あまねのにっきずぶろぐ

1981年生42歳引き篭り独身女物書き
愛と悪 第九十九章からWes(Westley Allan Dodd)の物語へ

死ぬほどの愛

2018-04-19 21:52:31 | 随筆(小説)
人は生きてゆく意味を見失えば、生きてゆくことに堪えることができなくなり自ら死んでしまうのだろうか。と考えていました。

自分の場合は父が死んだ晩に本気で父のあとを追って、父のそばへ行きたいと願い、飛び降りて死のうと想ったのですが、遺す姉兄のことを考えると死ねませんでした。
死んだ方がよっぽど楽だと、あのときほど想ったことはありません。

でも死ぬ人はあの時点で本当に死んでしまうのだろうと想うと、後悔しないはずはないと想います。

だから自ら死を選ぶというのは今以上の苦しみの底に向かおうとする自罰行為であると想っています。

でも何故か人は、死ねば救われるという幻想を見て、夢遊病者のように死へと向かいます。

遺された者は、ずっとずっと自分を責め続けて生きなければなりません。

究極の利己的な行為をする人間が、なぜ救いの幻想を見て死ぬのかと考えていました。

わたしもあの晩は、死ねば本当に父に会えるような気さえしました。
わたしが存在するべき場所はここではなく、向こうであると本気で信じられました。

だから死ぬ人は生きる意味は失っても、死ぬ希望に溢れていて、まるで生きている以上にめらめらと燃え盛る炎のようにここでないどこかで生きる希望に支配され、とり憑かれるようにしてあちらへ逝ってしまうように感じるのです。

そしてあの世で、のたうち続けて後悔し続けると想っています。

生きることに喜びはとても深まってきています。
でもわたしの生きる意味は、父の死んだ夜に、完全に喪いました。
生きる意味がなくとも、人は苦しみに耐えられることさえできるならば生きて行けると想っています。

芥川龍之介のぼんやりとした不安は、死の原因ではなく、耐えられない苦痛の先に見たものがぼんやりとした不安であったに過ぎないと想っています。
人はぼんやりとした不安だけで死ぬことができないほど生きることに執着しています。

生きる意味は、生きる上で必要でもないし、見つけようとする必要も実はないのだとわたしは想っています。
それは本当にわたしが生きる意味を亡くしてもこうして生きる喜びを感じて生きられているからです。

わたしは本当に自分を亡霊のように感じて生きている為、死を恐怖することはありませんし、わたしがここからさらに死ぬというのは、生きるよりずっと難しく、難しいと感じるほど死に魅せられます。

生きることよりずっと、死に魅せられ続けて生きてきました。

これは「死」への幻想が、わたしを確かに生かし続けていると想えます。

でもこの感覚は珍しいものだとは想いません。

死は、こちらから向かうものではなく、あちらから迎えにくるのです。

だから自分から向かおうとするなら、死とは違う場所にいくことは確信しています。

死は、そうは簡単に手には入りません。
簡単に手にはいるなら、これほど、狂おしいほど幻想をいだき、恋い焦がれたりしないのです。

死は、わたしの幻想のすべてであり、恋い焦がれるすべてです。

本当に、死ぬほど愛しているのです。

生より死を。

















予期

2018-04-19 18:19:30 | 

あんまりにも、度が過ぎてしまったからではないだろうか。

人類が、一瞬のうちに滅ぼされてしまったのである。

脳裡によぎる、「不条理」という想いが、一層虚しく、塵も遺らぬ面上を、まるで呆けた笑みを含み、落下も上昇もできぬ一本の細い線路の上をあるいてゆかなければならない。

なにかにおびえ、にげようとする必要も、遺されない。

ここには”運命”が、うしなわれている。

だからもうきっと、ここに居ても良いと言ってくれる人ひとり、であえるようには、想えぬ様に、ここはなんて、展(ひろ)いのだろう。

なにもかも、愛することが、こんなにさびしいのか。

とっくの昔(まえ)に、おなじことがあっただろうか。

人類は、予期していたが、ふせぐすべをえらび損ねた。

あれはいったい、なんだろう?

遠くから、近づいてくるようだ。

全速力で。ここに向って。

あれは、”救済”か。

それとも、”列車”という名の、”羽ばたき”か。

死は人類を、予期していたのだろうか。

今となっては、だれも、なにも、聴こえぬ。

ただ一厘の咲かぬ蕾が、線路の上に、ひっそりと眠っていた。