へブル人への手紙の主題は12章2節「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」と言われる。イエス・キリストを救い主、主と受け入れて回心をした後、成長していないで、起こってきた迫害や問題に耐えられなくなって、信仰を捨てるる人や、それまで慣れ親しんできたユダヤ教に戻ろうという人たちがいたので、どんなにかイエス・キリストは優れているかを書いて、信仰にとどまるように、この手紙では勧められている。
私自身も、問題、困難に押しつぶされそうな時、過去を振り返って懐かしんだり、ネットなどで新しくて興味深いことに夢中になって、ああ、無駄に時間を使ってしまっていた!!と思うことがある。
コロナの影響で、家庭の中で、ネット配信しているパソコンの前で礼拝する機会が多くなった。そんな時の礼拝では、賛美に力が入らず、つい机から離れて何かをすることがあったりして集中できない。
主は時も場所も越えて臨在する全知全能の神であることを忘れていることがある。自分の弱さをつくづく知った。会堂に入れる人は説教者と奉仕者等の小人数に制限されているので、私は、教会の中の人の少ない部屋を捜して礼拝するようにしている。
へブル人への手紙12章25節 語っておられる方を拒まないように注意しなさい。
説教者が、ベラベラと神のことばをしゃべり続ける時、聞くのが面倒くさくなったり、自分の罪が示されて苦しくなってそれ以上は聞きたくないというような思いになることもある。顔は説教者に向けて、目は聖書やノートを見ているが、心の中では、神様を、語られる言葉を拒んでことになる。注意しなさいと、はっきりと警告がなされたと、私自身受けとめました。
なぜなら、地上においても、警告を与えた方を拒んだ彼らが処罰を免れることができなかったとすれば、
まして天から語って おられる方に背を向ける私達が、処罰を免れることができないのは当然ではありませんか。
出エジプトをしてきたイスラエル人たちは、何度も警告や指示、み告げが与えられたのに 拒み続けて、結局約束の地カナンに入ることができずに、荒野で死んでしまった。処罰を免れることはできなかった。
ましてや、それに比べたら、新約聖書の時代に生きている私達が、聖霊を通して天から語っておられる方に、自分から進んで脇を見たり、背を向けることを続けているなら、ますます、もっと処罰を免れることはできない。
たとい、「自分は死んだら天国だ」と喜んでいても、実は滅びに向かっていたということになってしまいかねない。
今は、神が与えた信仰の試練、訓練、成長のための恵みの時。
ステイホームで、神のことばを謙遜に、真剣に聞いて、信頼して従っているなら、大いなる祝福、報い、平安が与えらることを喜ぼう。
ステイホームで、神のことばを謙遜に、真剣に聞いて、信頼して従っているなら、大いなる祝福、報い、平安が与えらることを喜ぼう。
コロナが終息した時、信仰が形骸化してしまっているとか、教会から離れてしまったという人が出るのではなく、かえって、ますます深く、神様を賛美し礼拝する群れとなって成長しているのを楽しみにします。
12章25節から始まる一塊のメッセージは、
29節 私たちの神は焼き尽くす火です
に向かっています。
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