当然のことですが、置かれている状況で第一の関心事がそれぞれ違います。
私の職場では事務用のデスクが向かい合わせに並んでいまして、向うの流れは別の課でこちら側の列が同じ課という配置です。
そういうことなので雑談となればまずは隣の同じ課員ですが、次に近いのは向かい側のお隣の課の人と言うことになる。
物理的にそういうことなので、普通の話題についてはそうなりますが、もう一つ年代によって関心事が異なるわけで・・・向かい側の二人と私の隣の三人が子育て世代なので、話題がピッタリ合う。
昨年来のインフルエンザ問題でも、自分・家族・子供たちへの感染の事、予防接種の事。
皆とも働きなので、いざという時の休暇の問題・・・
イヤーいつか通って来た道ではあるから、彼らの話を聞きながら懐かしい気持ちになります。
無責任な言い方をするならば、こういう苦労して毎日格闘しているような日々が一番良い時かもしれません。
娘や息子の寝顔を見ながら「無事に育つだろうか?」とか「おおきくなったらどんな人になるのだろうか?」と考えたものですが、今はもうそういう心配がない代わりに寝顔を見るような楽しみも無いわけです。
そういうことは私の親たちもきっと同じだったに違いない。
平安だったか奈良時代だったか忘れましたが、建物の木に「近頃の若い者は・・・」という落書きがあったとか聞いた話があります。
いつの時代でも先輩たちは後輩をみて「近頃の若い者は・・・」と言うことになっているようです。
年代・世代・生活の状況で第一あるいは共通の話題がある。
私の場合?
第一は健康(病気)、次のグループは囲碁、年金、仕事をいつまでやるか・あるいはリタイヤしたら何をするか。
第三グループ・・・子供たちのこと?・・・いや勝手に生きて行くでしょうからマア眺めているだけでしょうね。
意外と関心を持つことが少ない気がしてきた。
第一番目の病気の話ですが、心臓だとか血管だとかに欠陥はあるものの案外気分はのんびりと暮らしています。
これは一種の慣れみたいなものかもしれません。
例えて言うと危険物貯蔵所の近くで暮らす人も毎日びくびく暮らしているわけではないでしょう。
ポイントを気をつければ後は運任せみたいなところがあるでしょうし、致命的なミスさえ気をつければ他にやることは無いわけです。
ましてや身体的な欠陥は改善の見込みは薄くて、現状維持が命題なわけです。
それに私自身の場合はこれまで小さな病気は殆どないし、風邪程度のものなら「風邪気味」と意識した頃には終息しているので、案外気楽なのです。
これは亡くなった母とは違うようです。
あの方は年中どこか具合が悪かった印象があります。
どこも具合が悪くない日が1年で何日あったろうか?・・・マアそれでも主婦業をやりながら内職をしていた・・・
野菜や肉などの買い物は殆ど私がやっていた記憶がある。
昔は酒屋、魚屋は御用聞きが来るし、行商も多かったから足りないものだけ買いに行けば良かったのです。 。
母は小さな病気を抱えているけれど重大な病ないで病気にはならないで長生きするタイプ。
長生きだから健康の部類と言えるだろうか・・・チョット不思議。