私は毎日の通勤路がお花見コースなので、ことさらに花見に行こうとは思わない
マア、休みの日に出かけるのが億劫なだけですが・・・
そこへ行くと女房殿は元気印、”無駄に元気”と言う感じもしますが、自転車に乗って市内の公園へ出かけました。
そこには数百本の桜があるらしいし、途中には小さな公園ですが大きな桜が10本ほど咲いている公園もある。
もしも、重箱にお弁当でも詰めてあって、「お花見に行こう」と言われれば「花よりダンゴ」で、ふらふらとついていくかも知れませんが、長年連れ添ったとは言うものの過去に一度もなかった。
してみると、重箱なんか用意したら”ついてきてしまう”から用意しなかったとも考えられる・・・と、なると「出不精なんだから」と批難されたり、哂われたりしながらもネット碁を打っているほうが無難らしい。
そういうことで今朝はバアサマは公園へ花見、ジイサマは近くのコミュニティ図書館へとなったのです。
今日借りたのは
「李昌鎬流3 中盤の絶対感覚」 李昌鎬 2006年10月
本当言うと「絶対」と言う文字にはアレルギーがあります。
アマ・ザルのアレルギーですから、食わず嫌いみたいなものですが、それでも「絶対」という強い言葉が、何処か心をざらつかせるような気がします。
それは囲碁の真理と言うか理論だとか、そういうものへの反発と言うより、子供時代からの持って生まれた性格のようです。
昔は、学校でも家庭でも、躾みたいなものに理屈など無かった。
親がこうしろ、先生がああしろと言えば、その通りやって当たり前ですから、守らなければひっぱたかれるのを覚悟して反発・無視するしか無かった。
いつの間にか民主的に、懇切丁寧に理由を説明する時代になったし、反論も許される
・・・ところが最近、どこかで知ったのですが昔風の考え方が見直されているような気がします。
勿論全面的な見直しではなくて、部分的であり、しかも自分の頭の中だけでではありますが・・・「やってはいけないことはやってはいけない。やらなくてはいけないことはやらなくてはいけない」
見かたを変えれば問答無用の世界みたいではありますが、しかし全てのことを説明すること自体が物事を複雑にしていることもありそうなので、解説・説明が必要なことと”自明”で済ませることの区別が難しいでしょうね。
さて中盤の絶対感覚
絶対と言うからには基本中の基本で、プロが10人居ても10人とも同じところを指差すような感覚でしょうね。
少し皮肉な言い方をすると、それならば○○のというネーミングが・・・
マア李さんから、基本の考え方としての教えではあるに違いない。
この本での基本的な教えは第1章の戦いの基本・三つの鉄則でしょう
鉄則1、弱い石を作るな
鉄則2、厚みを活用する
鉄則3、効率よく地を作る
当たり前といえば当たり前、しかも「先生、そうは言いますが鉄則に反しても行かなければいけないときもあるでしょう?」などと言いかねない。
こういうところが、民主教育の成果というか天邪鬼的な性格と言うか・・・
もしも、先生が右を向けと言われたら、何も考えずに右を向く性格の方が早く強くなれるような気もする。
それに、ある程度の水準になるまでは、寧ろ先生に質問攻めをする方が自分に弊害があるような気もする。
尤も著者である先生も絶対感覚である理由を説明しているのですから、アマは手を取って、噛んで含めて教えないと・・・それでも。
もしプロ修行なら、絶対感覚が問われるところでは、「ある局面でどう打つか」という設問があって、その答えに対して○か×だけのような気がします。
アマ向けの本では、それではあまりにもそっけないし、先生が何を言いたいのか読者であるアマは理解できないだろうし・・・それでは本は売れないだろうし。
絶対感覚=理屈抜きの考え方・方針を説明するというのはなんだか皮肉な感じはしますが・・・
何も考えなくても、第1感で浮かぶ手が重要なんでしょう。
それを、理由付けをして記憶に留め、整理しておくことも大事かも・・・
少なくとも「何が間違いだったのか」「何処で間違ったのか」が分かることが大事なんでしょうね・・・それが分かれば苦労は無いし・・・事前に分かれば上達間違いないのですが。
マア、休みの日に出かけるのが億劫なだけですが・・・
そこへ行くと女房殿は元気印、”無駄に元気”と言う感じもしますが、自転車に乗って市内の公園へ出かけました。
そこには数百本の桜があるらしいし、途中には小さな公園ですが大きな桜が10本ほど咲いている公園もある。
もしも、重箱にお弁当でも詰めてあって、「お花見に行こう」と言われれば「花よりダンゴ」で、ふらふらとついていくかも知れませんが、長年連れ添ったとは言うものの過去に一度もなかった。
してみると、重箱なんか用意したら”ついてきてしまう”から用意しなかったとも考えられる・・・と、なると「出不精なんだから」と批難されたり、哂われたりしながらもネット碁を打っているほうが無難らしい。
そういうことで今朝はバアサマは公園へ花見、ジイサマは近くのコミュニティ図書館へとなったのです。
今日借りたのは
「李昌鎬流3 中盤の絶対感覚」 李昌鎬 2006年10月
本当言うと「絶対」と言う文字にはアレルギーがあります。
アマ・ザルのアレルギーですから、食わず嫌いみたいなものですが、それでも「絶対」という強い言葉が、何処か心をざらつかせるような気がします。
それは囲碁の真理と言うか理論だとか、そういうものへの反発と言うより、子供時代からの持って生まれた性格のようです。
昔は、学校でも家庭でも、躾みたいなものに理屈など無かった。
親がこうしろ、先生がああしろと言えば、その通りやって当たり前ですから、守らなければひっぱたかれるのを覚悟して反発・無視するしか無かった。
いつの間にか民主的に、懇切丁寧に理由を説明する時代になったし、反論も許される
・・・ところが最近、どこかで知ったのですが昔風の考え方が見直されているような気がします。
勿論全面的な見直しではなくて、部分的であり、しかも自分の頭の中だけでではありますが・・・「やってはいけないことはやってはいけない。やらなくてはいけないことはやらなくてはいけない」
見かたを変えれば問答無用の世界みたいではありますが、しかし全てのことを説明すること自体が物事を複雑にしていることもありそうなので、解説・説明が必要なことと”自明”で済ませることの区別が難しいでしょうね。
さて中盤の絶対感覚
絶対と言うからには基本中の基本で、プロが10人居ても10人とも同じところを指差すような感覚でしょうね。
少し皮肉な言い方をすると、それならば○○のというネーミングが・・・
マア李さんから、基本の考え方としての教えではあるに違いない。
この本での基本的な教えは第1章の戦いの基本・三つの鉄則でしょう
鉄則1、弱い石を作るな
鉄則2、厚みを活用する
鉄則3、効率よく地を作る
当たり前といえば当たり前、しかも「先生、そうは言いますが鉄則に反しても行かなければいけないときもあるでしょう?」などと言いかねない。
こういうところが、民主教育の成果というか天邪鬼的な性格と言うか・・・
もしも、先生が右を向けと言われたら、何も考えずに右を向く性格の方が早く強くなれるような気もする。
それに、ある程度の水準になるまでは、寧ろ先生に質問攻めをする方が自分に弊害があるような気もする。
尤も著者である先生も絶対感覚である理由を説明しているのですから、アマは手を取って、噛んで含めて教えないと・・・それでも。
もしプロ修行なら、絶対感覚が問われるところでは、「ある局面でどう打つか」という設問があって、その答えに対して○か×だけのような気がします。
アマ向けの本では、それではあまりにもそっけないし、先生が何を言いたいのか読者であるアマは理解できないだろうし・・・それでは本は売れないだろうし。
絶対感覚=理屈抜きの考え方・方針を説明するというのはなんだか皮肉な感じはしますが・・・
何も考えなくても、第1感で浮かぶ手が重要なんでしょう。
それを、理由付けをして記憶に留め、整理しておくことも大事かも・・・
少なくとも「何が間違いだったのか」「何処で間違ったのか」が分かることが大事なんでしょうね・・・それが分かれば苦労は無いし・・・事前に分かれば上達間違いないのですが。