ヨハネ18章12-18節から、ペテロの失敗を通して学んだこと
ペテロは、やる気があり熱心であったが、やり過ぎて失敗していた。
- 大祭司の耳を切り落とすまでする必要はなかった。大祭司の家に連れて行かれたとき、耳を切られた親戚の人から、イエスの弟子だと見破られて、「ちがいます」という否定の言葉を発する機会となってしまった。
- 大祭司の家にまでついて行く必要はなかったが、自分の思いでついて行った。ヨハネ13:36 イエスに付き従っているようであっても、自分なりの熱心からであって、実はイエスのみこころでない場合があります。それは結局、徒労、失敗に終わることが教えられました。自らを振り返りました。
- 私がサタンに振り回されているその時に、主は私の信仰がなくならないようにとわたしのためにも祈ってくださっています。ですから、今や立ち直っていますから、私自身の経験を用いて、兄弟姉妹たちを力づけ励ますことができるようにと、主が益としてくださることを信じて委ねます。
- ペテロは、無理して大祭司の館の中庭まで入って行く必要はなかった。あとのことは大祭司の知り合いだという弟子に任せて、彼からの報告を待つという方法もあった。聖霊に満たされた後、急激に人数の増えた教会をリードしていくためには、責任を仲間に任せたり、委ねたりして、全体をリードしていく方向に成長していくための良い経験になったことだろう。
- 当時はイエスに三年半付き従って来ていたが、聖霊の満たしを受けていなかったので、その意味では、ユダや、律法学者たちと同じように、イエスのことばを深く正しく理解することはできていなかった。クリスチャンホームの子供達も、親に連れられて、ただ楽しいからという理由で教会に何年も通って来ている。はっきり悔い改めて、聖霊に満たされる経験ができるようにと祈り求めます。
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