会津天王寺通信

ジャンルにこだわらず、僧侶として日々感じたことを綴ってみます。

「蔵俊撰『仏性論文集』の研究」楠淳證・船田淳一編を読む 柴田聖寛

2019-11-21 14:11:09 | 読書

最澄との論争に一石投じる徳一の『教授末学章』

 「蔵俊撰『仏性論文集』の研究」という題名なので難しく思えますが、『仏性論文集』は平安末期の唯識の学僧であった蔵俊が撰述し、その法孫であった貞慶が書写したものです。なぜ大きな話題になっているかといえば、楠淳證氏が「序辞」で述べているように、そこに「神昉撰『種姓差別集』、徳一撰『教授末学章』『中辺義鏡章』『法相了義灯』、源信撰『一乗要決』の「奥記」、著者不明『天台宗要義』等の散逸文献が多々集録されており、きわめて貴重である」からです。
 とくに楠氏は、徳一撰の文献については「最澄との間でなされた一三権実論争の折りに執筆された未確認文献と考えられるから、従来の一三権実論争に対しても一石を投じる貴重な文献であるといってよい」と指摘しています。吉田慈順氏が担当した「『訳者真諦加増説』の検証」と「『訳者真諦加増説』の結語」の節では、徳一の『教授末学章』などが訓読され、丁寧な解説文が付いています。そして、世に知られていなかった徳一の『教授末学章』が、最澄の『決権実論』の「山家問難」に引用されていることから、謎に包まれていた二人の論争の経過が明かになったのでした。
 特筆されるべきは吉田氏が「これが独立した一書として流通していたということは、徳一が最澄以外の読者を想定した上で論争に当たっていたことを示すものである。これは、徳一・最澄の論争を考える上での新たな視座であり、極めて貴重な情報であるといえよう」と見方を示したことです。
 徳一が会津で最澄に論戦を挑んだのは、一地方レベルの問題ではなく、法相宗全体のバックアップがあった可能性が見えてくるからです。都から遠く離れていようとも、全国的に知られた僧であった可能性が高いのです。

 書き写したのは貞慶

『仏性論文集』は、立命館大学アートリサーチセンター所蔵の「藤井永観文庫」のなかの一冊で、実際の題名は不明であり、世親作真諦訳の『仏性論』の文章を引用していることから、船田淳一氏は「第一章 蔵俊撰『仏性論文集』の書誌解題と歴史的位相」において「『仏性論』との混乱を避けるため、仮に『仏性論文集』の名称を用いることにした」と書いています。
 また、船田氏は「一部が欠如」していることに関しては、「焼失したと考えるのが自然であろう」との見方をしています。治承4年(1180)12月の平家による南都焼き討ちの直後に、貞慶が書き写したとみられているからです。
 さらに、『仏性論文集』を読み解くには、天台と法相の論争の歴史を知らなければなりません。船田氏はこの点についても触れています。平安初期の最澄と徳一の一三権実論争で終わったわけではなく、平安中期には天台の良源と法相の仲算による応和の諍論が再現し、それを受けて良源の弟子源信が、40年後に『一乗要決』を世に出したのです。これに対して平安末期(院政期)に批判姿勢を示したのが蔵俊であったというのです。
 そして、蔵俊が因明学の碩学であったことに着目したのでした。西洋的な定義では論理学にあたりますが、認識論や存在論も含まれるといわれます。天台では最澄が否定的であったこともあり、船田氏は、平安後期には天台の頼増が「因明は本来、小乗仏教に付属する学問であり、純粋なる大乗仏教国の日本には不必要である」と主張したことを取り上げ、「これが、自己を純大乗の一乗教とし、対する三乗教の法相宗を批判する、天台宗の形式化した論法とパラレルなものであることは明らかである」と断言したのでした。
 仏教が日本仏教化するにあたっては、そのような形式化は避けられず、そこから鎌倉仏教が生まれたのは確かですが、学問の世界においては、もう一度見直すことも大切なのだと思います。

世親の『仏性論』を解読した徳一

 あくまでも蔵俊撰『仏性論文集』は、世親の『仏性論』を論じたものですから、当然のごとく『仏性論』の本当の書き手は誰かということも問題になります。最澄が徳一を攻撃する材料につかったのは、世親の『仏性論』では「悉有仏性義」が説かれているにもかかわらず、唯識の根本思想を徳一は理解していない、との批判でした。
 それを深掘りするために、楠氏は「第二章蔵俊撰『仏性論文集』の思想的特色」において『仏性論』を問題にした木村泰賢、月輪賢隆、坂本幸男、服部正明といった各氏が論文で発表した、作者が世親以外の可能性、世親の二面性、真諦が加増、真諦が書いたという説に言及しています。
 楠氏がそれらの説をこだわったのは、徳一の散逸文献である『法相了義灯』では真諦が加増したという立場に立っているからです。現代の仏教学者の意見を待つまでもなく、徳一は『仏性論』を通り一遍には読んでいなかったのです。
「然るに『仏性論』に<性有りという者を了説と為す>と云うは、此れ真諦法師の増語にして、論王(世親)の意には非ず。此の義は長遠なるが故に、暫く止む也」と書いていたのです。
 蔵俊も世親の思想とは違うということを、徳一を引き合いに出すことで「真諦の解して加うる所にして、論主の意には非ざることを」と断定したのでした。
 もう一つ法相の側で課題としてあったのは、『瑜伽師地論』を継承し、自らも『摂大乗論釈』で「無種性」の存在を説いていた世親が『仏性論』では、一転して「有性を了説、無性を不了説」と判じ「大乗の教えを信じない者を一闡提というのであり、彼らも自性清浄なので後には必ず清浄の法身を得る」という「有性了説論」を断じていたことです。
 徳一が最澄に問われたのはどのようにそれを解釈するかでした。蔵俊は徳一の『教授末学章』を引用します。無性(仏性をもたない)というのは、あくまでも善根を断じた無性有情(断善闡提)についてであって、これは成仏する可能性があるが、畢竟無性(畢竟闡提)のことではないと反論したからです。「会するに二義有り。一つには云わく、彼の『論』は断善闡提に拠りて了と不了とを判ず。畢竟闡提に拠りて了と不了とを判ずるには不ず。何となれば、若し教授有りて、<断善闡提に仏性有り>と説かば、是れを了説と名づく。若し教授有りて、<断善闡提に仏性なし>と説かば、是れを不了説と名づく」。
 それは徳一が編み出した思想ではなく、法相宗の開祖である慈恩大師基が『成唯識論掌中枢要』で述べていたことで、「断善闡提は元来『有性』であるから暫く成仏の因を断じていても後には必ず成仏するが、無性闡提は『畢竟闡提』であるから成仏することがない」と記されていたのでした。『仏性論』でも「自性清浄の心が(行仏性)がある限り後には必ず成仏する」と断言していますから、徳一はそれに一致するような考え方で反論したのです。
 最澄へのもう一つの反論は「理仏性」についてです。蔵俊は徳一撰の『中辺義鏡章』に依拠して「理仏性の有無に約して了・不了を判ずることを。行仏性には不ず」との文章を示したのでした。田村晃祐編の『最澄辞典』によれば、徳一の立場は「すべての者に具わっている真如(理仏性)について述べているのであって、修行して実際に悟るかどうかという点についてみると、成仏する者と成仏せざる者との差別がある」ということになります。蔵俊はそうした徳一の考え方を全面的に支持し、「有性をば了義と為し、無性をば不了義と為すというは、理仏性に約して説くが故なり」との一文を結語としたのです。

法相の「一乗融会思想」とは

 徳一の貴重な文献を読むことができるだけではなく、蔵俊撰『仏性論文集』を読み込むことで、平安時代末期の法相宗の新たな展開を予想させるものがあったのを、楠氏は見逃しませんでした。世親も護法も『法華経』を無視したわけではなかったからです。徳一を再評価するとともに、楠氏は「唯識正統論と一乗五姓融会論」の節で、その「一乗融会思想」の歴史的な意義についても詳しく述べています。
「天台宗は相即に偏している(一向相即)ので一乗しか説き得ないが、法相宗は不即不離の立場を取るので一乗も五姓も共に説く完全円備な教えであると主張することができるからである。だから『巧妙』なのである。以降、貞慶の一乗融会思想は法孫の良遍に受け継がれることになるが、その密なる発案がすでに蔵俊撰『仏性論文集』に見出せたこともまた、今回の研究の大きな成果の一つであったといってよいだろう」。
 天台の側からだけでなく、法相においても、日本仏教化への試みがあったことは、私にも大きな驚きでした。本格的に論文を書くだけの素養を私は持ち合わせてはいませんが、何度も何度も読み返すことで、自らの信仰心を打ち固めていきたいと思っています。とくに吉田慈順博士には敬意を表するものであります。

                          合掌


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