山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

吹きしをる四方の草木の裏葉見えて‥‥

2005-10-15 21:39:45 | 文化・芸術
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-今日の独言-

塩野七生の「ローマ人の物語」
 一昨日、昨日と、気分転換に塩野七生の「ローマ人の物語」シリーズを久し振りに読んでいた。文庫版では現在すでに23巻まで刊行されているというのに、私が手にしたのは6巻と7巻。まだカエサルの登場以前である。まてよ、久し振りにというけれど、このシリーズは三年前から文庫版化されはじめたのだから、1巻~5巻までを読んだのはたしか一年半ばかりまえではないか。いやもっと以前かもしれない
紀元前二世紀半ば、第三次のポエニ戦役で強大国カルタゴを完全に滅亡させたその後から、BC63年、ポンペイウスのオリエント制圧によって地中海に面した全域がローマの覇権下となるまでを描く。グラックス兄弟、マリウスとスッラ、そしてポンペイウスと連なる約百年間、共和制下ローマの覇権拡大の道のりは決して平坦なものではない。軍事指導者と元老院たちとの対立相克が絶えずつきまとい、制度的な矛盾を露呈しつつ、ときに血の粛清が繰り返されもする。属領、属国の拡大は奴隷層の民をも飛躍的に増大させる。BC73~2年にはスパルタクスの叛乱も起こった。
著者はこれにつづくカエサルの時代をルビコン以前と以後に分け、8~13まで6巻をあてている。はて、これらを読むのはいつのことになるやら。きっとしばらくはツンドク状態に置かれたままだろう。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-8>
 さりともとつれなき人を松風の心砕くる秋の白露
                                 藤原良平


千五百番歌合、戀。九条(藤原)兼実の子。良経の弟。さりげなくも意外とみえる初句の発想。「砕くる-露」の新鮮ともみえる巧みな縁語。作風は地味だが詩心の味わいは深い。

 吹きしをる四方の草木の裏葉見えて風に白める秋のあけぼの
                                 永福門院内侍


玉葉集、秋の歌とて。作者はこの一首をもって「裏葉の内侍」と称されたと伝えられる。自然への緻密な観照に加えて、第三句の字余りがゆったりとした調べをもたらし、独特な風雅を生んで印象的。

今月の購入本
 鷲田清一「現代思想の冒険者たち-メルロ・ポンティ」講談社
 水村美苗「続 明暗」新潮文庫
 塩野七生「ローマ人の物語-8~13」新潮文庫
 L.ウィトゲンシュタイン「ウィトゲンシュタイン・コレクション」平凡社ライブラリー
図書館からの借本
 岡井隆「短詩形文学論集成」思潮社
 市川浩「現代芸術の地平」岩波書店


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入る月のなごりの影は‥‥

2005-10-14 21:53:10 | 文化・芸術
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-今日の独言-

ブロンボス洞窟の巻貝
 南アフリカのブロンボス洞窟で発見された巻貝の貝殻は、7万5000年前近く前に人類がビーズ飾りを作るために孔をあけられ、最古の装身具だったと推測されている。孔のあいた貝殻ビーズのほかに、骨器で文様を掘られたオーカー(赤鉄鉱)など、お洒落の道具や贈答品として使った可能性のある道具が多く出土したという。これらの出土は既にこの頃より人類は象徴的思考能力を有していた証拠となるとノルウェーの考古学者ヘンシルウッドはみている。
 考古学上は2003年、エチオピアで発見された化石から,現生人類はすでに16万年前に出現していたことが明らかになっていた。さらに今年2月には、エチオピアの別の遺跡で出土した化石の年代測定結果によって、は19万5000年前へと遡る可能性が出てきた。しかし,人類がいつ頃から現代人と同じような精神や高度な道具を持つようになったかについては、従来は約4万年前のことだろうと考えられてきたのだが、ブロンボス洞窟の出土類はこの時期を大きく遡らせることになる。
 参照サイト-
日経サイエンス「人類文化の夜明け」

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-7>
 すみなれし人は梢に絶えはてて琴の音にのみ通ふ松風
                                 藤原有家


六百番歌合せ、寄琴恋。平安末期、家隆、定家と同時代人。第二句の「梢」に「来ず」を懸けて、待つ恋の哀れを通わせ、下句「琴の音にのみ‥‥」と結ぶ味わいに「細み」の美を感じさせる。歌合せの右歌は慈円の「聞かじただつれなき人の琴の音にいとはず通ふ松の風をば」

 入る月のなごりの影は嶺に見えて松風くらき秋の山もと
                                 藤原定成


玉葉集、秋下。鎌倉時代、藤原北家世尊寺流、行成の末裔。玉葉集や風雅集の特色は、一首の核心を第四句に表して、風情の面目を一新する、という。この歌も第四句「松風くらき」が、月明りのすでに傾いた頃の闇深く、影絵となった山麓の松林という実景が心象風景ともなって幻視のごとく浮かびあがる。

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こほろぎに鳴かれてばかり

2005-10-14 00:47:55 | 文化・芸術
<古今東西-書畫往還>

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<人の欲望は他者の欲望である>

 人間の欲望は、内部から自然と湧き上がってくるようなものではなく、常に他者からやってきて、いわば外側から人間を捉える。
だがこのことはけっして人間の主体的決定の余地を奪うものではない。人間の主体的決定は、まさに、この他者からやってくる欲望をいかに自分のものにするかということのうちに存するのだ。フロイトの発見した「無意識」とは、そのような主体的決定の過程において、いいかえれば、他者から受け取った欲望を自分のものに作り替えていく過程において、形成されるものにほかならない。
 人が成長してゆくなかで、他者の欲望との出会いは繰り返される。人が幼少時から重ねてきたさまざまな決断や選択は、どれほどそれを自分自身で行ったと思っていても、実はもともと親や教師や友人といった他者から与えられたもの、あるいは伝達されたものにすぎない。だが、人はいつしかそれらの出会いを忘れてゆく。出会われた欲望がやがて忘れられてゆくのは、それが他のものに取り換えられるからである。一つのシニファン――というのも、他者の欲望は常に一つのシニファンのもとに出会われるだろうから――を他のもう一つのシニファンに取り換えること。ラカンは、フロイトの「抑圧」をこのようなシニファンの「置き換え」のメカニズムとして捉え直すのである。他者からやってきた欲望を抑圧することで、人はその上に自分の欲望を築いてゆくのであり、抑圧された他者の欲望は「無意識」を構成し、無意識において存続する。
 このように、精神分析における「無意識」とは厳密には他者の欲望の場である。それは他者の止むことなき「語らいの場」である。先述のように、欲望はシニファンの連鎖によって運ばれるが、その連鎖が形作るものを名指すのに「語らい」ほど適した言葉はない。それゆえラカンは、「無意識は他者の語らいである」と繰り返す。主体が生まれる前から常にそこにおいて語らっていた「大文字の他者」は、この語らいが運んでいる欲望が主体のうちで抑圧され、無意識を構成するようになった後も、けっして語らうことをやめない。私たちに毎夜夢を紡がせるのは、まさにこの「他者の語らい」にほかならないのである。


  ――新宮一成・立木康介編「フロイト=ラカン」講談社 P43-45

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ありし夜の袖の移り香消え果てて‥‥

2005-10-13 10:37:00 | 文化・芸術
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-今日の独言-

進まぬパキスタン被災者救出。
 パキスタン地震の被災者救出が遅々として困難を極めている。地震発生が8日午前8時50分、学校では授業がすでに始まっていた時間帯。さらには断食月に入った直後だけに家屋内に居た人々が多かった。丸4日経っても被災者の救出は一向に進まない。死者は4万にも達するかと予想されてもいる。また250万もの人々が野外に取り残されたままの避難生活が続いているという。
昨年末のスマトラ沖地震による津波災害においても大量の犠牲者とともに甚大な被害をもたらした。後進性と人口過密を抱えたアジア各地でひとたび大きな自然災害が起きると、これほどに犠牲者もひろがり救出・救援活動もお手上げのような状態となる。
現在のところ、救援活動として日本からパキスタンに派遣されたのは、国際緊急援助隊による救助チーム49名と医療チーム21名の計70名規模。
12日になって、防衛庁は陸上自衛隊120名の派遣命令を出し、早ければ13日にも出発させるという。これに先立ち現地調査のため先遣隊20名は12日成田を出発したらしい。
一方、イラクへの第8次自衛隊派遣部隊600名に対し、11日夕、防衛庁長官により派遣命令が出された。10月下旬にも現在駐留している第7次隊と交代のため出発する予定とか。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋-2>

 ありし夜の袖の移り香消え果ててまた逢ふまでの形見だになし
                                 藤原良経


六百番歌合せ、稀戀。一夜を共に過ごした相手の微かな袖の移り香だけが、唯一の愛の形見、追憶のよすがであったものを。読み下すままに簡潔にして溢れる情感が、結句「形見だになし」の激しい断念の辞と見事に照応する。

 夏衣うすくや人のなりぬらむ空蝉の音に濡るる袖かな
                                 俊成女


続後拾遺集、戀四、千五百番歌合せに。夏衣は「うすく」の縁語。思う人の情の薄く変わり果てたさまは、「空蝉」の語にも響きあう。晩夏、蝉の声を聞くにつけても侘しさに涙し、袖は濡れる。

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影うつりあふ夜の星の‥‥

2005-10-12 01:07:16 | 文化・芸術
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-今日の独言-

 高村薫の「レディ・ジョーカー」を読む。
二段組で上下巻850頁余の長篇はさすがに一気呵成という訳にはいかない。
前半は輻輳した運びに些か冗漫さがついてまわりなかなか読み進まなかったが、上巻の終盤あたり「事件」以後は太い縒糸のごとく緊密な運びとなって読むのも急ピッチに加速した。
著者は「グリコ・森永事件」に着想を得たというが、直接には現実の事件とは関わりなく、その構想力と構成の確かさはバブル経済下の政・官・財の癒着構造によく肉薄しえている。人物たちの設定や配置も巧みだし描写もしっかりし、些か観念的ではあるにしても、それらの関係の中であぶり出しの絵の如く現代社会の病巣を浮かび上がらせている。
読み終えてから今更ながら昨年に映画化されていることを知ったのだが、その勇気ある野心には敬意を表するけれど、映像化にとても成功するとは思えないのであまり食指は動かない。同じ著者の「晴子情歌」の抒情世界ならぜひ映像で見てみたいと思うものの、これはこれとてさらに難題だろう。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-6>

 影うつりあふ夜の星の泉河天の河より湧きていづらむ
                                 十市遠忠


遠忠詠草。室町後期の武将で歌人。大和国十市城主(奈良県橿原市)。集中に七夕を詠じた「天・地・草・木・蟲・鳥・衣」の七題の歌があるそうでこれは「七夕の地」にあたる。泉を天の河に見立てた趣向。上句と下句の対照は連歌の付合いを想起させ、室町後期というこの時代を思わせるか。

 露くだる星合の空をながめつついかで今年の秋を暮らさむ
                                 藤原義孝


藤原義孝集、秋の夕暮。平安中期、一条摂政伊尹(これまさ)の子で、後少将或は夕少将と称されたが20歳未満の若さで夭折した。「星合の空」とは彦星・織女が出会う七夕の空の意。上句の「露」は涙を暗示し、四句の「いかで」の語に暗澹とした思いがにじむ悲歌。

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