’00年代関西某所の宿に泊まった。 昭和30年代頃に建てられたような古い建物の宿だった。室内は薄暗く、昼間でも蛍光灯をつけなければならないような畳の部屋。洗面に行くと、昭和の香りがぷんぷんするタイル張りで、しかも狭い。風呂の窓からは、藻で緑色によどんだ沼が見える。日が翳ってくると、まるで水木しげるの世界のようだった。
夕飯の時間に階下の食堂に下りていくと、チェックインのときには気づかなかった犬がいた。よぼよぼしていて足を引きずっている。老犬なのか? ぺチャペチャと無心にえさに食らいついている。近づいていくと、犬が振り向いた。刹那ひるんだ。左目が白くにごっている。明らかに何も見えていない輝きのない眼だ。宿の主人によると、目の前の幹線道路に飛び出して、交通事故に遭ったという。
主人に食事を勧められる。テーブルからよく見えるところにここのお子さんがいて食事中だった。知的障害者で身体障害者でもある。今日採って来たという筍を供応してもらい、おいしいおいしいと食べていると、そのお子さんがうなりはじめた。ん~ん~、ん~ん~ん~、ん~ん~、ん~と際限なく重低音を響かせる。その不快さからお子さんから目を背けると、そこには犬の白くにごった眼があった。追い討ちをかけるように、耳障りな車の音。外を猛スピードで走り抜けていく爆音は、必然的に交通事故を連想させる。
部屋に戻ると、隣に誰か宿泊者が入ったようで、廊下にコンビニ袋に入ったごみが出されていた。わざわざ廊下に出すのはなぜ? 異臭を発する生ゴミなのか? 隣の得体の知れない客に不快感と気味悪さを感じながらも、早く寝ようと、明かりを消して布団にもぐりこんだ。ところが簡単には寝かせてくれなかった。蚊が耳元をぷ~んと不快な羽音を立てながら飛び始めたのだ。仕方なく飛び起きて明かりをつけ、部屋に常備されていたキンチョーのスプレーで退治した。裏に沼があれば、当然蚊は出てくる。
翌朝も足を引きずった犬の白濁した眼と知的障害者のうなり声におびえながら、食事となった。不気味で妖気ただよう、負のエネルギーに満ちた宿だった。ちなみにネットで調べると、いまは改装されてきれいになっている。私が泊まったころの建物を知るよすがはもうない。