目指せ! 標高1122メートル

山の神にお供して歩きつづける、ある山のぼら~の記録。ネイチャー、冒険の本もとりあげるよ。

小楢山

2011-06-28 | 山行~中央線沿線・大菩薩

小楢山 標高 1712.5m 山梨県

2004年6月5日(土) 晴れ

メンバー 山の神と私

コースタイム 8:10オーチャードヴィレッジフフ上の駐車場8:20--9:22母恋し道の樹林帯で休憩9:32--10:18小楢峠10:23--10:35小楢山山頂(昼食)11:33--11:45一杯水--12:25林道に出て休憩12:30--13:05駐車場

6:00近い時間に中央高速にあがると、混雑が始まりかけていた。ちょっと遅かったか。いつものように談合坂SAで朝食。勝沼ICで下りて、オーチャードヴィレッジフフを目指す。近くまで行くと案内板が出ていて、簡単に着けるものと安心していると道が細くなる。本当にこれでいいのかと心配になる頃、フフが現れる。人の心を手玉に取るか。

フフの上部にある駐車場には8:10に到着した。同じようなタイミングで到着した人が多く、駐車している車の傍らで身支度している人が何人もいた。

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左:オーチャードヴィレッジフフ上部の駐車場 右2点:休憩した樹林帯。生茶とウィダーの最強行動食コンビを抱える山の神

8:20駐車場からいざ出発。林道が延々と続く。木陰は心地よく通過できるのだが、木陰を出ると、容赦なく日差しが照りつける。あぢ~。母恋し道と父恋し道の分岐にさしかかると、団体が休憩していた。今日は登山者が多い。団体を尻目に母恋し道を先へと進み、樹林帯の適当なところで腰を下ろす。山の神はさっそく持ってきた生茶とウィダーでエネルギー充填だ。

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左:小楢峠 右:小楢山山頂。遠くに富士山

10:18小楢峠に到着。ここにも休憩する登山者がたまっている。人が多いので休憩もそこそこに腰を上げると、ほどなくして山頂に着いた。10:35。小楢山の標柱の向こうに富士山が見えている。いつ見ても、どこで見ても、このきれいな円錐形の山は絵になる。そのうち追い越してきた団体やパーティが続々と山頂にやってきて、たちまちにぎやかになる。

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小楢山山頂から見た富士山

富士山を見ながらの昼食後、下山開始だ。帰りはそのままピストンではつまらないので、焼山峠方向にいったん下り、一杯水経由で戻ることにした。 下り始めると、つつじの群落があって、緑の山に彩りを添えていた。また人がいなくなった分、今度はセミがけたたましく鳴き、虫の声や野鳥のさえずりと、森の中では大合唱が始まっていた。

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左:下山開始 右2点:一杯水

一杯水は山頂から目と鼻の先。日差しがさえぎられた森の中にそれはあった。山頂とは打って変わって人っ子ひとりいない。一杯水からはもう消化試合のようなもの。いっきに林道まで下って軽くお茶休憩をとり、13:05駐車場にたどりついた。

帰途、道の駅まきおかでアイスを食べてクールダウン。そのあとは、珍しく高速で渋滞に遭うこともなく、快適にドライブして帰宅となった。

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乾徳山

2011-06-26 | 山行~中央線沿線・大菩薩

001p6291428_2 乾徳山 標高 2016m 山梨県

2003年6月29日(日) うす曇りときどき晴れ 

メンバー 山の神と私

コースタイム 7:58登山口駐車場8:10--8:50銀晶水8:55--9:38錦晶水9:45--10:25扇平10:40--11:35乾徳山山頂(昼食)12:27--13:15休憩13:25--(14:05高原ヒュッテ)--14:10錦晶水14:20--14:50銀晶水14:55--15:25駐車場

5:00起き。いつものように談合坂SAで朝食をとる。大月あたりまで小雨がぱらついていたが、勝沼に抜けると予報どおり晴れで、絶好の山日和になってきた。8:00ちょっと前に乾徳山の限りなくただの空き地に見える駐車場に着いた。そこにはなんで?という車が1台停まっていた。真っ赤なポルシェ。山口百恵でも来てるのか?んなわけはない。山の神はさも自分が乗ってきたように、ポルシェの前でポーズをとった。

8:10林道を歩きはじめる。今日の登山者は多そうだ。この駐車台数、そしてすぐ後ろからは3人組も登ってくる。

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左:涸れかかっている銀晶水 右:錦晶水

暗い樹林帯を進んでいき、8:50銀晶水に着いた。ちょっと蒸し暑い。歩き始めて40分くらいでまだ休憩には早いものの、銀晶水の表示を見たらちょっと飲みたくなって5分間休憩。下のほうからひぐらしの声が聞こえてくる。

9:38今度は錦晶水に到着。銀より錦のほうがうまいのか、金じゃなくて、なぜ錦なのか、とか素朴な疑問が湧くが、まあ、名前なんてものは、誰かがそう呼んで、また次の誰かがそう呼ぶとだんだんその呼び名が定着していくもので、漢字は当て字だったりするから、よくわからないのが常だ。だから錦晶水だって、「綿晶水」と書いた木切れと差し換えとおけば、いずれ「めんしょうすい」と呼ばれるようになるというもんだ(ホンマか?)。でも味のほうは、何となく標高があるほうがより澄んでいて格上に思える。
ここには簡素な小屋があり、トイレもある。

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扇平

だいぶ高度を上げてきた。10:25レンゲツツジが咲き乱れている扇平に到着した。と書いてもつつじが写ってないじゃないかとツッコミがきそうだが、山の神の正対している方向につつじの群生地があった。あいにくガスが上がってきて、真っ白だった。

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左2点鎖場渋滞。山の神にもやっと順番が 右:乾徳山山頂

いくつか鎖場を越えていくと、頂上直下の天狗岩の鎖場にたどりつく。登山者で渋滞していた。前の人が登りきらないと、次の人が鎖に手をかけられない。前の方々が登っていくのを眺めて、しばし休憩だ。そのうち後ろからも登ってきて渋滞は長くなる。自分の順番が来ると、早く登りきらなければとプレッシャーがかかる。こういうのってヤダよね。下からは先ほどまで私がしていたように、じっと見ているわけだし。

11:35乾徳山登頂。記念撮影も順番待ちとなる。入れ替わり立ちかわり、乾徳山の標柱の前でシャッター音が響く。われわれも近くに居合わせた方にお願いして、パチリと。

山頂はいつの間にやら、完全に白くガスで閉ざされてしまっていた。展望はいっさいなし。本来なら、金峰山、南アルプス、その後ろに富士山、そして大菩薩の峰々が見渡せるはずだったのだが。

ごろごろと岩が積み重なった山頂で昼食にする。狭い山頂に登山者があふれ、思い思いにここならという場所をキープしているから、もう立錐の余地もないといった感じだ。どうせ展望もないので、隅っこにいく。

004p6291440 山頂直下の道標。ここから迂回新道へ

12:27下山開始。迂回新道をたどることにする。斜度のある足場の悪いガレ場が続き、気が抜けない。途中10分ほど休憩して、先へ先へと進む。一見してボロボロに荒廃した高原ヒュッテを通過すると、国師原で往路と合わさる。

14:10錦晶水で再び休憩する。高度が下がってくると、だんだん蒸し暑く感じてきた。暑いとバテる。銀晶水でも休憩をとり、水分を補給する。下山は15:25。結構な疲労感だ。

帰途は、国道140号から川沿いにちょっと下ったところにある白龍閣で汗を流す。大人¥500。ちょっと混雑していたが、湯船は大きいので苦にはならない。温泉の後は国道沿いで中華を食べ、高速にあがった。渋滞は19Km。夜、家にたどりついたころには久々のロングウォークでグロッキー(死語!?)だった。

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アラスカ物語

2011-06-25 | 山・ネイチャー・冒険・探検の本

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まさにモーゼに擬せられる行為。「アラスカのモーゼ」と呼ばれたフランク安田は、イヌイットたちを引き連れて、アラスカの沿岸部から内陸部への大移動を成功させた。この物語の核心部だ。こんな日本人がいたことなど、この本を手に取るまでは、まったく知らなかった。

主人公の安田恭輔(フランク安田)は、裕福な医者の家系に生まれながらも、15歳にして両親を失い、不遇をかこって単身アメリカにわたる決意をする。彼は彼なりに自分の前途をアメリカにかけたのだろう。しかし彼の前には幾多の苦難や試練が待ち受けていた。

まずこの小説の冒頭に出てくる、沿岸警備船ベアー号の遭難事故のエピソードは驚くばかりだ。アラスカ北部で氷に閉じ込められ、身動きがとれなくなり、誰かが救援を呼びに行かなければならない。その役目をフランク安田が買って出る。人種差別という特別な事情もあったが、彼の行動は真摯かつ献身的だった。イヌイットの助力もあって約200Kmの長旅を完遂し、最寄の街ポートバローにたどりつく。この命がけの氷上横断は冒険家植村直己さんの北極行以上だろう。

このときに知り合ったイヌイットとの縁が彼の人生を変える。フランク安田は、彼らの村に溶け込み結婚もして、永住を決意する。順風満帆に見えた生活もつかの間、疫病が蔓延し死者が続出する。また環境の変化で食糧のアザラシがとれなくなってしまう。状況が暗転していくなかでの彼の決断は早かった。将来有望な移住地を探して、アラスカの内陸部へと出発するのだ。内陸部ではゴールドラッシュに沸いていて、金鉱探しにも手を染める。そして砂金を見つけてしまう。

その砂金発見場所の近くに、新たにイヌイットの村をつくる壮大な画を描く。だがその土地の周辺には、もともとイヌイットとは仲が悪いインディアンが住んでいた。彼らと粘り強く交渉し、土地使用の権利を得たのち、イヌイットの村に戻って、皆を引き連れての大移動となる。困難を極めた徒歩での大移動が終わっても息は抜けない。一からの村づくりが待っていた。家も道路も畑も工場も何もないのだから。

そのうち第2次大戦が始まると、フランクは強制収容所に入れられるという試練にあう。戦後収容所から出ると、今度はビーバーの毛皮をビジネスにつなげ、生活の基盤づくりに精を出す。まさにリーダーとしての政治家的な部分と、商魂たくましい優秀なビジネスマンとしての部分をあわせもったスーパーマン、一人で八面六臂の大活躍をした人物なのだ。こんな日本人がいたとは、信じがたいが、この小説に書かれたことは事実をもとにしている。現代にもこんな日本人はいるのだろうか。あるいは登場してくるのだろうか。

アラスカ物語 (新潮文庫)
クリエーター情報なし
新潮社
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鈴ヶ岳

2011-06-22 | 山行~上州

000img_4903_2鈴ヶ岳 標高 1564.7m 群馬県

2011年6月19日(日) 曇&霧

メンバー 山の神と私

コースタイム 8:50頃 赤城山総合観光案内所駐車場9:06--9:39姥子山--9:50鍬柄(くわがら)山10:00--(大ダオ)--10:38鈴ヶ岳山頂(昼食)11:05--11:16重箱岩--11:35大ダオ--11:57鍬柄山12:07--12:35赤城白樺牧場--12:50駐車場

ツツジ見物に赤城山を再訪した。前回は荒山と鍋割山でツツジを堪能したのであるが、今回は鈴ヶ岳だ。天候はあいにくで、常に白くガスっていた。そのおかげで、だいぶ涼しくて助かったのだが。

本日が「高速道路休日どこまで走っても¥1,000」の最終日。大混雑を覚悟していたが、案に相違して、それほどでもない。でも、赤城山の人出は半端じゃなかった。8:50頃まず最初の駐車場に到着したのだが、すでに満杯で移動を余儀なくされた。次に赤城山総合観光案内所の駐車場に行き、ちょうど目の前で1台お帰りになったスペースに車を入れることができた。

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左:赤城山総合観光案内所に隣接した駐車場 右:赤城白樺牧場

観光案内所隣に公衆トイレがある。入り口にはサラサドウダンが植わっていて満開だった(冒頭の写真はサラサドウダンだが、山中で撮ったもの)。さて、そのトイレに寄って9:06スタート。赤城白樺牧場の柵沿いに歩いていく。すでに三脚を立てた人たちが大勢いて、カメラの放列。芸能人の代わりにツツジがオレンジの色で牧場を染め上げている。すごい!このツツジの存在感。

牧場の端に鈴ヶ岳の登山口がある。樹林帯に入っても、そこここでツツジが花を咲かせていて、華やかだ。いっぽうで曇天で薄暗いせいか、ヒグラシがひっきりなしに鳴いている。

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右:姥子山からの展望

初心者コースと書かれていた、なだらかな斜面を上っていくと、ほどなくして姥子山に着く。木が生えていない開けたほうに進むと、ちょっとした展望を楽しめる。ここには一見、山桜かと思われたズミ(たぶん)が白い花を咲かせていた。

001img_4875 鍬柄山から大沼、黒檜山

年配のグループを追い越し、鍬柄山に9:50到着。狭い山頂ながら、一大展望地である。大沼(おの)、そして雲に覆われていたが、黒檜(くろび)山が見えた。ここにもおいでなすった、オレンジのツツジ。

鍬柄山からは、いっきに下りとなる。せっかく登ったのにねえ。ちょっと滑りやすいところもあって、足元に注意だ。山の神が帰りはこんなところを登り返すのかとこぼす。大ダオまで下れば、そこからは急な上りが待っている。半分くらい上ると、ごろごろした岩場地帯になり、三点支持で登らなければならない所が多々出てくる。

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左:鈴ヶ岳山頂 右2点:重箱岩

10:38鈴ヶ岳山頂に到着。 誰もいない。下りていく何人かとすれ違ったのだが、誰もいないとは。でもそれもつかの間、大ダオで追い抜いた年配者の集団が上がってきて、たちまちにぎやかになる。われわれは小腹が空いていたので、早々に昼飯にした。ハエや蜂、虻が集まってくるから、火を使わずにそそくさと、おにぎり&おしんこのシンプルバージョンの昼食を腹に収めた。展望はいっさいないので、まったくもってつまらない山頂だ。もともとここは、修験道の一角らしく、山頂の大きな石碑をはじめとして、やたらと石碑が多い。山頂直下にもいくつかある。

帰りはピストンで来た道を戻ったが、大ダオ手前で重箱岩に寄り道した。急斜面をだいぶ下っていく。まだかまだかと言っているうちに、それらしきものを発見した。重箱岩との表示は何もないから、見落とす恐れありだ。くりぬかれたように見えるこの岩、まるで窓のように向こうの景色が見える。ふと京都鷹ヶ峰の禅寺源光庵を思い出した。方形の「迷いの窓」、そして円形の「悟りの窓」がこの寺にはある。迷いの窓を覗いてしまったのか!

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鈴ヶ岳の登山道に戻り下り始めると、来るわ来るわ、ひっきりなしに登山者とすれ違う。後ろからにぎやかな声が聞こえてくると思えば、20代の若者グループ。やにわに追いつき、文字通り脱兎のごとく追い越していった。

12:35牧場に到着。朝は留守だった牛さんたちが有閑マダムのごとく優雅に横たわっていて、口をもぐもぐしていた。背中にスターを背負った牛さんもいて、何かラッキーなことがと期待してしまう山の神と私なのであった。

005img_4913 一瞬晴れ間が

牧場の牛に気をとられているうちに、晴れ間が見える。ツツジのオレンジとブルースカイは合いますな。観光案内所に戻り、抹茶とバニラのミックスソフトを食べる。ちょっと高くて¥350。半袖でいたのだが、ちょっと肌寒いくらいで、景色を見ながら食べているうちに鳥肌が立ってきた。

13:10すぎ帰途につく。途中、風ラインふじみという農産物直売所によって、野菜を大量に仕入れた。キャベツ¥70は安すぎだ。帰りの関越はそれほど混まず、比較的スムーズだった。スター牛のご利益に感謝。

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ヒマラヤのドン・キホーテ

2011-06-18 | 山・ネイチャー・冒険・探検の本

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冒頭いきなりネパールの政治の話から入り、思い切り「引く」。論文調で、「ネパール政治学」の本かと思ってしまう。そのものズバリ言ってしまうと、本の構成や内容が今イチだ。筆者が把握している内容が乏しくて書けなくなって、宮原氏との対談を途中に差し込んで、間をもたせようとする。ここで内容が重複する。それが繰り返される。もっと整理して書けば、こんな迷路に入り込まずに済んだと思うが、どうなんだろう。

もっと宮原氏の業績や人となりをきちんと書いてほしかった。読売新聞の書評を読んだのがきっかけで興味をもって読み始めたのだが、裏切られた思いが強い。版元が読売の子会社である中央公論だから、この書評は手前みそということか。でも、辛抱強く読めば、宮原氏が今まで何をしてきたのか、ネパールにどんな足跡を残してきたのか、そしてなぜ政治に魅入られ、日本国籍を捨ててまでも、ネパール国籍を取得するに到ったのか、なんとなくだが了解できる。

宮原氏は、若いときは探検に明け暮れていたようだ。この本では一言で片付けてしまっているが、冬季の間宮海峡、中央アジア、東南アジア、アフリカ、ヨーロッパ、北米、南米を訪れている。ほかにも南極越冬隊に参加したり、グリーンランド探検を試みている。この若いときの体験が視野を日本から世界へと広げ、挙句の果てに、もっとも身近に感じていたヒマラヤの山懐、ネパールへと魂は飛んでいくことになるのだ。

ネパールで何をしたか。もっとも大きな仕事は、環境に配慮したホテルエベレストビューを1971年に開業したことだ。今は当たり前のようにエコが叫ばれ、環境アセスメントのうえにホテルを建設するが、この当時では、コストに抗えないのが普通だった。それを成し遂げる馬力と自分の信念を貫き通す強い意志には脱帽する。ホテルの次は、トレッキングツアーを始める。ネパールの魅力を世界に喧伝しはじめたのだ。

驚くべきは、還暦時に念願のエベレスト登山を敢行したことだ。顛末は本として出版されている(『還暦のエベレスト』)。幾多のトレーニングを自分に課し、自分で納得のできる十分な準備をして臨んだのであったが、山頂直下で視力が極度に落ちて登頂は断念する。決断即実行のアクティブな人であることが、このエピソードからもわかる。

60歳代になって、ネパールの政治的混乱、腐敗、そして無軌道な都市開発による自然破壊を憂い、政治家を志すことになる。政治家になるためには当然ながらネパール国籍が必要であり、日本国籍を捨てることになる。それをもって、ネパールのドン・キホーテと呼ばれるようになるのだが、なんと呼ばれようが、氏の志は固い。

観光開発を軸にした国土開発や、地方行政の区割変更を政策に掲げる。その概要をみる分には、非常に理路整然としていてうまく機能しそうに思えるのだが、なにせ国民の教育レベルは低く、識字率も低い。だからその政策は、まったく浸透していないのが実情だ。仮に理解できても、ネパール国民は目先の利益に走る、見た目の格好よさに安易に走るから、このような実現できるかどうかわからない雲をつかむような壮大な政策は支持されないのだ。

でも、逆境にあってもあきらめない宮原氏の政治闘争はこれからも続いていくのだろう。

ヒマラヤのドン・キホーテ―ネパール人になった日本人・宮原巍の挑戦
クリエーター情報なし
中央公論新社
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