会津天王寺通信

ジャンルにこだわらず、僧侶として日々感じたことを綴ってみます。

伝御大師伝⑪伝教大師最澄と徳一の論争Ⅲ発端 柴田聖寛

2022-07-09 08:50:53 | 天台宗

 最澄と徳一の教理論争について、私なりに理解していくうえで、もっとも参考になるのは、田村晃裕先生の『最澄教学の研究』です。まずは田村先生の見方を導きの書として、そこに大竹晋訳の『現代語訳最澄全集五巻』(令和三年発刊)が手助けとなって、一歩一歩踏み出してみたいと思っています。        
 最初に田村先生は、この論争の研究の難しさに関して触れています。第一に、論争相手となった徳一の著作がすべて失われてしまっている。第二に、天台教学ばかりでなく、法相教学、涅槃教学など、幅広い基礎的仏教教学の知識が要求される。第三に、論争の中核をなしている『守護国界章』には、天台教学への誤解ないし、最澄の著作としては不可解な点が含まれている。
  徳一が書いたものが何一つ残っていないというのは、内容に深く立ち入るためには、困難があることを意味します。また、基礎的な仏教教学ということでは、私は叡山学院でその辺のことを少しは学びましたが、それを確認するためにも、私なりの解釈をしていくしかありません。足元に及びもつかないかもしれませんが、信仰があれば、必ずや目標を達成できると信じています。最澄が天台教学と異なっていたという視点は、ある意味では日本仏教化のためには避けては通れなかったのではないでしょうか。
 この論争の経過がどんなものであったのかが問題です。様々な見方があることを田村先生は紹介しているが、発端となったのは、大屋徳城(「平安朝における三大勢力の抗争と調和」)・塩入亮忠(「守護国界章解題」)・高橋富雄(『徳一と勝常寺』)説では最澄の法相宗批判であったとみるのに対して、薗田香融堯央(「最澄とその思想」)・木内堯(『伝教大師の生涯と思想』)説では徳一にあるとしています。
 大屋・塩入・高橋の説では、最澄の『憑依天台宗』がまずあって、それに徳一が応じたという考え方です。薗田・木内説は徳一が『仏性抄』が著わしたので、最澄が黙っていられなかったというのです。
 また、田村先生は、初期の最澄の作品として『守護国界章』を重視します。その論争を二つに分けて考えるからです。「『守護章』九巻は、最澄・徳一論争関係の著作の中でも、最も大部で包括的な著作であるばかりでなく、最澄著作としても最も確実なものの一つである点からも、著作の時期がほぼ確実な点や、また、批判対象となっている徳一の著書の名が『中辺義鏡』であると知られることからも、論争史研究の中核をなすべき書物である。しかも内容を検討してみると、論争初期のものであることが知られ、直接の論争書としては最初のものである『照権実鏡』(しょうごんじっきょう)が書かれた翌年の成立であり、この点からも先ず本書の研究から論争の経過についての検討を始めるのが最も適当であることが知られる」

       合掌

 

 


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