ディヴィーヌが少年キュラフロワだった頃の思い出へ移行するのはいつも決まって、誰かの不用意な侮辱の言葉によって傷つけられた時だ。それは常に自殺への甘美な誘惑と結びついて離れることはない。キュラフロワの避難所であるルネッサンス世界では毒薬が大きな支配権を揮っている。毒薬は人間を誘惑する。そして殺す。ところが植物には人間を殺そうとする意志などあるはずもない。単なる植物としてのトリカブトなら大昔からあった。いつが最初かわからないが、トリカブトの持つ毒物成分を用いて或る人間が他の人間を殺そうと考えた。その瞬間、単なる植物というだけではない毒薬としてのトリカブトが出現した。一九三〇年代のヨーロッパでも当然、トリカブトならそこらへんに幾らでも自生していた。その葉を摘み取りに行く途中でキュラフロワは様々な変身を遂げる。
「彼が手に入れることのできた唯一の毒薬はトリカブトだったのだが、毎晩、ごわごわの皺のついた長いガウンを着て、彼は庭と同じ高さにある部屋の扉を開け、つっかい棒をまたいでーーー恋人や、泥棒や、踊り子や、夢遊病者や、大道芸人の身振りーーー、それからニワトコや、桑や、リンボクの生垣の境界がある菜園に飛び降りるのだった」(ジュネ「花のノートルダム・P.132~133」河出文庫)
キュラフロワは無意識のうちに変身する。「恋人」に、「泥棒」に、「踊り子」に、「夢遊病者」に、「大道芸人」に。これらの変身の系列はすべて身振り仕ぐさによって実現される。あくまでも自殺欲望にともなう快感のために実現される多少なりとも興奮状態にある身振り仕ぐさである。トリカブトを摂取したからではなく、その接種による死がもたらすであろう夢を夢見る少年キュラフロワがみずから演じる身振り仕ぐさによる変身だ。ところでトリカブトが毒草あるいは毒薬であるのは確かであり人間がトリカブトから抽出する主成分アコニチンは致死量という境界線を持つ。劇薬指定。致死量に至らない場合でもたいがいは嘔吐、呼吸困難、多臓器不全(心不全が多い)を起こす。だが漢方薬としては専門医の処方によって主に医薬として働く。それはアコニチンの毒性を約1000分の1に薄めて始めて使えるものになるため専門家以外の人間は手出し無用である。だから特定の少数民族の中では古代から主に狩猟や戦闘において毒矢の先に塗布する手法が定着していた。ちなみにデリダは言語の両義性を論じるにあたり「パルマコン」=「医薬/毒薬」という概念を用いている。
「『パイドロス』の冒頭における、このパルマケイアへの短い言及は偶然だろうか、それは前菜(オードブル)〔作品外〕だろうか。ロバンの注記によれば、イーリッソス河のほとりの『おそらくは治療のための』一つの泉がパルマケイアに献じられていたという。いずれにせよ、次のことを頭に入れておこう。すなわち、《パルマケイアと戯れることによって、》奈落へと転げ落ちて死に襲われたこの《乙女》〔処女〕の場面を、ある一つの小さな染みが、言い換えれば一つの編み目〔あざ、斑点〕が、この対話全体にとっての画布の背景のように印づけている、と。またパルマケイアー(Pharmakeia)は、Pharmakon、薬物、ーーーすなわち治療薬かつ/あるいは毒薬ーーーの処法を意味する普通名詞でもある。『毒殺』は『パルマケイアー』の非日常的な意味ではなかった。アンティポンは『継母毒殺の告発』(Pharmakeias kata tes metryas)という代作弁論(ロゴグラム)をわれわれに残している。パルマケイア=パルマケイアーはその戯れによって、処女的純粋さと手つかずの内部を死へと連れ去ったのである。そのすぐ先のところでソクラテスは、パイドロスが携えてきた書かれたテクストを一種の薬物(Pharmakon)に喩える。治療薬であると同時に毒薬でもあるこのパルマコン、この『医薬』、この媚薬は、その両義性全体をもって、この言説の本体のなかにすでに忍び込んでいる。この魔力、この魅惑する力、この呪縛する力はーーー代わるがわる、あるいは同時にーーー有益でも有害でもありうる。もっと先のところでわれわれはパルマコンを反-物質(アンチ・スュプスタンス)〔反実体〕として認識するに至らざるをえないのであるが、もしそうしないですむのであれば、パルマコンとは、不可解な効力をもつその素材(マチエール)〔質料〕の点から見て、隠された深さをもつ一種の《物質(スュプスタンス)》(この単語がもちうるあらゆる暗示的意味をこめて)であり、その両義性は分析を拒み、すでにして錬金術の空間を準備していると言えよう。すなわち、それは一切の哲学素に抵抗するものであり、非-同一性、非-本質、非-実体(スュプスタンス)として哲学素を不定の仕方で際限なく超過し、またそのことによって哲学素に、その資産(フォン)とその基盤(フォン)の不在とのあいだの尽きることのない敵対関係を提供するのである。パルマコンは誘惑によって作用し、一般的な法と道(それらが自然なものであれ慣習的なものであれ)の外へと連れ出す。ここではソクラテスが彼固有の場といつもの道のりから連れ出される。いつもならソクラテスは街の内部につねに留まっていた。エクリチュールの紙束は一種のパルマコンとして作用し、それは、かつて決して都市から出ようとはしなかった人間、たとえ最後の瞬間にドクニンジンから逃れるためであっても都市から出ようとはしなかった人間を、都市の外へと押しやるあるいは誘い出す」(デリダ「プラトンのパルマケイアー」『散種・P.103~105』法政大学出版局)
そんなわけで言語の「パルマコン性」=「医薬/毒薬」という「両義性」から類推して、言葉による暴力がどれほど過酷なものになり得るかのアプローチを試みることができる。またデリダは、或る人間が他の人間に意図的かつ安直に与える「贈与」に関し、そのような贈与をパルマコン(毒薬)に喩えてこう述べる。
「贈与があるためには、贈与を忘却せねばなりませんが、しかしそれと同時にそういった忘却それ自体は保持されねばならないのです。贈与が生起するためには、それはどんな忘却であってもかまわないというわけではありません。消去されねばならぬと同時に、消去の痕跡を保持せねばならないのです。そして、こういった二重の命令は、明らかに狂気を引き起こすダブル・バインドであります。私は与えようと欲し、他者が受け取ってくれることを欲します。したがって、この贈与が生起するためには、他者は私が彼に与えるということを知っていなければなりません。そうでなければこういったことは意味をもちませんし、贈与は、生起しません。しかしながら、私が与えるということを他者が知っていたり、私のほうもまた知っているならば、贈与はこの象徴的な認知(感謝)によって廃棄されてしまいます。では、どうすればよいのでしょうか。とはいえ、贈与はあらねばなりませんし、贈与はよいのです。ですから、贈与の想定それ自体、つまり贈与のこの狂気、これはダブルバインドの状況なのです。そして、あらゆる掟、あらゆる掟についての経験がこうしたタイプのものである、と私は言いたい。一つの掟、それは必ずしも悪いものではありません。われわれはもろもろの掟は必要としますし、掟を与えること、それはまた贈り物でもあります。というのも掟は第一に安心させ、不安を避けさせてくれるからです。ところが、掟の贈与は同時に悪いものでもあります。それはパルマコンであり、毒であります。贈与はどれも毒なのです。こういった観点からすると、記憶、時間ならびに歴史との関連において、贈与と掟の贈与とは、実際、何らかの類似したものである、と言うことができます。人が与えるときーーーこれが恐ろしい点であり、贈与をただちに毒に変えてしまい、したがって贈与をエコノミー的円環のうちへ引きずり込んでしまうのですがーーー人が与えるとき、人はなんらかの掟を与えるのであり、掟をつくる〔命じる〕のです」(デリダ「時間をーーー与える」『他者の言語・P.110~111』法政大学出版局)
そしてそのような事態におちいってしまいがちな「贈与」は往々にして「暴力的な動作」だと論じる。今の日本政府では「IR収賄疑惑問題」がそれに相当する。日本国内での認識はどうであれ少なくとも世界的水準ではとてもわかりやすい犯罪の事例であるといえる。
「キュラフロワは茂みのなかからナペル・トリガブトの葉を摘み取り、二デシメートル秤でそれらを量り、毎回分量を増やして、まるめては飲み込むのだった。だが毒には、殺すという、そして死者たちのなかから彼が殺した者たちを蘇らせるという二重の効能があった、そしてそれは急激に作用するのだった」(ジュネ「花のノートルダム・P.133」河出文庫)
キュラフロワは幻想のうちにたちまちルネッサンスを出現させる。そこでは次のような風景が展開している。
「口から、ルネッサンスは、舌を出しながら、しかし敬虔に聖体パンを呑み込む小娘が生んだ『神なる人間』としての少年を手に入れる」(ジュネ「花のノートルダム・P.133」河出文庫)
教会の神父は難解な教義ともったいぶった身振りとで「小娘」の口をぱっくりと開かせ、その「裂け目」めがけて「聖体パン」(キリストの肉体)を難なく押し付け押し込み、そうすることで湧き起こってくる力の感情を抑えることができない。獰猛な男性器と化した神父の精神的勃起を目の当たりにしつつどこまでも敬虔な態度で象徴的フェラチオ要求に応じる「小娘」の荘厳さに満ちた神々しい態度。ジュネは圧倒されるほかない。が、ジュネはそれをその場で告発したりはしない。むしろジュネ自身の性的快感をより一層高めるために有効活用する。そのためには「少年」キュラフロワの想像力に任せるだけでよい。こんなふうに。
「ボルジア家、占星術師たち、春本作家たち、君主たち、女子大修道院長たち、傭兵隊長たちは、絹の下の固い膝の上に裸のままの少年を受け取り、少年は、絹の下の石でできた、ジャズの黒人たちの胸が彼らのシャツの真珠色の繻子の下でそうであるにちがいないように、びくともしない石でできた、そそり立った陰茎に頬を優しく押しつける」(ジュネ「花のノートルダム・P.133」河出文庫)
ジュネの関心を引くフェチあるいは言語的トリックスターの系列。「ボルジア家」、「占星術師たち」、「春本作家たち」、「君主たち」、「女子大修道院長たち」、「傭兵隊長たち」、「ジャズの黒人たち」。それらはキュラフロワが耽溺するルネッサンス世界の中で、「びくともしない石でできた、そそり立った陰茎」の無限の系列をなして少年キュラフロワをうっとりさせずにはおかない。キュラフロワが陶然と身を任せている様子を見守ることができるということだけでも、少なくともこの場でのジュネはたいへん満足である。ただ、記述はもう少し続くわけだが。
ーーーーー
さて、アルトー。残酷演劇についてアルトーはマニフェストを発表している。有名な「第一宣言」と「第二宣言」がそれだ。しかしその後さらに先の「宣言」を再考した文章を発表した。「宣言」後の再考はもちろん「宣言」とはまた違った味わいがある。そして味わいが違うというだけでなく文体そのものがなぜか全然ちがったものへ変化している。ここでは宣言再考として書かれた「残酷劇」を見ることにしたい。
「神の物語ほど その存在たる《悪魔》の物語ほど なみはずれて糞便的なものがあるだろうか」(アルトー「残酷劇」『神の裁きと訣別するため・P.48』河出文庫)
これでなくてはアルトーでないといわんばかりのフレーズで始まる。神は、神に敵対するとされる悪魔をでっち上げることによって始めて、神は神自身の同一性を支えることができる。そして神が悪魔によって支えられ悪魔の存在を自分の根拠にしている以上、神が悪魔を差して「糞便」だとするなら神もまた《別種の》「糞便」であるとしか言えない。
「心臓の膜 普遍的幻想の 卑劣な雌豚 それがべとつく乳房で 隠してきたものとは <無>だけではないか?」(アルトー「残酷劇」『神の裁きと訣別するため・P.48』河出文庫)
アルトーの指摘はなるほど鋭い。神の使徒を自称する人々に共通の身振り。「隠す」という身振り。「隠す」ことで何か本当に「隠されたもの」が《ある》と信じ込み他人にも信じ込ませてしまう身振り。「隠す」という身振りによって、そもそもなかったものが始めて出現するのであって、その逆ではない。さらに神父は信者に向けておずおずと「告白」を勧める。ところがその瞬間、あり得ない手品がありありと出現するのだ。種も仕掛けも《ある》手品が。
「ところで、キリスト教の改悛・告解から今日に至るまで、性は告白の特権的な題材であった。それは、人が隠すもの、と言われている。ところが、もし万が一、それが反対に、全く特別な仕方で人が告白するものであったとしたら?それを隠さねばならぬという義務が、ひょっとして、それを告白しなければならぬという義務のもう一つの様相だとしたなら?(告白がより重大であり、より厳密な儀式を要求し、より決定的な効果を約束するものとなればなるほど、いよいよ巧妙に、より細心の注意を払って、それを秘密にしておくことになる。)もし性が、我々の社会においては、今やすでに幾世紀にもわたって、告白の完璧な支配体制のもとに置かれているものであるとしたなら?すでに述べた性の言説化と、多様な性的異形性の分散と強化とは、恐らく同じ一つの装置=仕組みの二つの部品なのである。それらは、人々に性的な異形性のーーーそれがどれほど極端なものであってもーーー真実なる言表を強要する告白という中心的な要素のお蔭でこの装置のなかに有機的に連結されているのである。ギリシャにおいて、真理と性とが結ばれていたのは、教育という形で、貴重な知を身体(からだ)から身体(からだ)へと伝承することによってであった。性は知識の伝授を支える役割を果たしていたのである。我々にとっては、真理と性とが結ばれているのは、告白においてであり、個人の秘密の義務的かつ徹底的な表現によってである。しかし今度は、真理の方が、性と性の発現とを支える役を果たしている」(フーコー「性の歴史1・知への意志・P.79~80」新潮社)
このようにして信者は次々に「色情狂」として承認されることになる。物質的暴力を用いず、しかし目に見えないだけにますます狡猾になる精神的暴力による支配の方法はこうして確立されてきたのである。
ーーーーー
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
BGM
「彼が手に入れることのできた唯一の毒薬はトリカブトだったのだが、毎晩、ごわごわの皺のついた長いガウンを着て、彼は庭と同じ高さにある部屋の扉を開け、つっかい棒をまたいでーーー恋人や、泥棒や、踊り子や、夢遊病者や、大道芸人の身振りーーー、それからニワトコや、桑や、リンボクの生垣の境界がある菜園に飛び降りるのだった」(ジュネ「花のノートルダム・P.132~133」河出文庫)
キュラフロワは無意識のうちに変身する。「恋人」に、「泥棒」に、「踊り子」に、「夢遊病者」に、「大道芸人」に。これらの変身の系列はすべて身振り仕ぐさによって実現される。あくまでも自殺欲望にともなう快感のために実現される多少なりとも興奮状態にある身振り仕ぐさである。トリカブトを摂取したからではなく、その接種による死がもたらすであろう夢を夢見る少年キュラフロワがみずから演じる身振り仕ぐさによる変身だ。ところでトリカブトが毒草あるいは毒薬であるのは確かであり人間がトリカブトから抽出する主成分アコニチンは致死量という境界線を持つ。劇薬指定。致死量に至らない場合でもたいがいは嘔吐、呼吸困難、多臓器不全(心不全が多い)を起こす。だが漢方薬としては専門医の処方によって主に医薬として働く。それはアコニチンの毒性を約1000分の1に薄めて始めて使えるものになるため専門家以外の人間は手出し無用である。だから特定の少数民族の中では古代から主に狩猟や戦闘において毒矢の先に塗布する手法が定着していた。ちなみにデリダは言語の両義性を論じるにあたり「パルマコン」=「医薬/毒薬」という概念を用いている。
「『パイドロス』の冒頭における、このパルマケイアへの短い言及は偶然だろうか、それは前菜(オードブル)〔作品外〕だろうか。ロバンの注記によれば、イーリッソス河のほとりの『おそらくは治療のための』一つの泉がパルマケイアに献じられていたという。いずれにせよ、次のことを頭に入れておこう。すなわち、《パルマケイアと戯れることによって、》奈落へと転げ落ちて死に襲われたこの《乙女》〔処女〕の場面を、ある一つの小さな染みが、言い換えれば一つの編み目〔あざ、斑点〕が、この対話全体にとっての画布の背景のように印づけている、と。またパルマケイアー(Pharmakeia)は、Pharmakon、薬物、ーーーすなわち治療薬かつ/あるいは毒薬ーーーの処法を意味する普通名詞でもある。『毒殺』は『パルマケイアー』の非日常的な意味ではなかった。アンティポンは『継母毒殺の告発』(Pharmakeias kata tes metryas)という代作弁論(ロゴグラム)をわれわれに残している。パルマケイア=パルマケイアーはその戯れによって、処女的純粋さと手つかずの内部を死へと連れ去ったのである。そのすぐ先のところでソクラテスは、パイドロスが携えてきた書かれたテクストを一種の薬物(Pharmakon)に喩える。治療薬であると同時に毒薬でもあるこのパルマコン、この『医薬』、この媚薬は、その両義性全体をもって、この言説の本体のなかにすでに忍び込んでいる。この魔力、この魅惑する力、この呪縛する力はーーー代わるがわる、あるいは同時にーーー有益でも有害でもありうる。もっと先のところでわれわれはパルマコンを反-物質(アンチ・スュプスタンス)〔反実体〕として認識するに至らざるをえないのであるが、もしそうしないですむのであれば、パルマコンとは、不可解な効力をもつその素材(マチエール)〔質料〕の点から見て、隠された深さをもつ一種の《物質(スュプスタンス)》(この単語がもちうるあらゆる暗示的意味をこめて)であり、その両義性は分析を拒み、すでにして錬金術の空間を準備していると言えよう。すなわち、それは一切の哲学素に抵抗するものであり、非-同一性、非-本質、非-実体(スュプスタンス)として哲学素を不定の仕方で際限なく超過し、またそのことによって哲学素に、その資産(フォン)とその基盤(フォン)の不在とのあいだの尽きることのない敵対関係を提供するのである。パルマコンは誘惑によって作用し、一般的な法と道(それらが自然なものであれ慣習的なものであれ)の外へと連れ出す。ここではソクラテスが彼固有の場といつもの道のりから連れ出される。いつもならソクラテスは街の内部につねに留まっていた。エクリチュールの紙束は一種のパルマコンとして作用し、それは、かつて決して都市から出ようとはしなかった人間、たとえ最後の瞬間にドクニンジンから逃れるためであっても都市から出ようとはしなかった人間を、都市の外へと押しやるあるいは誘い出す」(デリダ「プラトンのパルマケイアー」『散種・P.103~105』法政大学出版局)
そんなわけで言語の「パルマコン性」=「医薬/毒薬」という「両義性」から類推して、言葉による暴力がどれほど過酷なものになり得るかのアプローチを試みることができる。またデリダは、或る人間が他の人間に意図的かつ安直に与える「贈与」に関し、そのような贈与をパルマコン(毒薬)に喩えてこう述べる。
「贈与があるためには、贈与を忘却せねばなりませんが、しかしそれと同時にそういった忘却それ自体は保持されねばならないのです。贈与が生起するためには、それはどんな忘却であってもかまわないというわけではありません。消去されねばならぬと同時に、消去の痕跡を保持せねばならないのです。そして、こういった二重の命令は、明らかに狂気を引き起こすダブル・バインドであります。私は与えようと欲し、他者が受け取ってくれることを欲します。したがって、この贈与が生起するためには、他者は私が彼に与えるということを知っていなければなりません。そうでなければこういったことは意味をもちませんし、贈与は、生起しません。しかしながら、私が与えるということを他者が知っていたり、私のほうもまた知っているならば、贈与はこの象徴的な認知(感謝)によって廃棄されてしまいます。では、どうすればよいのでしょうか。とはいえ、贈与はあらねばなりませんし、贈与はよいのです。ですから、贈与の想定それ自体、つまり贈与のこの狂気、これはダブルバインドの状況なのです。そして、あらゆる掟、あらゆる掟についての経験がこうしたタイプのものである、と私は言いたい。一つの掟、それは必ずしも悪いものではありません。われわれはもろもろの掟は必要としますし、掟を与えること、それはまた贈り物でもあります。というのも掟は第一に安心させ、不安を避けさせてくれるからです。ところが、掟の贈与は同時に悪いものでもあります。それはパルマコンであり、毒であります。贈与はどれも毒なのです。こういった観点からすると、記憶、時間ならびに歴史との関連において、贈与と掟の贈与とは、実際、何らかの類似したものである、と言うことができます。人が与えるときーーーこれが恐ろしい点であり、贈与をただちに毒に変えてしまい、したがって贈与をエコノミー的円環のうちへ引きずり込んでしまうのですがーーー人が与えるとき、人はなんらかの掟を与えるのであり、掟をつくる〔命じる〕のです」(デリダ「時間をーーー与える」『他者の言語・P.110~111』法政大学出版局)
そしてそのような事態におちいってしまいがちな「贈与」は往々にして「暴力的な動作」だと論じる。今の日本政府では「IR収賄疑惑問題」がそれに相当する。日本国内での認識はどうであれ少なくとも世界的水準ではとてもわかりやすい犯罪の事例であるといえる。
「キュラフロワは茂みのなかからナペル・トリガブトの葉を摘み取り、二デシメートル秤でそれらを量り、毎回分量を増やして、まるめては飲み込むのだった。だが毒には、殺すという、そして死者たちのなかから彼が殺した者たちを蘇らせるという二重の効能があった、そしてそれは急激に作用するのだった」(ジュネ「花のノートルダム・P.133」河出文庫)
キュラフロワは幻想のうちにたちまちルネッサンスを出現させる。そこでは次のような風景が展開している。
「口から、ルネッサンスは、舌を出しながら、しかし敬虔に聖体パンを呑み込む小娘が生んだ『神なる人間』としての少年を手に入れる」(ジュネ「花のノートルダム・P.133」河出文庫)
教会の神父は難解な教義ともったいぶった身振りとで「小娘」の口をぱっくりと開かせ、その「裂け目」めがけて「聖体パン」(キリストの肉体)を難なく押し付け押し込み、そうすることで湧き起こってくる力の感情を抑えることができない。獰猛な男性器と化した神父の精神的勃起を目の当たりにしつつどこまでも敬虔な態度で象徴的フェラチオ要求に応じる「小娘」の荘厳さに満ちた神々しい態度。ジュネは圧倒されるほかない。が、ジュネはそれをその場で告発したりはしない。むしろジュネ自身の性的快感をより一層高めるために有効活用する。そのためには「少年」キュラフロワの想像力に任せるだけでよい。こんなふうに。
「ボルジア家、占星術師たち、春本作家たち、君主たち、女子大修道院長たち、傭兵隊長たちは、絹の下の固い膝の上に裸のままの少年を受け取り、少年は、絹の下の石でできた、ジャズの黒人たちの胸が彼らのシャツの真珠色の繻子の下でそうであるにちがいないように、びくともしない石でできた、そそり立った陰茎に頬を優しく押しつける」(ジュネ「花のノートルダム・P.133」河出文庫)
ジュネの関心を引くフェチあるいは言語的トリックスターの系列。「ボルジア家」、「占星術師たち」、「春本作家たち」、「君主たち」、「女子大修道院長たち」、「傭兵隊長たち」、「ジャズの黒人たち」。それらはキュラフロワが耽溺するルネッサンス世界の中で、「びくともしない石でできた、そそり立った陰茎」の無限の系列をなして少年キュラフロワをうっとりさせずにはおかない。キュラフロワが陶然と身を任せている様子を見守ることができるということだけでも、少なくともこの場でのジュネはたいへん満足である。ただ、記述はもう少し続くわけだが。
ーーーーー
さて、アルトー。残酷演劇についてアルトーはマニフェストを発表している。有名な「第一宣言」と「第二宣言」がそれだ。しかしその後さらに先の「宣言」を再考した文章を発表した。「宣言」後の再考はもちろん「宣言」とはまた違った味わいがある。そして味わいが違うというだけでなく文体そのものがなぜか全然ちがったものへ変化している。ここでは宣言再考として書かれた「残酷劇」を見ることにしたい。
「神の物語ほど その存在たる《悪魔》の物語ほど なみはずれて糞便的なものがあるだろうか」(アルトー「残酷劇」『神の裁きと訣別するため・P.48』河出文庫)
これでなくてはアルトーでないといわんばかりのフレーズで始まる。神は、神に敵対するとされる悪魔をでっち上げることによって始めて、神は神自身の同一性を支えることができる。そして神が悪魔によって支えられ悪魔の存在を自分の根拠にしている以上、神が悪魔を差して「糞便」だとするなら神もまた《別種の》「糞便」であるとしか言えない。
「心臓の膜 普遍的幻想の 卑劣な雌豚 それがべとつく乳房で 隠してきたものとは <無>だけではないか?」(アルトー「残酷劇」『神の裁きと訣別するため・P.48』河出文庫)
アルトーの指摘はなるほど鋭い。神の使徒を自称する人々に共通の身振り。「隠す」という身振り。「隠す」ことで何か本当に「隠されたもの」が《ある》と信じ込み他人にも信じ込ませてしまう身振り。「隠す」という身振りによって、そもそもなかったものが始めて出現するのであって、その逆ではない。さらに神父は信者に向けておずおずと「告白」を勧める。ところがその瞬間、あり得ない手品がありありと出現するのだ。種も仕掛けも《ある》手品が。
「ところで、キリスト教の改悛・告解から今日に至るまで、性は告白の特権的な題材であった。それは、人が隠すもの、と言われている。ところが、もし万が一、それが反対に、全く特別な仕方で人が告白するものであったとしたら?それを隠さねばならぬという義務が、ひょっとして、それを告白しなければならぬという義務のもう一つの様相だとしたなら?(告白がより重大であり、より厳密な儀式を要求し、より決定的な効果を約束するものとなればなるほど、いよいよ巧妙に、より細心の注意を払って、それを秘密にしておくことになる。)もし性が、我々の社会においては、今やすでに幾世紀にもわたって、告白の完璧な支配体制のもとに置かれているものであるとしたなら?すでに述べた性の言説化と、多様な性的異形性の分散と強化とは、恐らく同じ一つの装置=仕組みの二つの部品なのである。それらは、人々に性的な異形性のーーーそれがどれほど極端なものであってもーーー真実なる言表を強要する告白という中心的な要素のお蔭でこの装置のなかに有機的に連結されているのである。ギリシャにおいて、真理と性とが結ばれていたのは、教育という形で、貴重な知を身体(からだ)から身体(からだ)へと伝承することによってであった。性は知識の伝授を支える役割を果たしていたのである。我々にとっては、真理と性とが結ばれているのは、告白においてであり、個人の秘密の義務的かつ徹底的な表現によってである。しかし今度は、真理の方が、性と性の発現とを支える役を果たしている」(フーコー「性の歴史1・知への意志・P.79~80」新潮社)
このようにして信者は次々に「色情狂」として承認されることになる。物質的暴力を用いず、しかし目に見えないだけにますます狡猾になる精神的暴力による支配の方法はこうして確立されてきたのである。
ーーーーー
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
BGM
