セカンドライフ 

歳を重ねるのも悪くはない

日野原重明氏 100歳 10/4

2011-10-06 | セカンドライフ
日野原重明(ヒノハラシゲアキ)氏 1911年10月4日生 満100歳
聖路加国際病院理事長はお見事に一世紀を生き抜かれている。

メールでヨリモ(読売新聞)から入った内容を抜粋でUPさせて頂きますネ。

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【100年間の人生で一番つらかったこと、驚いたこと】

 私は10/4で満100歳を迎えました。日本人の平均寿命は、男子は約80歳、女子は約86歳ですが、私は男子の平均値に比べると、20年も長生きしていることになります。

 人生の険しい坂を上ったところが、息が切れて倒れるというのに、私はそれより先20年も
長生きしました。しかも現在の体力や精神力では、まだこれから10年先のことを考え、その
バーをも何とか乗り越えたいという意欲を持っている今の私です。

 その私の思いを皆さんに公開しようと思います。

◎つらかったこと 外科医の夢を断念

 私が京都大学医学部の2年に進級の直前、肺結核と左側結核性胸膜炎のために1ℓの
滲出液を貯め、38度の高熱が6か月も続いたことです。結核の特効薬がまだ使えない時代
だったので、6か月間も絶対安静を医師から命ぜられました。
食欲もなく、夜の不眠に悩みました。

強気の性格の私で、クラスの友人のトップを走りたいとの野望がかなわなかった自分は
世の中で最も不幸な人間だと感じていました。

 1年後に、同級生より1年遅れて次の年度のクラスに入り、何とか医学部を卒業する事が
できましたが、最初に志した外科医になろうという目標は、体力のない自分には不可能と
されました。この青春時代の逆境は、誠に苦しかったことを告白します。

◎驚いたこと よど号事件の人質に

 私が58歳の時、福岡で日本内科学会が開催されるというので、前日の朝一番の日航機で
羽田空港を経ち、富士山の噴火口を真下に見たとき、赤軍派一行9名がハイジャックを宣言し
機長に北朝鮮の平壌に行けと命じました。よど号はいったんは福岡の板付空港に着陸し
老人と子どもだけが降ろされましたが、あとの100人ほどは両手を麻縄でしばられ
飲み物もなく、朝鮮海峡上空をピョンヤンに向かったのです。

 よど号の機長は赤軍をだまし、「ここは平壌」と言って韓国の金浦空港に着陸しました。
赤軍派はだまされたことを怒り、いったん開けたドアを閉じ、韓国政府と談判したあげく
日本から山村新次郎議員を人質としてピョンヤンへ。ここで乗客は3泊44日の機内の拘束が
解かれて、金浦空港の土を踏むことができたのです。

 この死の危機、不安、恐れは大きかったのですが、解放された歓びは絶大でした。
私はこの経験から、60歳からの我が身を人々のために献身することを自ら誓いました。
許された私の第二の人生は歓びであり、私にとっての最大の感謝でした。

以下略<(_ _)>