日曜礼拝で蛇捕りのアルベルトの姉ジュルメールの身振り仕ぐさを模倣せずにはいられないキュラフロワ。身振りの模倣はキュラフロワをただちにジュルメールに変える。したがって周囲の目には次のように見える。
「だから彼が入口の聖水盤から数滴の滴をすくうやいなや、後に筋肉が接木されたように、アルベルトの姉であるジュルメールのかたい尻と乳房がキュラフロワに接木された」(ジュネ「花のノートルダム・P.184」河出文庫)
ところがキュラフロワはジュルメールという女性を愛しているわけではない。ジュルメールの身振り仕ぐさが余りにも美しかったので、ジュルメールの身振り仕ぐさを懸命に模倣したわけである。しかし人間は往々にして逆に考えがちだ。もっとも、これまでの記述にあるように、あくまでもキュラフロワが愛しているのはジュルメールではなくその弟アルベルトであり、蛇捕りとして何匹もの蛇を触らせてくれてキュラフロワを夢中にさせるアルベルトである。しかしアルベルトの身振り仕ぐさは粗暴でありキュラフロワの繊細さを傷つける。だから荘厳な雰囲気の演出に満ちた教会での振る舞いはアルベルトではなくその姉ジュルメールの美しさを真似る。キュラフロワの身体はその場その場で最も官能的なものへ溶け込むことを欲望する。たとえばジュネは次のような例を上げて説明を加えている。身振りの象徴性は、身振りを行っている本人ではなくそれを注意深く見ている人々の目を鏡とすることでより一層明確になる。
「象徴的な身振りを繰り返す司祭たちは、象徴の霊験ではなく、最初の実行者の霊験に自分が満たされるのを感じる。ミサで盗みと押し込みの陰険な身振りを繰り返しながらディヴィーヌを埋葬した司祭は、断頭台で首を刎ねられた押し込み強盗の、豪華な戦利品である身振りを我が物とする」(ジュネ「花のノートルダム・P.184」河出文庫)
というように、「ディヴィーヌを埋葬した司祭」の身振りは「陰険」かもしれないが、「陰険」であろうとなかろうと埋葬のときの身振りは一般的に強盗が実際に行う「盗みと押し込みの身振り」に極めて似ている。司祭自身は似ているということをまったく知らないとしても。ところが司祭はそれを儀式の場で反復することで強盗たちがいつも実践している秩序立った行為を知らず知らずのうちに何度も繰り返し反復し、強盗たちの「豪華な戦利品である身振りを我が物と」する。ジュネにすればこの珍妙なアナロジー(類似、類推)を滑稽に描くことは朝飯前なのかもしれないがあえてそうしない。というのは、教会の司祭と強盗たちがひっそり実行する身振り仕ぐさが極めて似ているというアナロジー(類似、類推)はジュネたちにとって滑稽に見えはするものの、むしろかえって「奇跡的」なまでに似ているため、この「奇跡的」類似性を今後の「泥棒、裏切り、性倒錯」実現のための安全保障として、身体を用いたレトリックとして、より一層活用し重宝しようと考えるからだ。
ところで、キュラフロワは教会の中に備え付けられている様々な備品に接近する。聖体パンにしろいかにも秘密に満ちて荘厳に安置されている備品にしろ。キュラフロワはこっそりとそれらの中を覗く。聖体パンを迂闊にも床に落っことしてしまう。聖体パンは床にころころと転がり落ちるパン自身の音でキュラフロワに答える。言うに言われぬ何とも空虚な音だった。
「神は空っぽだった。ただ単にひとつの穴があり、周りにあるのは何でもよかった」(ジュネ「花のノートルダム・P.187」河出文庫)
荘厳さ。石膏像などはその最たるものだ。中身はまさしく「空っぽ」でありむしろ「空っぽ」でなくてはならない。それでこそその中には無数の神秘的におもえるいかなるものでも目一杯に詰め込んで見せることが可能になる。最大限の演出に必要であればそれは何でもよいのである。
「『復讐』ーーー報復したいという熱望ーーーは、不正がなされたという感情では《なく》て、私が《打ち負かされた》というーーーそして、私はあらゆる手段でもっていまや私の面目を回復しなくてはならないという感情である。《不正》は、《契約》が破られたとき、それゆえ平和と信義が傷つけられるとき、初めて生ずる。これは、なんらかの《ふさわしくない》、つまり感覚の同等性という前提にふさわしくない行為についての憤激である。それゆえ、或る低級の段階を指示する何か卑俗なもの、軽蔑すべきものが、そこにはあるにちがいない。これと反対の意図は、ふさわしくない人物をこうした《低級の段階に置くという》、つまり、そうした人物を私たちから分離し、追放し、おとしめ、そうした人物に恥辱を加えるという意図でしかありえない。《刑罰の意味》。刑罰の意味は、威嚇することでは《なく》て、社会的秩序のなかで誰かを低位に置くことである。《その者はもはや私たちと同等の者たちには属していない》のだ。《このこと》を実現する方策ならどれでも、用が足りるのだ」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・一〇五一・P.560~561」ちくま学芸文庫)
ジュネはいう。
「そういうわけで、私は人間の形をした無数の穴に囲まれて生きていた」(ジュネ「花のノートルダム・P.187」河出文庫)
ーーーーー
さて、アルトー。宗教が仕掛けた「罰」の論理の仕組みによって誰も彼もが過剰な性欲の奴隷と見なされてしまうシステムがいかに馬鹿馬鹿しいか。アルトーは次のように述べる。
「性器あるいは肛門だけが特に問題なのではない それにこれらは切断し解消すべきものだ、しかし大腿、股関節、腰、性器をのぞいた腹全体 臍が問題なのである」(アルトー「残酷劇」『神の裁きと訣別するため・P.56』河出文庫)
神の裁きとして人間身体という鋳型(いがた)にはめ込まれ固定されてしまった身体諸部分。それらはそもそも社会的文法が成立するまでは本来的にばらばらなものでしかなかった。ところが宗教的教義によって人間身体とその機能は「こうでなければならない」と強制的に拘束され掟によって縛り付けられてしまったままである。アルトーのいう「猥雑」は、アルトーが考えているようにではなく、宗教家が考えているような「猥雑さ」である。人間身体は性欲の塊であるという宗教家が宗教家自体の生々しい身体を用いて真面目に演じる身振り仕ぐさの「猥雑さ」である。だから宗教家が性欲のイメージを極力否定しようとして演じる身振り仕ぐさは演じれば演じるほどますます猥雑に見えるほかない。荘厳であればあるほど、厳粛であればあるほど、その演出のための豪華な備品とそれらに満ちた身振り仕ぐさは一体何を否定したがっているか。敏感な人々はたちまちそれを見抜いてしまう。したがって世界を制圧してしまっている宗教的身振り仕ぐさの生々しい「猥雑さ」から解放されるためには、これまで採用されてきた宗教家の身振り仕ぐさによる「猥雑な身体のダンス」からの解放だけでなく新しい身振り仕ぐさが創設されなくてはならない。
「これらは一貫して猥雑な生と合体してきた しかしこの猥雑な身体のダンスを 破壊しなければならない われわれの身体のダンスでこれらを追い出してしまうためである」(アルトー「残酷劇」『神の裁きと訣別するため・P.57』河出文庫)
アルトーはそう提唱することを止めない。
ーーーーー
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
BGM
「だから彼が入口の聖水盤から数滴の滴をすくうやいなや、後に筋肉が接木されたように、アルベルトの姉であるジュルメールのかたい尻と乳房がキュラフロワに接木された」(ジュネ「花のノートルダム・P.184」河出文庫)
ところがキュラフロワはジュルメールという女性を愛しているわけではない。ジュルメールの身振り仕ぐさが余りにも美しかったので、ジュルメールの身振り仕ぐさを懸命に模倣したわけである。しかし人間は往々にして逆に考えがちだ。もっとも、これまでの記述にあるように、あくまでもキュラフロワが愛しているのはジュルメールではなくその弟アルベルトであり、蛇捕りとして何匹もの蛇を触らせてくれてキュラフロワを夢中にさせるアルベルトである。しかしアルベルトの身振り仕ぐさは粗暴でありキュラフロワの繊細さを傷つける。だから荘厳な雰囲気の演出に満ちた教会での振る舞いはアルベルトではなくその姉ジュルメールの美しさを真似る。キュラフロワの身体はその場その場で最も官能的なものへ溶け込むことを欲望する。たとえばジュネは次のような例を上げて説明を加えている。身振りの象徴性は、身振りを行っている本人ではなくそれを注意深く見ている人々の目を鏡とすることでより一層明確になる。
「象徴的な身振りを繰り返す司祭たちは、象徴の霊験ではなく、最初の実行者の霊験に自分が満たされるのを感じる。ミサで盗みと押し込みの陰険な身振りを繰り返しながらディヴィーヌを埋葬した司祭は、断頭台で首を刎ねられた押し込み強盗の、豪華な戦利品である身振りを我が物とする」(ジュネ「花のノートルダム・P.184」河出文庫)
というように、「ディヴィーヌを埋葬した司祭」の身振りは「陰険」かもしれないが、「陰険」であろうとなかろうと埋葬のときの身振りは一般的に強盗が実際に行う「盗みと押し込みの身振り」に極めて似ている。司祭自身は似ているということをまったく知らないとしても。ところが司祭はそれを儀式の場で反復することで強盗たちがいつも実践している秩序立った行為を知らず知らずのうちに何度も繰り返し反復し、強盗たちの「豪華な戦利品である身振りを我が物と」する。ジュネにすればこの珍妙なアナロジー(類似、類推)を滑稽に描くことは朝飯前なのかもしれないがあえてそうしない。というのは、教会の司祭と強盗たちがひっそり実行する身振り仕ぐさが極めて似ているというアナロジー(類似、類推)はジュネたちにとって滑稽に見えはするものの、むしろかえって「奇跡的」なまでに似ているため、この「奇跡的」類似性を今後の「泥棒、裏切り、性倒錯」実現のための安全保障として、身体を用いたレトリックとして、より一層活用し重宝しようと考えるからだ。
ところで、キュラフロワは教会の中に備え付けられている様々な備品に接近する。聖体パンにしろいかにも秘密に満ちて荘厳に安置されている備品にしろ。キュラフロワはこっそりとそれらの中を覗く。聖体パンを迂闊にも床に落っことしてしまう。聖体パンは床にころころと転がり落ちるパン自身の音でキュラフロワに答える。言うに言われぬ何とも空虚な音だった。
「神は空っぽだった。ただ単にひとつの穴があり、周りにあるのは何でもよかった」(ジュネ「花のノートルダム・P.187」河出文庫)
荘厳さ。石膏像などはその最たるものだ。中身はまさしく「空っぽ」でありむしろ「空っぽ」でなくてはならない。それでこそその中には無数の神秘的におもえるいかなるものでも目一杯に詰め込んで見せることが可能になる。最大限の演出に必要であればそれは何でもよいのである。
「『復讐』ーーー報復したいという熱望ーーーは、不正がなされたという感情では《なく》て、私が《打ち負かされた》というーーーそして、私はあらゆる手段でもっていまや私の面目を回復しなくてはならないという感情である。《不正》は、《契約》が破られたとき、それゆえ平和と信義が傷つけられるとき、初めて生ずる。これは、なんらかの《ふさわしくない》、つまり感覚の同等性という前提にふさわしくない行為についての憤激である。それゆえ、或る低級の段階を指示する何か卑俗なもの、軽蔑すべきものが、そこにはあるにちがいない。これと反対の意図は、ふさわしくない人物をこうした《低級の段階に置くという》、つまり、そうした人物を私たちから分離し、追放し、おとしめ、そうした人物に恥辱を加えるという意図でしかありえない。《刑罰の意味》。刑罰の意味は、威嚇することでは《なく》て、社会的秩序のなかで誰かを低位に置くことである。《その者はもはや私たちと同等の者たちには属していない》のだ。《このこと》を実現する方策ならどれでも、用が足りるのだ」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・一〇五一・P.560~561」ちくま学芸文庫)
ジュネはいう。
「そういうわけで、私は人間の形をした無数の穴に囲まれて生きていた」(ジュネ「花のノートルダム・P.187」河出文庫)
ーーーーー
さて、アルトー。宗教が仕掛けた「罰」の論理の仕組みによって誰も彼もが過剰な性欲の奴隷と見なされてしまうシステムがいかに馬鹿馬鹿しいか。アルトーは次のように述べる。
「性器あるいは肛門だけが特に問題なのではない それにこれらは切断し解消すべきものだ、しかし大腿、股関節、腰、性器をのぞいた腹全体 臍が問題なのである」(アルトー「残酷劇」『神の裁きと訣別するため・P.56』河出文庫)
神の裁きとして人間身体という鋳型(いがた)にはめ込まれ固定されてしまった身体諸部分。それらはそもそも社会的文法が成立するまでは本来的にばらばらなものでしかなかった。ところが宗教的教義によって人間身体とその機能は「こうでなければならない」と強制的に拘束され掟によって縛り付けられてしまったままである。アルトーのいう「猥雑」は、アルトーが考えているようにではなく、宗教家が考えているような「猥雑さ」である。人間身体は性欲の塊であるという宗教家が宗教家自体の生々しい身体を用いて真面目に演じる身振り仕ぐさの「猥雑さ」である。だから宗教家が性欲のイメージを極力否定しようとして演じる身振り仕ぐさは演じれば演じるほどますます猥雑に見えるほかない。荘厳であればあるほど、厳粛であればあるほど、その演出のための豪華な備品とそれらに満ちた身振り仕ぐさは一体何を否定したがっているか。敏感な人々はたちまちそれを見抜いてしまう。したがって世界を制圧してしまっている宗教的身振り仕ぐさの生々しい「猥雑さ」から解放されるためには、これまで採用されてきた宗教家の身振り仕ぐさによる「猥雑な身体のダンス」からの解放だけでなく新しい身振り仕ぐさが創設されなくてはならない。
「これらは一貫して猥雑な生と合体してきた しかしこの猥雑な身体のダンスを 破壊しなければならない われわれの身体のダンスでこれらを追い出してしまうためである」(アルトー「残酷劇」『神の裁きと訣別するため・P.57』河出文庫)
アルトーはそう提唱することを止めない。
ーーーーー
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
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