山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

さむしろや待つ夜の秋の風ふけて‥‥

2005-10-20 23:11:20 | 文化・芸術
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-今日の独言-

撤退つづく海外メディア
 「報道写真家から」というブログがある。中司達也さんというフリーの報道カメラマンが、海外ルポから国際政治、旅行記など思うにまかせて書き継いでいる。時々読ませていただくのだがテーマ性も明確で問題への肉薄もしっかりしていて読み応え充分。
19日付は「日本から撤退する海外メディアと神船6号」と題した一文。
ここ数年で、かなりの海外メディアが日本から撤退しているらしい。要するに日本が発信しうるニュース価値が「失われた十年」以後著しく低下している訳だ。所詮、ニュース価値などは地球世界のなかで相対的なものとしてその時代々々を反映しつつたえず流動してゆく。日本から海外メディアがどんどん撤退しているということは、より高いニュース価値を求めて他の国々へと移動している訳だ。その他の国々とは、現在の場合、中国を措いて他にはあるまい。この変化の相の下で、靖国参拝が著しく外交問題の傷を深くしているという構図に、小泉首相はいまだ考えが及ばないのか、或は側近や外務官僚から指摘されながらも知らぬ半兵衛を決め込んでいるのか、いずれにしてもファナティックで迷惑千万なナルシストだ。新人議員たちを前に「政治は洞察力だ」と宣うたという当の本人にこそ、そっくりその言葉を返したいもの。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-12>
 いつまでのはかなき人の言の葉かこころの秋の風を待つらむ
                                 詠み人しらず


後撰集、戀。想いの人は心あるやあらずや、疑えばきりもなく惑うばかりの我が身に耐えがたくも、なお真心の便り-返書をひたすら待つのみ、か。四句「こころの秋を」に新鮮な響きがあり、邦雄曰く「下句の縷々とした悲しみは、類歌数多の恋の部に紛れない」と。

 さむしろや待つ夜の秋の風ふけて月をかたしく宇治の橋姫
                                  藤原定家


新古今集、秋。藤原良恒邸で催された花月百首中の歌。宇治川にかかる宇治橋には諸説の橋姫伝説があり、古来、橋姫に寄せて詠まれた歌は数多ある。
四句「月をかたしく-片敷く」は、衣片敷くが定型的な表現だが、あえて新奇を狙い転換させたもの。邦雄曰く「三句「風ふけて」は、鴨長明が無名抄の中で厳しく咎めている奇抜な修辞の一つだが、「月をかたしく」と共に、いわゆる達磨歌の面白み躍如」と。


              ――「達磨歌」についての参照記事

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日が山に、山から月が、柿の実たわわ

2005-10-20 15:18:05 | 文化・芸術
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<芸能考-或は-芸談>-04

<達磨-だるま-歌>

 塚本邦雄の「清唱千首」を参照していると「達磨歌」なる初めて眼にする呼称に何度か出くわしては悩まされていた。「達磨-だるま-歌」、いかにも揶揄したような滑稽味あふれた呼称だが、此方こそ意味不明、手も足も出ずダルマさん状態であった。
どうやら単純にいえば、奇を衒った手法を駆使して訳が分らぬ、解釈しようにも手も足も出ないような歌に対して「達磨歌」と揶揄蔑称したもの、ということらしい。
ところがよく調べていくと、この呼称問題の奥はけっこう深いようだ。
 平安末期から鎌倉初期、終末観漂い暗い世相のなか新しい風が求められたひとつの時代の転換期である。宗教においても文芸においても新旧の交錯拮抗する時代でもあったのだ。
慈円や藤原良経、定家らがつどう九条家サロンの歌人たちは、先達古今集の歌風を刷新すべく新風を吹き込もうとした。具体的な技法の工夫としては、句切れの多用、語句の倒置や圧縮と飛躍、体言句の羅列など、従来からすれば新奇・奇矯な修辞法を駆使し、いわば事理に基づいた短歌的抒情、論理的な意味的結合の流れを断ち切って、体言句のもつ象徴的な喩・像の連合を一首の軸として歌の世界を構築しようとした。これら新しい歌風に対し、古今の伝統世界を是とする旧派歌人たちは、先述したように「達磨歌」と呼び嘲笑し蔑んだ。新風に対する否定的・批判的な論を展開した一方の雄に「方丈記」鴨長明がいる。長明は自著「無名抄」において「露さびて、風ふけて、心のおく、あはれのそこ、月のありあけ、風の夕暮、春の古里など、初めめづらしく詠める時こそあれ、ふたたびともなれば念もなき事、-略- 斯様のつらの歌は幽玄の境にはあらず、げに達磨とも是をぞいふべき」と記している。新風の「達磨歌」が、長明の言うように単なる言語の遊戯にしかすぎないなら、まさしく初めはめずらしく詠めても二度目となれば悪い意味でのマニエリスム以外のなにものでもないだろうが、彼の批判も些か一面的に過ぎたようである。
 九条家サロンの歌人たちと意外に近しい位置に居た曹洞宗の開祖道元は自著「正法眼蔵」の山水経の段において「水は強弱にあらず、湿乾にあらず、動静にあらず、冷煖にあらず、有無にあらず、迷悟にあらざるなり。こりては金剛よりもかたし、たれかこれをやぶらん。融じては乳水よりもやはらかなり、たれかこれをやぶらん。-略- 人天の水をみるときのみの参学にあらず、水の水をみる参学あり、水の水を修証するゆへに。水の水を道著する参究あり、自己の自己に相逢する通路を現成せしむべし。他己の他己を参徹する活路を進退すべし、跳出すべし。」と説く。万物諸相の多様のうちに、それぞれ相通じ逢着する道があり、それらを実際に徹底して行き来したうえに、そこから跳び出すことこそ本来の参学だ、ということかと思えるが、最後の言葉「跳出すべし」とは、論理的な意味的結合の流れを断ち切って、その外部へと跳び出すこと即ち新しい世界像を獲得することであり、新風歌人たちの美学と大きく響きあっている。この仏法世界と歌の世界との共鳴は、世界と人との新しい関係の自覚であり、時代の変化に潜む要請でもあったのだろう。
 この当時、「達磨」とは新しい時代の、新しい思想潮流のキーワードであったのだ。定家らの新風が同時代の人々に「達磨歌」と一方で揶揄されるように呼ばれ、他方で定家ら自身、これを逆手にとって新風の呼称として止揚し、自ら積極的に自己規定していくのも、時代の転換期の背景のうちに必然性として潜んでいたのである。


   ――参照サイト「院政期社会の言語構造を探る-達磨歌」

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契りとて結ぶか露のたまゆらも‥‥

2005-10-19 13:51:37 | 文化・芸術
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-今日の独言-

異彩を放つ本歌取り「続 明暗」
 漱石の「明暗」を読んでもいないくせに水村美苗の「続 明暗」を読んでみた。いわば本歌取りを鑑賞して未知の本歌を偲ぶという、本末転倒と謗りを受けても仕方のないような野暮なのだろうが、それなりにおもしろく楽しめた。
本書冒頭は、漱石の死によって未完のまま閉じられた「明暗」末尾の百八十八回の原文そのままに置かれ、津田と延子の夫婦と津田のかつての恋人清子との三角関係を書き継いでいく、という意表をついた手法が採られている。
換骨奪胎という言葉があるが、過去の作品世界を引用、原典を擬し異化し、そこに自己流の世界を構築するという手法は、古くは「本歌取り」などめずらしくもなく、今日では文芸に限らずあらゆる表現分野に遍くひろまっているとしても、本書の成り立ち方はとりわけ異彩を放つだろう。
著者は文庫版あとがきで「漱石の小説を続ける私は漱石ではない。漱石ではないどころか何者でもない。「続明暗」を手にした読者は皆それを知っている。興味と不信感と反発のなかで「続明暗」を読み始めるその読者を、作者が漱石であろうとなかろうとどうでもよくなるところまでもっていくには、よほど面白くなければならない。私は「続明暗」が「明暗」に比べてより「面白い読み物」になるように試みたのである」という。
小説細部は晦渋に満ちた漱石味はかなり薄らいでいるとみえるも、なお漱石的世界として運ばれゆくが、延子の夫津田への不信と絶望に苛まれ死の淵を彷徨った末に、新しき自己の覚醒にめざめゆく終章クライマックスにおいては、もはや漱石的世界から完全に解き放たれて作者自身の固有の世界となった。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-11>

 契りとて結ぶか露のたまゆらも知らぬ夕べの袖の秋風
                                 飛鳥井雅経


明日香井集、秋風増戀。平安末~鎌倉初期。飛鳥井流蹴鞠の祖。源実朝と親交あり、定家と実朝の仲を取り持ったとされる。
邦雄曰く、情緒連綿、潤みを帯びた言葉をアラベスク状に連ね、人を陶酔に導くかの調べ。第四句の「知らぬ夕べの」で、ひらりと身をかわし、一首に言いがたい哀愁を漂わせ、それを受けつつ「袖の秋風」と、倒置法を思わす結句のかすかな抵抗感で、歌を引き締めるところ心憎いばかり、と。


 高円の尾上の萩の摺りごろも乱れてくだる雲の秋風
                                 正徹


草根集。室町中期。定家の風骨に学び、夢幻的・象徴的な独自の歌風。歌論書に「正徹物語」。
邦雄曰く、歌の背景には伊勢物語の「若紫の摺衣しのぶの乱れ」を匂わせ、第四句「乱れてくだる」が一首を際立たせる。山の頂から麓まで、萩の花群を乱しつつ吹き下る秋風。絢爛としてしかも寂びさびとした光景、速力ある調べは正徹の本領を遺憾なく伝える、と。


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葛の葉のうらみにかへる‥‥

2005-10-18 12:19:28 | 文化・芸術
N-040828-031-1

-今日の独言-

四面楚歌か? 市長辞任、出直し選挙。
 関市長が辞任を表明した。
職員厚遇問題で昨年から叩かれつづけている大阪市は深刻な財政破綻を抱えてもはや重篤状態だが、旗を振る関市長の再建策は、足並み揃わぬ与党会派の理解を得ながらの調整作業や推薦団体の市職労組の根強い抵抗などの所為か、なかなか大鉈をふるえず遅々として進まない。
地方行政の首長には議会の解散権がない。ならば残された手法は自ら辞任し、出直し選挙で市民に信を問う形しかないという訳だろうが、さてこの非常手段が果たして血路を開くことになるのか、愈々混迷の淵に落ち込んで抜き差しならぬことになるのか、まったく不透明で予断が許さない。
関市長に請われて民間登用された大西光代も足並みを揃えて助役を辞任するが、出直し選挙で仮に関市長が再選されても、再び助役に就く意志はないといっているのもよく判らない。小泉首相の解散騒ぎで候補者にと請われたり、他分野から寄せられる期待も大きかろうが、この時点でのコンビ解消は混迷に拍車をかけるのは必至、との認識は彼女にはないのかな‥‥。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-10>

 白妙の袖の別れに露落ちて身にしむ色の秋風ぞ吹く
                                    藤原定家


新古今集、戀五、水無瀬戀十五首歌合に。後朝(きぬぎぬ)- 一夜を共寝して迎えた朝、その別れ-を、「袖の別れ」と表したとき、一首の冴えは決したとみえる。和泉式部の「秋吹くはいかなる色の風なれば」を意識して作られたかと。

 葛の葉のうらみにかへる夢の世を忘れがたみの野べの秋風
                                    俊成女


新古今集、雑上、寄風懐旧といふことを。葛の葉の「うらみ」は裏見-恨みの懸詞は使い古されたものだが、「夢の世」はここでは過去を思わせ、「忘れがたみ」に響かせて情を盡くすあたり、当代屈指の感しきりとか。

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人ぞ憂きかきなす琴の調べだに‥‥

2005-10-17 03:43:46 | 文化・芸術
041219-055-1

-今日の独言-

事件は、偶然のように‥‥
 身体表現における即興の場などというものは、その人自身の既存の呪縛から解き放たれるためには、いったいなにがヒントになったりキッカケを生みだすか、まったく予測のつけがたいものだ。
昨日は稽古場で、数日前に記事として挙げた、「フロイト=ラカン」の<人の欲望は他者の欲望である>ということをキィワードに少し話をしてみた。このテーゼは、いいかえれば自分の「無意識」とは厳密には「他者の欲望の場」であり、「無意識は他者たちの語らいの場である」ともなる。
この論理に則れば、自分自身の固有の身体もまた、他者の身体によって生きられている、というアナロジィを想定しうる。身体とのみいって解りにくければ、身体形式あるいは身体の動きとしてもよい。そういった視点から想像力を羽ばたかせてみるならばどうなるだろうか。かいつまんでいえばそんな話。
これまでどうにも固有の壁を破れなかった一人が、劃然とその殻を破った動き方=表現をはじめたのである。従来とはまったく別人のごとく奔放な表現がどんどん繰り出されてくる。これはひとつの事件である。
念の為言い置くがこれは初心者レベルのことではない。初心者の呪縛を解放してやることはさして難しいことではない。十年選手のようにすでにまがりなりにも表現者として自分固有のスタイルを有してしまっている者において「劃然と悟る」へと到らしめるには、という難題であって、実際、私は彼女に対して、もうかれこれ丸一年以上、そのことを課題にしてきたのだった。
おそらく昨日のその事件は、彼女にとっては靄々と溜めに溜め込んできた得体の知れないものの偶然見出された突破口なのだろうし、その意味では内的必然だったのだろうが、現れとしてはまったく偶然のようにしか起こり得ない。これでやっとひと山超えてゆくことができるだろう。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-9>

 人ぞ憂きかきなす琴の調べだに松の風には通ふならひを
                                 惟宗光吉


惟宗光吉集、寄琴戀。鎌倉後期~室町初期の人。惟宗氏は代々医家として名高い。和漢の才を謳われた。
「人ぞ憂き」の初句切れに、本来なら言外に感じさせるべきような主観的表白を、冒頭にはっきりと提示する趣向が、耳目を集める効果となろうか。


 わが前に住みけむ人のさびしさを身に聞き添ふる軒の松風
                                 夢窓疎石


正覚国師御詠。鎌倉後期~室町初期の臨済僧。天竜寺ほか諸国に多くの寺を開き、作庭にも優れた。
鎌倉山の旅中、人の住み棄てた侘しい草庵に一夜宿した折に詠んだとされる清韻の調べ。下句「身に聞き添ふる軒の松風」に観照の深さと語の工夫が感じられる。


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