架空の劇団第26回公演「スケッチブック-供養絵をめぐる物語-」の取材のために、都合3回目の遠野取材に行った。
1回目は去年の春、原作者のちばさんと劇団員何人かで善明寺に供養絵を見に行った。そのときのお昼は、Oみさんがどうしてもとある店の味噌ラーメンが食べたいというのでそこに行くことになった。
Oみさんは、味噌ラーメンの野菜は炒めてあるのが必須で、茹でてあるのは言語道断な人である。遠野のとある店は、ちゃんと野菜を炒めてあって、Oみさんの望みにかなう。しっかり美味しい味噌ラーメンでした。人気店のようで結構待ち時間もあった。
1年以上前の取材の、周辺の味噌ラーメンについてうっかり長々と書いてしまったが、大体そういうものであると思っていただきたい。
と、ここまで書いて、あ、4回目の遠野取材だったということに気づく。1回目は、そういや遠野市小友の西来院だった。確かここの取材後には「あんべ」でジンギスカンを食べたのではなかったか? なんか昼食の話ばかりになっているが、まあ大体そういうもんだと思っていただければ。
この西来院は、数年前、90過ぎだった住職が亡くなり、同じ宗派の附馬牛にある寺の住職が管理しているという。ここにも供養絵が結構あるのだが、無住となっているため、本堂の傷みも激しい。
善明寺に行ったのは、となると2回目の取材ということになる。ちょうど春のお祭りの日だったようで、近所の広場では、遠野の各地の神楽などが披露されていた。現在でもかなりの数の郷土芸能が継承されていて、出演団体の多彩さに驚かされた。担い手には女性も多く、何というか地域の中心にはそういう女の人たちがいるのだなと思った。
3回目は、役者の半分くらいを連れて、遠野市立博物館から善明寺というコースをめぐった。遠野市立博物館では前川さおりさんに案内をしていただき、ただめぐるのとは段違いの面白さだった。
この日のお昼は「遠野食肉センター」。劇団員のN尾さんはラムが苦手だったらしい。もちろんラムだけじゃないので、ラム以外のものを食べたらしいのだが。まあ、そういうことがわかるのも面白い。
そして17日には、善明寺と、とおの物語の館、伝承館、福泉寺と、ボリューミーなコースを回ってきた。とおの物語の館では、実際に語り部から昔話を聞くことが出来た。語り部は「今日はザシキワラシの話しをします」といって語り出したのだが、話しには馬が出てきて、結局「オシラサマ」を語った。まあそれはそれでご愛敬。
劇中に「サムトの婆」が出てくるので、それを生で聞きたかったものだが、まあ、仕方ない。生ではなく、館には録音でいろいろと昔話を聞けるブースもあって、そこでは「サムトの婆」を聞けたのだが、効果音の音量が高すぎて、肝心の語りが良く聞こえないという状態だった。これは改善した方がいいな。
伝承館では、オシラ堂の威圧感に久しぶりに触れ、公演の成功を祈願してきた。伝承館にお昼を食べられそうなところがあったのだが、今は休業中とのことで、近所を探すと、いかにも昭和な「はやちね食堂」というのがあった。こりゃもうそこしかないねと、行ってみると、目の前に福泉寺。
オレは辛味噌ラーメンなど食べたが、ちゃんと美味しいものでした。福泉寺は、名曲「遠野物語」の歌詞に出てくるが、五重塔があったり、しかもその建立が平成2年だったり、まあ、なんというか、いろいろと面白いところだった。
まだ続石とか見てないし、まだまだ遠野は奥深いな。
連休初日の4月29日、御所野縄文公園を回ってお昼になったので、古民家レストラン「うらら亭」を目指す。すぐ近所で、その気になれば歩いても行けそうな距離である。
2、3組先客がいたのだが、1時近い時間だったので、あらかた終了な感じだった。「今お水お持ちしますね」と、案内されたのは座敷の席。座卓は津軽塗だった。うーむ、由緒正しそうだ。つるし雛がたくさんあって、華やかなんだか不気味なんだか不思議な空間になっている。
こんな感じ。女将さんが1人で切り盛りしてる風で、結構待たされるのだが、急ぐ用事も無いし、きょろきょろしてるだけで古民家は楽しい。平安朝の屏風があったり、欄間の細工が面白かったり、梁がぶっとかったりと興味深い。
しばらくすると、注文を取りに来てくれた。パスタとカレーのランチセットをお願いする。待ってる間にと、女将さんがファイルを見せてくれた。そのファイルは、孫娘がこの古民家について調べた自由研究と、これまで「うらら亭」の記事が掲載された新聞をまとめたもの。どうやら元々は八戸でレストランを開いていたらしく、実家の古民家に移転してきたようだった。自由研究によれば、床の間のある奥の部屋には、くせ者対応のための槍があるという。それは客の目から見えない位置の長押に二本備えられていた。古民家自体は築150年ほどのようだが、その100年前からのこの地に住んでいたという。古くは蚕を飼っていたらしく、その頃の家は、白川郷などの合掌造りのようなものだったらしい。
そうこうしてキョロキョロして、ファイルを読み切ったあたりで、パスタとカレーが到着。食べ始めてから、水が来ていないことに気づく。お願いすると「あらごめんなさい」とうっかり忘れていた模様。「お水も美味しいですよ」と持ってきてくれた水は、その言葉に違わず美味しい水だった。食後のコーヒーは、この水で水出しコーヒーにしているらしい。
美味しくデザート付きのランチを平らげて、さて会計、と立ち上がったところからが本番だった。
他のお客さんもハケたところだったので、古民家の説明をしてくれたのだ。まずここには座敷わらしがいるらしく、願い事をするとかなうらしい。そして良いことがあったりするらしい。グーグルマップでは中まで撮影されていて。床の間には、ピンク色のとオーブが写っている。そしてそれを拡大してくると、子どもの顔になっているという。拡大してみてください。・・・確かに・・・。
「スマホお使いですか?」と聞くので「はい」と答えると「カメラモードにしてください」有無を言わさぬ迫力である。で、撮った画像が
である。オーブが写ってるとなんか良いことがあるらしいが、この画像にその気配はない。このあと、映像モードにして、1往復の撮影も薦められて、撮ってみた。床柱のエンジュを撫でながら、願い事をするとかなえてくれるということで、ちゃんとお祈りしてきた。
ここは大矢家といい、敦賀から初代がやって来たそうである。盛岡市長を務めた大矢馬太郎なども、元を正せばこの家からだという。大矢家250年祭などという、他の家ではちょっと考えられない、一族大集合祭りみたいなことも何年か前に開催されたらしい。御所野縄文公園も、側を通るバイパスも元は大矢家の土地らしく、とにかくもう財閥である。商家だったというが、なんの商売だったのだろう? と聞くのを忘れた。蚕をやっていたということは、このあたりのをまとめて、生糸の商売でもやっていたのかしら? まあそれは聞いてみないとわからない。
ここを取材などで訪ねた後、いろいろと良いことがあったとの報告もあるらしく、嬉しそうに話してくれた。会計をしているとその傍らに、1メートルくらいの高さがある、ガラスの水出しコーヒーメーカー(っていうのかな?)がある。これで毎日6時間かけてコーヒーを抽出しているのだという。雑味がなくスッキリとしたコーヒーだった。
レジのあるところは脇に台所、奥にトイレがあって、是非トイレも見ていって、といわれたので見てきた。確かに昔の戸で、傍らには便所のフタも二つあった。
一戸の御所野縄文公園にほど近い「うらら亭」。時間に余裕を持って訪ねてみると良いでしょう。ああ面白かった。
ゴールデンウィークの初日ということで29日にどこかへ行こうと思った。
岩手日報を読んでいたら「山の駅 昭和の学校」の記事があり、ちょっと興味をそそられた。廃校に昭和レトロな品物が大量に展示してあるらしく、それは花巻の山の神温泉に行く途中にある。何かを見て、昼ご飯を食べて、温泉入って帰ってくる、というのを大まかな目標に定めているので、そういう意味では文字通りである。
最近は、温泉といっても、ただ温泉ではなく、サウナ付きが必須とは言わぬまでも、かなり重要な要素になっている。
かねてから行ってみたかった御所野縄文公園は、子ども会のレクリエーションで、娘が小学1年生の時にカミさんと娘は訪れたことがあるのだが、オレはない。んでまあその頃はまだ世界遺産に指定されていなかった頃なので、なんか変わってたりするのかも知れない。まあ変わっててもオレはわかんないんだけど。
で、この、北へ行くか南へ行くか、まあどっちでも良いんだけど、いずれにしてもあんまり混んでいないところを目指したい。カミさんとオレでジャンケンをして、どちらに行くか決めることにした。オレが勝った。しかし担当が北だったか南だったか忘れた。カミさんは覚えていたようで、オレが勝ったら北と言うことだったらしい。直前のことを忘れる最近。
でまあ、悠久の歴史を感じられる御所野縄文公園へ。温泉は奥中山高原温泉。当然のことながらサウナもある。
到着すると、ちょうど良くガイドツアーの始まるところで、数組の観光客と一緒に公園を回ることになった。近場から来てるのはウチらと滝沢の人。牛久から来ている人がわかったのは、ガイドさんの最初の質問からだった。
「一戸の木ってあるんですが、皆さん、ご自分のお住まいになってるところの木わかります?」
そんな話の流れで牛久の人がいるとわかった。まあ牛久の木はわからなかったみたいだが、キンモクセイのようだ。ネット調べ。ちなみに一戸の木はネット調べだとナラと出てくるが、ガイドさんはコナラと言っていた。
盛岡の木はナンブアカマツかキリかと思っていたら、それは県で、盛岡市の木はシダレカツラだという。ちなみに県の木がアカマツで花がキリ。ちなみに盛岡の木はネット調べだとカツラ。シダレカツラは実は突然変異種で、岩手県くらいにしかない。そしてシダレカツラは全てクローンである。
そんな話をしながら、広大な公園に復元された土屋根の竪穴式住居の点在する、なだらかな丘を歩いて行く。この集落は約5000年前から4200年前の800年間使われていたらしい。その頃は縄文海進の真っ最中で、このあたりもかなり温暖だったようだ。次第に縄文海退となり、この広大な集落は捨てられ、分散していったようだ。
集会所っぽいところを復元したのがこちら
二股に分かれたところに梁を乗せるという作り方はしていたらしい。竪穴式住居が数件焼かれている状態で発掘されたものがあり、それは疫病のせいで焼かれたようだという。というのも、土屋根の竪穴式住居はそう簡単に燃えないらしく、不注意で全焼するモノでもないのだとのこと。なんでそんなことがわかったかというと、竪穴式住居を復元して燃やす実験をしたからだそうだ。
復元してから2年待ち、燃やしてみたら、なかなか燃えないので、中に追加で燃料となる木や茅などを足さないといけなかったらしい。流石に世界遺産になるくらいだから、その発掘や検証にかける情熱と予算たるや素晴らしい。
だって作って2年待って、それ燃やして、なかなか燃えないから燃料足して、わかったのは、自然に焼けたりしたんじゃなくて、人為的に焼いたらしいということ。うーむ、こういう情熱大好き。
ここの縄文集落は、お墓を中心に、各家々の入り口がお墓を向いて開いているという。埋葬地は平らに整地され、山からや川からの石を配置してお墓にしているらしい。
多様な木の実を栽培していたこともわかっていて、ハシバミの実はヘーゼルナッツだと教えてくれた。その他ケンポナシとかニワトコとかちょっとなじみのない木の実も活用していたみたいで、ちょっと食ってみたいと思った。
外の遺跡を見終わると、やはり博物館の方も見たくなる。土器や土偶があるのだ。お昼にはなっていたのだが、クルミ最中を食べて一時しのいで博物館もコンプリート。マルツ工房の土偶手ぬぐいを自分へのお土産で買う。
十二分に堪能して昼食をどこにするか検討。すぐ近くに「うらら亭」という古民家レストランがあるらしい。古民家好きとしては行っておかねばなるまい。そんなわけで行くことにしたが、長くなったのでそれは次回。座敷わらしもいるのだという。
賢治の旅の最後である。あ、いや、まだもう一回撮影があるので、旅は続く。とはいえ、次の撮影は東京周辺のスタジオの予定なので、旅でもないからやっぱり最終回で良としよう。
京都の宿を出発すると三条大橋へ。早朝6時からだというのになんだか人が多い。どうやら時代祭で夜通し呑んでいた人たちがそこら辺にまだたくさんいるようだ。主に若い人たちの集団が多い。しかも、道路にゴミが散乱している。こんなに汚い京都は初めて見た。とはいえそんなところは映さないので、映像の京都は美しいであろう。
ここでは三条大橋を渡る賢治と政次郎を撮影。すぐそばには当時賢治たちが泊まった旅館があるようだ。建て替えられてはいるものの、当時の場所で旅館も営まれているらしい。高いらしいけど。
撮影が終わると、橋のたもとにあるローソンで朝食を買い、車中で朝食となる。
そのまま奈良へと車を走らせる。高速道路を通るのだが、その名前が京奈和自動車道という。京都から奈良を通って和歌山に至る高速道路だ。岩手の広さに慣れていると、関西方面はすぐに隣の県になったりする。コンパクトというかなんというか、観光するにしても移動するにしても、かなりいろんなところに行ける可能性がある。とはいえ渋滞もつきものだったりするので、それなりに時間はかかるのだが。
まずは興福寺の五重塔を見上げる賢治と政次郎。
それからちょっと移動して階段を上がったりするのだが、何しろ奈良である。野良鹿、いや、野生の鹿がそこら辺を闊歩しているのである。爆音の車もものともせず道路を歩いている。で、階段での撮影の時、たまたま、そばで佇む鹿がいて、良い感じに映り込んでくれた。
ここから奈良国立博物館に移動し、どうやら当時からその博物館はあったらしい。奈良国立博物館の沿革については以下をどうぞ。
https://www.narahaku.go.jp/about/
とにかく奈良は国宝だらけで、そこら辺に国宝があるもんだから、国宝なんて珍しくない。みんな国宝を背に散歩したり通学通勤したり、日々の風景を見たりしているわけである。国宝のありがたみがあんまり感じられなくなるんじゃないだろうか。
てなことを心配しながら、最後の撮影地は法隆寺。法隆寺の中の方は、けんもほろろに撮影を断られたらしく、とりあえず法隆寺の見えるところで撮影。修学旅行で来たなぁ。薬師寺の坊さんは「薬師寺は屋根が六つで三重塔」とか言ってたっけなぁ、などと思い出しながらそこで撮影終了となり。いろいろと後片付けをして、着替えて京都駅へ。めでたく賢治の旅は終了となった。
新幹線のホームから見えた京都劇場。京都駅には観光客がたくさんいて、外国人もだいぶ戻ってきているようだった。柿の葉寿司なんかを買ってもらって、車内でお昼。観光地を巡ったがまったく観光しないという弾丸ツアーであった。
昼食はカレーを食ったのだが、建物の中が暑かったので、外のテラスで食す。ADの彼が気を遣って、一緒に外で食べてくれた。彼はオーストラリアハーフで、留学というか大学を1年休学してオーストラリアに行き、就職していたという。二重国籍をもっているから出来る技で、帰国後大学を卒業して新卒1年目だそうだ。
新卒とは思えないほど動きが良く、1年就職していたというのがなるほどと感じられる。
午後の1発目は、比叡山に向かう途中の山道。山道を歩き、延暦寺に向かうところだろうか。林道っぽいところを何度か歩いてOKとなり、延暦寺へ。
車で行くには有料道路を通らなくてはならない。昔小岩井に行く道路も有料だったが、今は無料だ。賢治が延暦寺に行った頃にあった建物はいくつか残っているらしい。国宝「根本中堂」は改修中で、シートがかかっている。そのため、撮影ポイントは、大講堂。
賢治がここを訪ねたという看板や石碑もある。
しみじみと風情の良い建物がたくさん。
この日の撮影は比叡山で終了し、一路今夜の宿、京阪グランデを目指す。
比叡山の有料道路は、帰りに全額を支払うシステムで、料金所で係の人が「普通車1700円、えーと、何人乗りですか?」と聞かれ、運転手さんが「11人乗りです」と答えた。すると料金所のおじさんは「あ、そうなると4000円です」とのこと。
一度1700円と聞いてからの4000円はどうしても高く感じる。まあそれはしょうがない。
ホテルのロビーは、ちょっと見たことがないというほどの混雑ぶりで、旅行支援などが始まった影響を強く感じた。
夕食は、なぜか屋上でやってるバーベキューで、8人のところ、7人分しかなかったのだが余ってしまった。なんか京都の人はバーベキュー好きらしい。と、奈良の撮影スタッフIさんが言っていた。さすがに盛岡では、この時期に夜の屋外バーベキューを楽しめない。いや、楽しむ人もいるだろうけど寒い。
部屋でテレビを見ていると、この日は京都三大祭りの一つ「時代祭り」というのをやっていたそうである。寡聞にして知らない。京都三大祭りというのも聞いたことがない。とはいうものの、京都あたりの人が盛岡のさんさ踊りを知ってるかというと、多分知らないだろう。まあ、そんなお祭りがあったために混雑っぷりがとんでもなかったのだろう。
三大祭りの他はというと「葵祭り」「祇園祭り」だという。さすがに祇園祭りは知っているが、葵祭りは聞いたことがなかった。
明日も朝は早い。(まだ続く)