールを施され、あるいは絹のように光沢のある声によって歌われた、風のなかに失われた民衆の歌という驚異にくるまれているという現象である」(ジュネ「花のノートルダム・P.234~235」河出文庫)
そこでは或る種の「歌」が歌われる。ジュネは「最も陰鬱な世界、最も不吉な、黒焦げになった、厳格主義にいたるまで乾ききった世界、工場労働者たちの厳しくむき出しの世界」で、それは歌われる。ジュネの耳にはこう聴こえる。
「これらの歌は、もし私がそれらの歌が労働者たちの重々しい口によって歌われるということを知っているならば、恥ずかしさを覚えずには考えることのできない文章をもっているのだが、そこには、身を任せるーーー、優しさーーー、恍惚ーーー、薔薇の園ーーー、別荘ーーー、大理石の階段席ーーー、愛人ーーー、美しき愛ーーー、宝石ーーー、王冠ーーー、おお、わが女王ーーー、名も知らぬ愛しき人ーーー、金ぴかのサロンーーー、美しき上流婦人ーーー、花籠ーーー、肉の宝庫ーーー、金色の入り日ーーー、わが心はおまえを崇拝するーーー、花で一杯のーーー、夕暮れの色調ーーー、上品で薔薇色をした乙女ーーー、などといった言葉、最後には残酷なまでに贅沢なあれらの言葉が、ルビーを嵌め込まれた短刀ならばそうであるように、それらの肉に切り傷をつけるにちがいない言葉が見出される」(ジュネ「花のノートルダム・P.235」河出文庫)
当時のフランスで歌われる労働歌といえば「インターナショナル」か「ワルシャワ労働歌」かどちらかしかなかっただろうと思われるわけだが、その歌詞がジュネの耳にはこうも違って聴こえること自体、それが美しいからにほかならない。とはいえジュネは個々の労働者を褒め称えているわけではない。彼らの労働運動がフランス国家の秩序に向けて根底から揺さぶりをかけていることを見せつけられ、その暴力的なまでに黒々と渦巻く力が実際にうねりくねりながら動き回る様相を目の当たりにして、そこに倫理的美を発見し動揺してしまう自分自身を感じるからである。「泥棒日記」にこうある。
「すべて倫理的行為の美しさは、その表現の美しさによって決定される。それは美しい、と言えば、それですでにそれが美しい行為となることが決る。あとはそれを立証すればよいのだ。そしてその役目は、もろもろの表象(イメージ)、すなわち、さまざまな物理的世界の壮麗さとの照応、が行う。それがもし歌を、我々の咽喉(のど)の中で発見させ、湧き起こさせるならば、その行為は美しいのだ」(ジュネ「泥棒日記・P.24」新潮文庫)
あるいは作品「ブレストの乱暴者」に出てくる、船底で埃まみれになって働くクレルの黒々とした肉体美がそれに相当する。クレルは白人なのだが船底で石炭を扱う肉体労働によって鍛え抜かれている。石炭の灰で黒々として、光の加減で微妙な変化を見せつけつつ様々な陰影を描き出す肉体美は上官であるセブロン少尉の同性愛的嗜好性を刺激して止まない。
「耳の上とうしろの髪の毛を掌で撫でつけようとして、クレルは腕を上げた。虹鱒(にじます)の腹のように青白く張りつめた脇の下を露わに見せる、この彼の動作があまりに美しかったので、士官はもう堪えられないほどの苦悩の色を、その眼にありありと現わした。士官の眼は、もう勘弁してくれと叫んでいた。その眼ざしは、拝跪の姿勢よりもっと卑下していた。クレルは自分の力を意識していた。少尉を軽蔑していたが、以前のように、彼を頭から馬鹿にしたいという気は起らなかった。自分の力が今までとは別の種類のものではないかという気がしていたので、自分の魅力と軽々しくたわむれることは、無駄なような気がしていたのだ。彼の力は地獄に属する力であり、肉体と顔の美しさによって成立する、地獄の領分に属する力だった。女たちが腕や腰の上に襞のある織物をまとって女王然とするように、クレルは身体の上に石炭の粉の存在を感じていた。彼の裸身を触れるべからざるものにする、この一種の化粧品が、彼を神にしていた」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.124~125」河出文庫)
「豊かで、金ぴかで、ダイヤのように輝く声の間で開花する金木犀と薔薇の花でできたこれらの花飾りのあれこれを昼の間ずっと頭にかぶっているのを知って、哀れな恥ずべき男である私は戦慄を覚える」(ジュネ「花のノートルダム・P.235」河出文庫)
しかしなぜジュネは「哀れな恥ずべき男である私は戦慄を覚える」というだろうか。ともかく当時の劣悪な環境に置かれた労働者は群れをなしている。彼らはジュネたちのように夜に限らず「昼の間ずっと」、終始一貫して「花飾りのあれこれ」に包み込まれているように見える。実際、鍛え抜かれた労働者の身体はその微細な筋肉繊維のことごとくに至るまで陰影深く激しく躍動する。ジュネ的感性にとってはたまらない動作を夜陰にまぎれてではなく、あろうことか真っ昼間に休むことなくリズリカルに律動させている。ジュネは「戦慄を覚える」。ジュネたちの場合はほとんど夜間に限られた淫猥この上ない肉体美の躍動が、まだ陽の高い時間帯であるにもかかわらず、この世にあっていいものかと。
ちなみに日本近代文学でも暗い部分が持つ力について述べた文章は色々とある。それは社会的な意味で「地下的」な部分に自分の領域を持つ労働者であることがほとんどだ。船や鉱山の労働者の場合を上げておこう。第一に有島武郎から。
「突然震えを帯びた、低い、重い声が焼きつくように耳近く聞こえたと思うと、葉子は倉地の大きな胸と太い腕とで身動きできないようん抱きすくめられていた。もとより葉子はその朝倉地が野獣のようなassaultに出る事を直覚的に覚悟して、むしろそれを期待して、そのassaultを、心ばかりでなく、肉体的な好奇心をもって待ち受けていたのだったが、かくまで突然、なんの前ぶれもなく起こって来ようとは思いも設けなかったので、女の本然の羞恥(しゅうち)から起こる貞操の防衛に駆られて、熟しきったような冷えきったような血を一時の体内に感じながら、かかえられたまま、侮蔑(ぶべつ)をきわめて表情を二つの目に集めて、倉地の顔を斜めに見返した。その冷ややかな目の光は仮初(かりそ)めの男の心をたじろがすはずだった。事務長の顔は振り返った葉子の顔に息気(いき)がかかるほどの近さで、葉子を見入っていたが、葉子が与えた冷酷なひとみには目もくれぬまで狂わしく熱していた。(葉子の感情を最も強くあおり立てるものは寝床を離れた朝の男の顔だった。一夜の休息にすべての精気を充分回復した健康な男の容貌の中には、女の持つすべてのものを投げ入れても惜しくないと思うほどの力がこもっていると葉子は始終感ずるのだった)葉子は倉地に存分な軽侮の心持ちを見せつけながらも、その顔を鼻の先に見ると、男性というものの強烈な牽引(けんいん)の力を打ち込まれるように感ぜずにはいられなかった。息気(いき)せわしく吐く男のため息は霰(あられ)のように葉子の顔を打った。火と燃え上がらんばかりに男のからだからはdesireの焔(ほむら)がぐんぐん葉子の血脈にまで広がって行った。葉子はわれにもなく異常な興奮にがたがた震え始めた」(有島武郎「或る女・前編・P.149~150」岩波文庫)
次に夏目漱石から。
「たださえ暗い抗の中だから、思い切った喩(たとえ)を云えば、頭から暗闇に濡れてると形容しても差支ない。その上本当の水、しかも坑と同じ色の水に濡れるんだから、心持の悪い所が、倍悪くなる。その上水は踝(くるぶし)から段々競(せ)り上がって来る。今では腰まで漬かっている。しかも動くたんびに、波が立つから、実際の水際以上までが濡れてくる。そうして、濡れた所は乾かないのに、波はことによると、濡れた所よりも高く上がるから、つまりは一寸二寸と身体が腹まで冷えてくる。坑で頭から冷えて、水で腹まで冷えて、二重に冷え切って、不知(ふち)案内の所を海鼠(なまこ)の様に附いて行った。すると、右の方に穴があって、洞(ほら)の様に深く開いてるから、水が流れてくる。そうしてその中でかあんかあんと云う音がする。作事場に違いない。初さんは、穴の前に立ったまま、『そうら、こんな底でも働いてるものがあるぜ。真似が出来るか』と聞いた。自分は、胸が水に浸るまで、屈(こご)んで洞の中を覗き込んだ。すると奥の方が一面に薄明るくーーー明るくと云うが、締りのない、取り留めのつかない、微(かすか)な灯を無理に広い間(ま)へ使って、引っ張り足りないから、折角の光が暗闇(くらやみ)に圧倒されて、茫然と濁っている体(てい)であった。その中に一段と黒いものが、斜めに岩へ吸い附いている辺(あたり)から、かあんかあんと云う音が出た。洞の四面へ響いて、行(ゆ)き所のない苦しまぎれに、水に跳ね返ったものが、纏(まと)まって穴の口から出て来る。水も出てくる。天井の暗い割には水の方に光がある」(夏目漱石「坑夫・P.269~230」新潮文庫)
これらはいずれも、時系列を知らない「増大する力の感じ」というものが、ほとんどの場合非日常的な「暗闇」で生産されていることについて述べられたものだ。ただ単に女性の性欲の表現だとか過酷な鉱山労働の現場のルポに過ぎないわけではまったくない。近代日本の資本主義創成期において、ニーチェ=フロイトのいう「エス」はそのような場で顕著に見ることができたということが一点。さらに重要なのは、「或る女」の葉子にしても「坑夫」の主人公にしても、どちらもこの「暗闇」を通過することでその後の人生ががらりと変わるという点で共通していることを見極めることができるだろう。そして近代日本はこのような「暗闇」を通過し保存することなしに増殖することは不可能だったことに留意すべきである。力は常に「地下的なもの」として存在したのだ。
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さて、アルトー。人間存在の平面はただ一つではなくまた「別の平面」が存在すると述べる。しかしそれは疑似的なルアーのようなものに過ぎない。引っかかってはいけないとアルトーはいう。
「しかし人間存在には別の平面が存在し、それは薄暗く形を成さず、そこに意識は侵入せず、この平面は無明の広がりや、場合によっては、脅威のような何かで意識を取り囲む。そしてこれもまた冒険的な感覚や知覚を出現させる」(アルトー『タラウマラ・P.42~43』河出文庫)
意識はいつも想像力を行使する。アルトーが警戒すべき「別の平面」というのは「病んだ意識を犯すあつかましい幻想」であって、ともすれば人間はついそちら側へ吸い込まれそうになる。そこでもしペヨトルの正当な取り扱い方を用いることができるのであれば、その場合に限り、「病んだ意識」のおもむくまま「数々の偽の感情や知覚」の側へどんどんはまり込んでいくことを阻止することができる。
「それは病んだ意識を犯すあつかましい幻想なのだ。意識は、もし何も自分を引き止めるものが見つからなければ、それに身を委ね、まるごとそこに溶けてしまう。そしてペヨトルはこの恐ろしい方面で、<悪>に対する唯一の防壁となるのだ。私もまた数々の偽の感情や知覚を経験し、それを信じ込んだことがある」(アルトー『タラウマラ・P.43』河出文庫)
ところでしかし「病んだ意識」とは一体どんな意識を指して言われているのだろうか。アルトーの場合、数千年に渡って成し遂げられたステレオタイプな意識、盲目的に凝り固まった固着的意識、端的にいえば「国家装置」である。たとえばドゥルーズとガタリのいう「国家(パラノイア=病的固着)」からの《逃走線としての》「分裂症(スキゾフレニー)」的態度といった戦略はアルトーを大いに参照している。
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
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