昔トルコについての本を読んだことがありまして、建国の父アタチュルク、クルド族の他に宗教に関することが記憶に残っています。
それは一般的にイスラム圏に共通することかもしれませんが、入国に際しては信じる宗教について質問されるのだそうです。
この辺りは日本人的感覚からは違和感があります。
日本では宗教の自由と言う事で、何教を信じようが非合法でない限り関係ないから、宗教を問われることは無いでしょう。
それでも大部分の日本人はお寺での葬儀となると思いますが、自分は仏教徒だと思っている人は少ないでしょうね。
灌仏会には無関心でもクリスマスはやるし、結婚式は神前もしくはホテルのチャペルで、神社の夏祭りも秋の収穫祭もあるし・・・行事がいろんな宗教の分業、それなのに自分は無宗教だと思っているので、外国の入管の質問には「無宗教」と答えるに違いない。
すると軽蔑された冷たい視線に晒されることになるのだそうです。
イスラム圏ですから最上位はイスラム教徒であるのは間違いないが、第2位に属するのは異教徒であっても何らかの宗教を信じる人だそうで、無宗教はイヌ・ネコ並みなのだそうです。
そういうことで、堂々と自分は無宗教であると言えると言うことも日本的なのかもしれません。
でも宗教では無くて信心と言う事で見ると、やや違う感じもして来ます。
試験シーズンになれば書き入れになる神社もあるし・・・(神社が宗教であるかどうかは別としても宗教法人ではある)。
普段「無宗教」と言っているのに、いざとなると堂々と神仏にすがる国と言うか民族であり、神仏の方でも日頃の怠惰ぶりを責めないし、その矛盾は問われない国なのです。
さて話が変わりますが、女房殿の父親が亡くなった時に子供たち4人に白木の位牌が配られました・・・その地方独特の習慣らしい。
1年後にはその位牌は正式の物に作り直すと言うことらしいので、残された母の物と併せると5つの位牌が存在することになる。
我が家には仏壇は無いので背の低い整理ダンスの上に水を入れたコップと並べて置いてある。
時々女房殿をからかうのですが、「俺の両親の位牌は無いけれど、義父のだけあるね」
「そういう習慣だからしょうがないでしょ」で終わり。
ところが最近知ったのですが、そのコップの水は息子が換えているのでした。
特に信心深くは無いけれど、幼い頃から世話になった祖父の位牌の前の水は換えるのです。
その息子が自動車教習所の所内検定に出かける前に祖父の位牌の前で手を合わせている・・・『ムムッ!若いのに』と見ているのですが。
出かけたと思ったら「目薬と身分証明書用のパスポートを忘れた!」と戻って来るような慌て者ですから、「手を合わせる」落ち着きも必要なのかも知れません。
何にもしないよりは好いのかも。
例が適切かどうかは分かりませんが、忍者が精神統一のために印を結ぶような、仏教でも印と言うような気持ちを落ち着かせるような動作があると思いますし・・・
従って「鰯の頭」だって何でも良い、宗教でなくても信心みたいな気持ちが、少しパワーアップあるいは気持ちを落ち着かせる事になるのかもしれません。
従兄弟に多少有名なサッカーの監督がいまして、父の葬儀に来てくれたのですが、火葬場で待つ時間に色紙を買って来て彼に書かせました。(葬儀でこういう事をやるのも土地柄でしょうか)
彼が書いたのは「人事を尽くして天命を待つ」
決して上手い字ではありませんが「やれることは全てやったのだから、後は自分を信じるしかない」と言うようなことでしょうか。
これもまた自分を落ち着かせるための言葉と言う事で、鰯の頭に似ているような気がします。
そういう意味では「無宗教」と言うか何事にも懐疑的な態度が必要な時もあれば、逆に何かを頭から信じている方が力を出しやすい事もあるでしょう。
「思いこんでいる奴にはかなわない」みたいに。
それが良いことかどうかの判断は難しいこともありますが、それでも集中が必要な時にはそういうものも必要なのかも知れません。
ただ、枠にとらわれず広く目を向けなくてはいけない時には壁になるかもしれませんが。
少し意味が違うかもしれませんが、仮に囲碁に例えるなら・・・ある時期には憧れの棋士の真似をするというのもアリでは無いかなと思う。
私は初めに梶原九段に憧れ、石田九段、小林九段、趙九段その後ナシ・・・どうしても真似をしたくなる・・・実際には気分的に真似たつもりだけで、鵜のまねをする烏程度ではありますが。
ともかく素人ですから、初めから自分で考え自分で自分らしい囲碁を打つことは難しい。
特に初級・中級の頃は”自分らしさ”と言われても何のことやら困ってしまうかもしれませんから、いろんな真似をしているうちに、自分らしいものも見えて来るのではないのかなと考えています。
技術的なことは初めから理解すると言うのは難しい時があるので、知る→やってみる→理解すると言う過程が必要で、”やってみる”と言う部分が試してみるであっても、真似であってもトレーニングであっても良い。
さて鰯の頭、息子は所内検定の結果は合格で引き続き学科の所内検定も合格したとニコニコ顔で私の部屋に報告に来ました。
話を聞きながら、、、私は内心『今朝は祖父の位牌に手を合わせていたことは、すっかり忘れていて、実力で合格したと言う態度だな』などと思いながら聞いていました。
それは一般的にイスラム圏に共通することかもしれませんが、入国に際しては信じる宗教について質問されるのだそうです。
この辺りは日本人的感覚からは違和感があります。
日本では宗教の自由と言う事で、何教を信じようが非合法でない限り関係ないから、宗教を問われることは無いでしょう。
それでも大部分の日本人はお寺での葬儀となると思いますが、自分は仏教徒だと思っている人は少ないでしょうね。
灌仏会には無関心でもクリスマスはやるし、結婚式は神前もしくはホテルのチャペルで、神社の夏祭りも秋の収穫祭もあるし・・・行事がいろんな宗教の分業、それなのに自分は無宗教だと思っているので、外国の入管の質問には「無宗教」と答えるに違いない。
すると軽蔑された冷たい視線に晒されることになるのだそうです。
イスラム圏ですから最上位はイスラム教徒であるのは間違いないが、第2位に属するのは異教徒であっても何らかの宗教を信じる人だそうで、無宗教はイヌ・ネコ並みなのだそうです。
そういうことで、堂々と自分は無宗教であると言えると言うことも日本的なのかもしれません。
でも宗教では無くて信心と言う事で見ると、やや違う感じもして来ます。
試験シーズンになれば書き入れになる神社もあるし・・・(神社が宗教であるかどうかは別としても宗教法人ではある)。
普段「無宗教」と言っているのに、いざとなると堂々と神仏にすがる国と言うか民族であり、神仏の方でも日頃の怠惰ぶりを責めないし、その矛盾は問われない国なのです。
さて話が変わりますが、女房殿の父親が亡くなった時に子供たち4人に白木の位牌が配られました・・・その地方独特の習慣らしい。
1年後にはその位牌は正式の物に作り直すと言うことらしいので、残された母の物と併せると5つの位牌が存在することになる。
我が家には仏壇は無いので背の低い整理ダンスの上に水を入れたコップと並べて置いてある。
時々女房殿をからかうのですが、「俺の両親の位牌は無いけれど、義父のだけあるね」
「そういう習慣だからしょうがないでしょ」で終わり。
ところが最近知ったのですが、そのコップの水は息子が換えているのでした。
特に信心深くは無いけれど、幼い頃から世話になった祖父の位牌の前の水は換えるのです。
その息子が自動車教習所の所内検定に出かける前に祖父の位牌の前で手を合わせている・・・『ムムッ!若いのに』と見ているのですが。
出かけたと思ったら「目薬と身分証明書用のパスポートを忘れた!」と戻って来るような慌て者ですから、「手を合わせる」落ち着きも必要なのかも知れません。
何にもしないよりは好いのかも。
例が適切かどうかは分かりませんが、忍者が精神統一のために印を結ぶような、仏教でも印と言うような気持ちを落ち着かせるような動作があると思いますし・・・
従って「鰯の頭」だって何でも良い、宗教でなくても信心みたいな気持ちが、少しパワーアップあるいは気持ちを落ち着かせる事になるのかもしれません。
従兄弟に多少有名なサッカーの監督がいまして、父の葬儀に来てくれたのですが、火葬場で待つ時間に色紙を買って来て彼に書かせました。(葬儀でこういう事をやるのも土地柄でしょうか)
彼が書いたのは「人事を尽くして天命を待つ」
決して上手い字ではありませんが「やれることは全てやったのだから、後は自分を信じるしかない」と言うようなことでしょうか。
これもまた自分を落ち着かせるための言葉と言う事で、鰯の頭に似ているような気がします。
そういう意味では「無宗教」と言うか何事にも懐疑的な態度が必要な時もあれば、逆に何かを頭から信じている方が力を出しやすい事もあるでしょう。
「思いこんでいる奴にはかなわない」みたいに。
それが良いことかどうかの判断は難しいこともありますが、それでも集中が必要な時にはそういうものも必要なのかも知れません。
ただ、枠にとらわれず広く目を向けなくてはいけない時には壁になるかもしれませんが。
少し意味が違うかもしれませんが、仮に囲碁に例えるなら・・・ある時期には憧れの棋士の真似をするというのもアリでは無いかなと思う。
私は初めに梶原九段に憧れ、石田九段、小林九段、趙九段その後ナシ・・・どうしても真似をしたくなる・・・実際には気分的に真似たつもりだけで、鵜のまねをする烏程度ではありますが。
ともかく素人ですから、初めから自分で考え自分で自分らしい囲碁を打つことは難しい。
特に初級・中級の頃は”自分らしさ”と言われても何のことやら困ってしまうかもしれませんから、いろんな真似をしているうちに、自分らしいものも見えて来るのではないのかなと考えています。
技術的なことは初めから理解すると言うのは難しい時があるので、知る→やってみる→理解すると言う過程が必要で、”やってみる”と言う部分が試してみるであっても、真似であってもトレーニングであっても良い。
さて鰯の頭、息子は所内検定の結果は合格で引き続き学科の所内検定も合格したとニコニコ顔で私の部屋に報告に来ました。
話を聞きながら、、、私は内心『今朝は祖父の位牌に手を合わせていたことは、すっかり忘れていて、実力で合格したと言う態度だな』などと思いながら聞いていました。