昨日の話題にした藤沢里奈さんは6才から囲碁教室に通い始めたそうです。
ある方のブログによると、お母さんと一緒に通ったそうで・・・洪さんの囲碁教室とか。
憶え初めの頃から見守ってきた人、指導して来た人には「自分の教えたことがある子供がプロになった」という独特の喜びがあるようですね。
そう言えば私の師匠K畑さんも高尾さんがプロになってメキメキと頭角を現して来た頃には「紳ちゃん」と言う感覚で、「彼が子供の頃には二つ置かせて打ったこともある」などと自慢話。
周りの碁会所スズメからは「K畑先生の筋悪がうつらなかったからプロになれたのですね」とからかわれていました。
話を戻しますが、芸事はじめは世阿弥の風姿花伝によると7才からとされているとか・・・当時の年令の数え方で言うと今なら6才ということになるのかな?。
芸能花伝舎という舞踊・常磐津・長唄・三味線などを小学校などで体験させる団体によると、「6才の6月6日からスタートするのが習わしだった」と書いてありました。
花柳界の修業なども6才から始めたらしい。
と言うことは芸事で名を立てるには子供の頃から・・・イヤ子供の頃だからこそ「叩きこむ」と言うより「しみ込んでいく」ものがあるのでしょうね。
理屈では説明しきれないような感覚のような・・・私ごときのザルには想像も難しいのですが、きっと何かあるとは思うのです。
勝手な想像ですと、ネイティブで言葉を憶えて行くような感覚かも・・・文法とかを理屈で憶えるのではなくて聞いて・使って・繰り返すうちにしみ込んでいくような。
論語を音読で百回繰り返す・・・いや6才からならそんなものではないかも。
あるいは、十回で普通の人の千回分くらい?
昔、里奈さんの祖父故藤沢秀行名誉棋聖の本、あるいは発言には「芸」と言う表現が多かったと思います。
これが、素人には頭でわかるような分からないような。
盤上の石の展開がなんで芸なのかザルには分かりません。
囲碁は職人技術とは少し違うような気がしますし、絵画・音楽などの芸術とも違うようでもある。
芸事と言う言葉で一くくりにしてしまえば、能だとか狂言とか・・・でも少し違う気がしますが、棋聖が「芸」と言う表現をされると、なんとなく分かったような・・・。
もしかしたら「芸」としか表現しようがない何かなのかも知れないとしか・・・
的外れな想像かもしれませんが、芸はデジタルでは無くてアナログに近い?
時計で言えば文字盤を見て一瞬で時刻をイメージするのと、デジタル時計で時分秒で時間を把握する・・・部分的にはそういう相違点もあるのかも。
素人には定石にしてもヨセにしても形勢もデジタルでなければ理解は難しい。
デジタル表記でなくては状況を把握するのは難しい。
但し、目の前の状況をデジタル化出来るのならアマとして最高峰クラスか、アマの域を越えているかもしれません。
従ってアナログ的感覚で感じ取る力が問題になるのでしょう。
よくプロの解説で「プロならこの場面ではこの一手でしょう」とか「プロは考えないところですね」などと言う話があります。
そういう感覚が理屈以前に沁みこんでいくのでしょうね。
では、何でも良いけれど私には6,7才から始めたことはあるか?
あるにはあるけれど、正しく、効率の良い指導を受ける機会は無かったし、一芸を極める強い意志も・・・
と言うことは「スタート時期」「本人の才能・努力・環境」「正しい指導」こういう三拍子が揃って、尚且つ運みたいなものも必要なんでしょう。
更に、10年後も天才と呼ばれているためには・・・そういう重荷は運命的なものかもしれませんがチョット悲壮な感じがしますね。
個人的にはアマでもプロでも囲碁が楽しいことが一番だと思っています。
ある方のブログによると、お母さんと一緒に通ったそうで・・・洪さんの囲碁教室とか。
憶え初めの頃から見守ってきた人、指導して来た人には「自分の教えたことがある子供がプロになった」という独特の喜びがあるようですね。
そう言えば私の師匠K畑さんも高尾さんがプロになってメキメキと頭角を現して来た頃には「紳ちゃん」と言う感覚で、「彼が子供の頃には二つ置かせて打ったこともある」などと自慢話。
周りの碁会所スズメからは「K畑先生の筋悪がうつらなかったからプロになれたのですね」とからかわれていました。
話を戻しますが、芸事はじめは世阿弥の風姿花伝によると7才からとされているとか・・・当時の年令の数え方で言うと今なら6才ということになるのかな?。
芸能花伝舎という舞踊・常磐津・長唄・三味線などを小学校などで体験させる団体によると、「6才の6月6日からスタートするのが習わしだった」と書いてありました。
花柳界の修業なども6才から始めたらしい。
と言うことは芸事で名を立てるには子供の頃から・・・イヤ子供の頃だからこそ「叩きこむ」と言うより「しみ込んでいく」ものがあるのでしょうね。
理屈では説明しきれないような感覚のような・・・私ごときのザルには想像も難しいのですが、きっと何かあるとは思うのです。
勝手な想像ですと、ネイティブで言葉を憶えて行くような感覚かも・・・文法とかを理屈で憶えるのではなくて聞いて・使って・繰り返すうちにしみ込んでいくような。
論語を音読で百回繰り返す・・・いや6才からならそんなものではないかも。
あるいは、十回で普通の人の千回分くらい?
昔、里奈さんの祖父故藤沢秀行名誉棋聖の本、あるいは発言には「芸」と言う表現が多かったと思います。
これが、素人には頭でわかるような分からないような。
盤上の石の展開がなんで芸なのかザルには分かりません。
囲碁は職人技術とは少し違うような気がしますし、絵画・音楽などの芸術とも違うようでもある。
芸事と言う言葉で一くくりにしてしまえば、能だとか狂言とか・・・でも少し違う気がしますが、棋聖が「芸」と言う表現をされると、なんとなく分かったような・・・。
もしかしたら「芸」としか表現しようがない何かなのかも知れないとしか・・・
的外れな想像かもしれませんが、芸はデジタルでは無くてアナログに近い?
時計で言えば文字盤を見て一瞬で時刻をイメージするのと、デジタル時計で時分秒で時間を把握する・・・部分的にはそういう相違点もあるのかも。
素人には定石にしてもヨセにしても形勢もデジタルでなければ理解は難しい。
デジタル表記でなくては状況を把握するのは難しい。
但し、目の前の状況をデジタル化出来るのならアマとして最高峰クラスか、アマの域を越えているかもしれません。
従ってアナログ的感覚で感じ取る力が問題になるのでしょう。
よくプロの解説で「プロならこの場面ではこの一手でしょう」とか「プロは考えないところですね」などと言う話があります。
そういう感覚が理屈以前に沁みこんでいくのでしょうね。
では、何でも良いけれど私には6,7才から始めたことはあるか?
あるにはあるけれど、正しく、効率の良い指導を受ける機会は無かったし、一芸を極める強い意志も・・・
と言うことは「スタート時期」「本人の才能・努力・環境」「正しい指導」こういう三拍子が揃って、尚且つ運みたいなものも必要なんでしょう。
更に、10年後も天才と呼ばれているためには・・・そういう重荷は運命的なものかもしれませんがチョット悲壮な感じがしますね。
個人的にはアマでもプロでも囲碁が楽しいことが一番だと思っています。