白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

言語化するジュネ/流動するアルトー118

2020年02月13日 | 日記・エッセイ・コラム
キュラフロワの少年時代の思い出は続く。どこまでも続く。ジュネはどこかで区切りを付けるつもりはしている。実際、区切る。しかしまた始める。プルーストやジョイスのように創作手法として「意識の流れ」を取り入れているがゆえに切れ目なくながながと続くわけではない。意識的に「意識の流れ」という創作手法を取り入れるわけではない。ジュネは過去の経験の回想に当たってもちろん過去の実際の経験を書くのだが、書くとき過去はすで過去化している。だから後になって、執筆時に最も妥当と感えられる言語を慎重に選択して用いる。過去の経験を現在において反復する。過去の経験を過去のまま描こうとしても不可能である。だから執筆時に最も妥当と考えられる言語を注意深く選択して用いるということにならざるを得ない。それは意図的脚色ではなく大袈裟な虚飾でもなく現在語ることができる平凡な事実である。さてしかし、登場人物ディヴィーヌ(彼女)としてパリで暮らすようになる遥か前、小学生キュラフロワ(彼)だった頃の思い出はなぜこんなに何度も繰り返し反復されるのか。少年時代の思い出は汲めども尽きないというばかりではない。キュラフロワだけが突出して想像力豊かだったというわけでもない。「村」というのはどこの国でも都市でないという意味でどれもそっくり似ている。村の日常はどこの村でも同じようなものだった。そんな或る村の一軒家でキュラフロワは母エルネスティーヌと二人で暮らしていた。エルネスティーヌはまだ若い。夫が早くに自殺した。多くの国債を残して。少年キュラフロワはヴァイオリンに関心を持つ。母エルネスティーヌに話してみる。しかし。

「はじめてキュラフロワがヴァイオリンを買ってくれと母親に頼んだとき、彼女は不満を表していたのだった。彼女はスープの塩加減を見ていた」(ジュネ「花のノートルダム・P.136」河出文庫)

母が「ヴァイオリン」という言葉を聞いたとき、なぜ一瞬動きを止めたのか、キュラフロワにはわからない。

「彼女の目には、これらのイマージュ、河や、炎や、紋章をつけた幟や、ルイ十五世風のヒールや、青いレオタードの小姓や、小姓の狡猾なねじ曲がった魂のうちのどれもが見えてはいなかったのだが、それぞれのイマージュが彼女に引き起こしていた混乱、黒いインクの湖に潜ったようなあの混乱が、生と死のはざまに彼女をしばしとどまらせ、そして二、三秒後に彼女が我に返ったとき、神経性の震えが彼女を動揺させて、スープに塩を入れている手を震わせた」(ジュネ「花のノートルダム・P.136~137」河出文庫)

言語はいつどこでどんなふうに人間に作用するか。それはそのときになってみないとわからない。キュラフロワには何ら罪の意識などない。ヴァイオリンというたった一言。しかし母エルネスティーヌには「神経性の震えが彼女を動揺させて、スープに塩を入れている手を震わせ」るに足る十分な理由がある。

「その歪められた形から、ヴァイオリンが感じやすい自分の母親を不安にしていることを、そしてそれが夢のなかで、しなやかな猫たちとともに、壁の隅や、盗人たちが夜の戦利品を分け合い、他のごろつきたちがガス灯のまわりで丸くなっているバルコニーの下や、生皮をはがれるヴァイオリンのように軋む音を立てる階段をうろついていることをキュラフロワは知らなかった」(ジュネ「花のノートルダム・P.137」河出文庫)

エルネスティーヌは息子キュラフロワに殺意を抱く。しかし思いとどまる。キュラフロワに罪があろうがなかろうが、たとえもし実際に殺したとしたらなおさら、キュラフロワを葬り去るどころか逆に「不滅」にしてしまうことがわかっているからである。

「《不滅にする》。ーーー敵を殺そうとする者は、ほかならぬこのことによって、自分の心の中で敵を永遠なものにしないかどうか、とくと考えてみるがよい」(ニーチェ「曙光・四〇六・P.349」ちくま学芸文庫)

皮肉でも何でもなく実際のところ、殺害行為は何か別のものを誕生せしめる二重の行為だ。殺害は常に両義的であり、「パルマコン」=「医薬/毒薬」的である。その意味で毒性を持つトリカブトという言葉あるいはその少し前に書かれている「解毒剤」(ミトリダト)から引き出された様々なイマージュは姿形を次々に置き換えただけで、まだここでも十分に響いている。キュラフロワの想像力の産物が大量に描き込まれている理由は、キュラフロワがトリカブトを少し齧ったからというわけではなく、トリカブトから抽出できる毒性を持つ主成分(劇薬)が人間に起こす作用(多くは多臓器不全)に匹敵するほど、子どもたちの想像力あるいは創造力は大人の持つ陳腐な想像力を遥かに凌駕しているということをジュネは言いたいからだ。エルネスティーヌは殺害行為がかえって被害者を「不滅」にしてしまうことになるという結果が予測できないほど馬鹿ではない。さらに殺害しない場合、重要なのは、「たたき棒や、鞭や、尻をぶつことや、平手打ちはその力を失っていて、あるいはむしろその効果を変える」ということを理解していた点にある。単純であろうと複雑であろうと「お仕置き」という行為は一方的な「与える/与えられる」関係を打ち立ててしまう。そして「お仕置き」は、なるほど見た目には一方的な教育的措置に見えながらも実際は「与える側」と「与えられる側」との双方による共犯関係を成立させる。

「エルネスティーヌは自分の息子を殺すことができないので激昂して涙を流した、というのもキュラフロワは殺すことのできないものであり、というかむしろわれわれは、殺したものが別の誕生を可能にしたのを見ることができるからだ。つまりたたき棒や、鞭や、尻をぶつことや、平手打ちはその力を失っていて、あるいはむしろその効果を変えるものである」(ジュネ「花のノートルダム・P.137」河出文庫)

エルネスティーヌの行為がどのような作用を及ぼしどのような事態を出現させるか。母エルネスティーヌにも息子キュラフロワにもわからない。ただ、効果は確実に出現する。そして出現する時期についても、必ずしもただちに出現するとは限らない。十年ほどして出現する場合もある。たとえば「鞭や、尻をぶつこと」。後々キュラフロワが残酷極まりないサディストとして生きていく要因を植え付けることになるかもしれない。だが、「ぶつ」のでなく逆に「ぶたれること」ばかりを激しく求めるマゾヒストとして生きていくことになるかもしれない。もっとも、どんなに注意深く見ていてもさして何も起こらないかもしれない。けれども往々にして体罰は狙った効果とは多少なりとも「ずれ」た、別の効果を誕生させる。「平手打ち」はどうだろう。平手打ちを与えられた少年はそれ以後、途方もない優等生を演じることになるかもしれない。逆にもう何一つ口にせず誰ともコミュニケーションをとろうとしない孤独への階段をひたすら昇り詰めていくことになるかもしれない。エルネスティーヌはキュラフロワの母である。若後家である。村では知らぬもののない美女でもある。が、夫の自殺後けっして他の男性と性交しないという性格は一応記憶に留めておかねばならない。多額の国債によってエルネスティーヌは「贅沢な暮らしをすることも、幾人もの召使に支えられ、絨毯から金ぴかの天井まで続く巨大な鏡のなかで生きることだってできたはずだった」。だが国債を現金化して湯水のごとく使ってしまう田舎者根性に対する嫌悪や、他の男性と性交あるいは恋愛さえしないのには理由がある。限りない夢をいともあっさり殺してしまうからだ。多額の現金を注ぎ込む贅沢な生活、そして実際の男性との性行為は。とりわけ男と寝ることは男の実際のつまらなさを日々認めていく作業の連続でしかない。だからエルネスティーヌは「贅沢と華美を拒否して」生きていた。したがってエルネスティーヌの手元には多額の貨幣と美とがほぼ手付かずのままたんまり鎮座していることになる。それがどういうことなのか知らないままキュラフロワは大量の貨幣と美とが秘蔵された一軒家で夜毎の夢に身を委ねて生きていた。言葉というものは、とても危険な、ときとして愛する息子に殺意を抱かせることもたびたびある凶器だということをジュネほどはっきり述べた小説家は稀かもしれない。

「violonヴァイオリンという言葉はもう口にはされなかった。音楽を勉強するために、すなわち雑誌で見た、どれかは知らないがきれいな若者と同じ身振りをするためにキュラフロワは楽器を作ったのだが、エルネスティーヌの前ではもうけっしてviol強姦で始まる言葉を言おうとはしなかった」(ジュネ「花のノートルダム・P.137」河出文庫)

その意味でジュネの言語の使用方法は徹底的に下品に思えるときがあるにせよ、本物の上品あるいは高貴とは何かを幼少年期から身体の次元で叩き込まれた人々だけが知っている危険に満ちたものだ。
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さて、アルトー。神は糞便であると述べるアルトー。神としての糞便の系列には「アメリカ」や「スターリンのロシア」も盛り込んで描くアルトー。当時の人々が無邪気に批判して騒いだように、アルトーは本当に狂人だったか?むしろ本当のことを口にしたばっかりに、他人が言いたくても言えなかったことを口にしてしまったばっかりに、なぜか一般大衆の側から非難されたアルトー。さらに彼は問う。

「獣たちはどこからきたか?」 (アルトー「残酷劇」『神の裁きと訣別するため・P.49』河出文庫)

どこからきたか?アフリカやシベリアやアマゾンから来たというのも一つの立派な答えである。しかしそれでは個別的な動物に関して答えたというに過ぎない。アルトーが問うているのは「獣たち」についてである。

「身体的知覚の世界が あるべき場所になく、完成されていないところからくる、心理的な生は存在しても ほんとうの有機的な生が皆無であるところからくる」(アルトー「残酷劇」『神の裁きと訣別するため・P.49』河出文庫)

アルトーの念頭にある「獣たち」というのは、簡単にいえば「獣性」であり「獣性」としてしか存在しない力のことを指す。人間の中にも少しは残っている。というか、「獣性」のない人間はいない。ドゥルーズとガタリに言わせるとこうなる。

「性愛とは数かぎりない性を産み出すことであり、そのような性はいずれも制御不可能な生成変化となる。《性愛は、男性をとらえる女性への生成変化と、人間一般をとらえる動物への生成変化を経由する》。つまり微粒子の放出である。だからといって獣性の体験が必要なわけではない。性愛に獣性の体験が顔を出すことは否定できないし、精神医学の逸話にも、この点でなかなか興味深い証言が数多く含まれている。だがそれは極度の単純さから、いずれも婉曲で、愚かしいものになりさがっている。絵葉書の老紳士のように犬の『ふりをする』ことが求められているのではない。動物と交わることが求められているわけでもない。動物への生成変化を性格づけるのは何よりもまず異種の力能だ。なぜなら、動物への生成変化は、模倣や照応の対象となる動物にその現実性を見出すのではなく、みずからの内部には、つまり突如われわれをとらえ、われわれに<なること>をうながすものに現実性を見出していくからである。動物への生成変化の現実性は、《近傍の状態》や《識別不可能性》に求められる。それが動物から引き出すものは、馴化や利用や模倣をはるかに超えた、いわくいいがたい共通性だ。つまり『野獣』である」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・中・P.247~288」河出文庫)

アルトーは続ける。「獣たち」の獣性、力への意志は純粋である。ところが人間の生は有機体として金縛りに遭っている、拘束されていると。人間は神を捏造したがそのために有機体としての「区別」、拘束、隔離に甘んじるほかなくなった。今やこの区別はますます激しく暴力的に、神の名において人間自身を縛り上げ窒息させようとしていると。

「純粋な有機的生について粗雑な観念しか もてないところからくる、単純に胎生的な有機体的生と 人間の身体の相対的な 感情的具体的生との 間に区別が 設けられたところからくる」(アルトー「残酷劇」『神の裁きと訣別するため・P.49~50』河出文庫)

ちなみにニーチェは、自分で自分自身の「力」がどのようなものか知ることはできないという。それを示してくれるのは実は自分の周囲の「環境」だと。人間はぼんやりした力の流動性としてしか存在しない。だからその「量」を測定するのだが、「量」はあまりにもしばしば人間の「質」と取り違えられていると警告する。たとえば今日、或る容疑者が証拠不十分あるいは保釈金を支払うことで勾留を解かれ釈放されたとしよう。罪状はなんでも構わない。容疑者は気持ちの上で少しは自由になったと勘違いする。容疑者が複数いる限り、自分を逮捕することは他の容疑者を裁判闘争に叩き込むことになるため、訴追はほぼない。そう考えた瞬間、釈放の瞬間、「環境」は環境の側から姿を変える。自由の身になった容疑者は今度は世界という環境に巻き込まれるのであり、世界水準において改めて自分の「力」がおもむろに天秤にかけられる様子を見ることになる。人間の力は「量」に還元されているため、環境が変わると大きくなったり小さくなったりする。目に付く。そして、容疑者がいつも犯しがちなことだが、釈放された環境に置かれた場合、要するに「恵まれた環境の場合、おそらく最高度の能力に匹敵することが出来るであろう」と述べる。その意味でニーチェは悪党にエールを送っているということができる。ニーチェの言葉はいつも両義的だ。「力」は量的に取り扱われる限り、犯罪であろうとなかろうともっと最大限の可能性を追求することができる。できるのになぜしないのかと。少なくとも環境はその特定の人間の力をいつも試しているだけでなく、環境の側が先回りしてその特定の人間が訪れる先々ですでに変わった環境を準備して、何食わぬ顔で待ち構えてくれていると。

「《自分の環境を知る》。ーーーわれわれは自分のいろいろな力を評価することはできるが、われわれの《力》そのものは評価できない。環境はこの力をわれわれに対して隠したり、示したりするばかりではない。ーーーそれどころか!環境はこの力を大きくしたり、小さくしたりする。われわれは自分を変化しうる量とみなすべきである。この量の能力は、恵まれた環境の場合、おそらく最高度の能力に匹敵することが出来るであろう。それ故にわれわれは環境を熟慮し、その観察に当って、いかなる勤勉をもいとわないようにしなければならない」(ニーチェ「曙光・三二六・P.315~316」ちくま学芸文庫)

アルトーに言わせれば、人間以前に神、すなわち糞便は、置かれた環境次第でどこまでも増長できるし増長すればするほどもっと自分の力を試してみたくなると。もしそうしない場合、なるほど「安全」には違いない。が、「犯罪」を演出し発生させるほどの名優にはなれない。一度演じた芝居を演じ続けない場合、一度手に取った仮面を不用意に取り換えようとした瞬間、ただちに何かが暴露される。また何もしない場合、次々と回転し変化する環境に巻き込まれ簀巻きにされ、たぶん殺されたりはしないが、それでもなお死ぬまで「限りなく苦しめられる」ほかないと。
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

BGM