財布から取り出す120円
コイン投入口にそれを入れる
ボタンを押す
ゴトン
鈍い音と共に落ちる缶ジュース
プルタブを開けジュースを飲む
空き缶をゴミ箱に捨てる
ジュースを買ってから飲み干して缶を捨てるまでの一連
この間に感情は無いだろう。
あるとすれば、ジュースが美味しいか不味いか、
その程度だろう。
でもよく見れば、缶のデザイン
とても綺麗だ。
中身より缶の方が高価に見えるくらい。
でも私が思うに出来すぎている
私はそこに現代の足りすぎているものを感じてしまう。
もしもこの空き缶が、
ブリキやアルミがそのまま剥き出しで、
そこに
「コーヒー」
とか
「コーラ」
とかマジックで書いてあるだけの簡素なものだったら
人はどうするのか?
不味そうに見えるとか、中身の感想の話ではなく、
空き缶自体を人はどうするか?
多分、大部分の人はそのまま捨てるが、
きっとそこに落書きする人が出てくると思う
そしてその落書きは、
やがてカスタム缶としてデザインされ、
缶専門のペインターが登場する。
そして缶に「〇〇作」の名前が付き、
個展も開催される。
これはただの私の妄想
でもきっと実際にそうなるだろうと、本気で思っている。
現実には綺麗にデザインされた缶
あれを見れば、これ以上綺麗に塗ろうとはなかなか思えない。
たとえ思ったところで、あれ以上完璧にするのは困難なほど、
デザインが完成されている。
そうすると自然と落書きの意欲も失せてしまう。
今、足りすぎているもの、
空き缶以外にもたくさんある。
足りすぎている為に、
個人の発想は死んでいく。
与えられたものが当たり前になる。
製品より劣る。
これは人の発想の観点からみると、致命的
世にあふれるものが完璧すぎると、
発想意欲が失せてしまう。
100円均一で誰もが感じるだろう。
「えっ、これが100円?」
例え自分で造れるものであっても、
この時点で造る意欲が失せてしまう。
完成されたものが安いっていうのは、
生活する分には得を感じても、
人のやる気を殺いでしまう。
もしもの話ばかりで掴みどころの無い話ではあるが、
もしも世の中に出ている製品が
もっと簡素で、もっと価値を見直すことが出来たなら、
新たな職人がたくさん生まれた筈だと
私は強く思う。
完成された安価な大量生産品は、
人の質を殺すのに、
十分な要素になったのではないだろうか。