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行き過ぎた福祉は亡国を招く/上

2022-07-26 16:51:27 | 戦争
行き過ぎた福祉は亡国を招く/上
“シーチン”修一 2.0

【雀庵の「大戦序章」74/通算506 2022/7/26/火】小生が小5、11歳の1962年頃、街には少数ながら日々の暮らしに困る貧乏人がいた。いずれも小生の顔馴染みで、ともに子連れの寡婦だった。敗戦から17年経っていたが、庶民は概ね戦前のそこそこ安定した暮らしを取り戻したようで、今から思えば随分慎ましいものの穏やかな生活に満足していた。

しかし、川崎駅の広場とか川崎大師(真言宗智山派・金剛山金乗院平間寺、通称厄除弘法大師、川崎大師)など人が多い所では、白装束の傷痍軍人(を装う人?)が物乞いをしていたものだ。そういう時代だった。

当時は60年安保騒動で岸総理が辞任、池田総理になって民意を政治から生活向上=カネ儲けに切り替える「所得倍増」政策を進めていた頃だ。WIKIによると、

<安保闘争と差し違えで倒れた岸内閣の後継として、池田は1960年7月19日に内閣総理大臣に就任、第1次池田内閣が発足する。

池田は安保闘争の時の強硬な立場から、安保改定を強引に押し通した岸政権の亜流になるのではないかと見られていた。しかし、池田は60年安保を通じて、テレビをはじめとするメディアが大衆の世論形成に影響を与えることを肌で実感し、それを逆に利用する戦略をとる。

吉田内閣時代や安保闘争で定着していた自身の反庶民的・高圧的なイメージを払拭することに努め、「低姿勢」「寛容と忍耐」の信条をテレビを通じて国民に見せ、「庶民派」を演出した。一方、重要政策と見られていた安保・外交や憲法などを封印し、数年来自身のブレーンらとともに懐で温めていた「所得倍増計画」を池田内閣の目玉政策として発表、日本の社会を「政治の季節」から「経済の時代」へ巧みに転換した。

1960年11月の総選挙では、当初は安保を争点とするつもりであった社会党など野党もあわてて経済政策を前面に出すなど、選挙戦は自民党のペースで進み、結果は戦後最高となる301議席、自民党の圧勝であった。さらに、社会党は得意としていた「貧困対策」を自民党の「所得倍増計画」で先取りされ、安保闘争からの党勢拡大の勢いが頭打ちとなり、結局社会党は自民党を議席数で上回ることが一度もなかった>

当時のわが街のような、田舎の風情を残した小さな街の駅前商店街は、山田洋次監督の「男はつらいよ」に登場する葛飾柴又商店街(京成線柴又駅から柴又帝釈天まで続く参道)のミニ版のようなものだったなあと懐かしく思い出す。

山田監督の最初期の映画には1963年上映の「下町の太陽」があり、倍賞千恵子、勝呂誉、東野英治郎が演じている。当時、伯父さん(父の兄)が風呂屋を開業し、脱衣所には映画のポスターがいっぱい掲示されており、映画館はその謝礼に招待券を提供していたので、小生はその招待券をもらって「下町の太陽」を見たかもしれない。当時の映画館は3本立てで、見終わって外へ出たら真っ暗闇で往生した(実際は恐怖を感じた)ことがあったので、以来、映画、テレビにハマることはなかったが・・・それが良かったのかどうかは分からない。

仕事で商品発表会用のCF映像を創っていた経験から、「テレビはハード(機械)、ソフト(映像)をつくって儲けるもので、女子供が楽しむもの、大の男が見るものじゃない」と確信したが、活字・文字(文書)と違って努力しないでも脳みそ(感性?)に影響を与える映像の力=影響力は結構大きいから、これからの言論戦はますます「記事&映像の二刀流」になるのだろう。それが良いのかどうかはこれまた分からないが、夏彦翁曰く「一度なったら、ならぬ昔には戻れない」。

アンシアン・レジーム(Ancien régime)とは旧体制、昔の体制の意だが、一般的には「君主と特権階級による支配=悪」と定義されている。旧体制への復帰を「王政復古」などと言い、フランス革命では強く否定されたが、日本の明治維新は「王政復古の大号令」というアンシアン・レジームへの回帰を錦の御旗にした倒幕(徳川を筆頭とした幕藩体制の排除)という、ずいぶんユニークなものだった。(プーチンはソ連回帰?)

天皇統治は、正確には立憲君主制統治だろう。当時日本で一番影響力を持っていた外国は世界最強最大の大英帝国だったが、その体制のキモは「国王は君臨すれど統治せず」、日本はそれを見習ったようだ。実際、日本駐在の英国外交官アーネスト・サトウは「一外交官の見た明治維新」でこう書いている。

<1868年元旦(慶応3年12月7日)、私は、京都へ長官(ハリー・パークス第2代駐日英国公使)を連れて行って相抗争する両派(大君=徳川幕府将軍派 VS 王政復古=薩長など倒幕派)の間を調停させ、日本人同士が共倒れになるのを防止しようという計画を立てた。そこで、西郷や後藤に会って必要な手段を講ずるために、長官に先行して伏見行きを申し出たのだが、京都の情勢が急速に進展したため駄目になってしまった。

1月4日、西宮から帰ってきた遠藤謹助(長州藩、英国留学組)は、「毛利内匠は長州兵を率いて既に京都にあり、他の一隊は薩摩の部隊と連合して伏見(京都、交通の要衝で薩摩藩邸などがある。鳥羽伏見の戦いなどで知られる)を占拠している」と言った。

薩摩、芸州、土佐の三藩が、会津に代わって皇居(京都御所)の守護に任じているという事実は重大だった。大君が(京都を離れ)大坂へ下って来るという噂があり、洋式訓練部隊(伝習兵=西洋式軍隊)を輸送するため淀では船の調達が行われているという。

(薩長など)大名側の目的は大君(幕府)と戦うことではなく、大君から特権を剥奪しようとするにあった。まず領地百万石を没収することを提議した。長州問題はすでに落着し、皇居(京都御所)の守護者は交替したと、遠藤は言った・・・

6日に石川河内守が来て、その知らせによると、3日に薩摩は大君の廃止のみならず、天皇と大君との間に立つ関白、伝奏、議奏の三職廃止をも建議したという。新しい政府は総裁(国務大臣?)、議定(内閣?)、参与(次官?)から成るものだった。

これは、私たちが将来の行政府の組織として後藤に示唆したものに多少似ている。我々をして言わしむれば、総裁は内閣総理大臣のような役目をするものであり、議定は行政各省の大臣に相当するものであった。

この建議に対しては大反対があったが、石川は「これは机上で論議され得る案ではなく、戦争によって解決されるに違いない」と言った。石川の見解によれば、大君自身はこの制度に反対しないが、配下の者が主君のためを思って反対しているらしく、大君としては平和保持のために進んでいかなる犠牲にも応ずる覚悟であるように思われるという>(以上)

結局、天皇崇拝著しい徳川慶喜が自ら政権を放棄、蟄居してしまったので、薩長土肥など討幕派は「革命戦争で血を流し新政権を樹立する」という、誰もが納得する大義を得なければ新しい御代でリーダーシップを独占できないことになる。

だから戦争を求め、手当たり次第に喧嘩を売り、血を流し、すでに恭順の意を示していた会津藩も叩いたのだろう。結局、明治政府を率いた大久保利通は竹馬の友でもある西郷まで屠り、権力を固めた。大久保はかなりの冷血漢のようで「情」を好む日本人には頼朝、家康同様、人気がなかったのは、強引過ぎたのだろう。

ま、勝てば官軍とは言え、悪手を使うと遅かれ早かれ非難される。その点、英国の外交は表向きは薩長、徳川幕府のどちらにも付かず離れずで、実に狡知に長けていた。フランスは幕府ベッタリで、結局、日本では存在感を失ったようだ。

駐日英国公使初代のラザフォード・オールコックは長州藩との「四国艦隊下関砲撃事件」で主導的役割を果たすが、中立を破ったと本国では非難されたようで、帰国が命じられたという。後任のハリー・パークスは彼の部下だったが、サトウは上記の「一外交官の見た明治維新」の中で上司のパークスについて「あの人、何やってんだか」といった扱いだった。

できないのならそれなりに「報連相(報告・連絡・相談)はしろ、俺が責任を取るから好きなようにやれ、骨は俺が拾う」と部下を鼓舞すれば良いボスになるのだが、○○につける薬なしか・・・小生は良いボス、上司、先輩に恵まれたなあ、感謝しています。WIKIから。

<ハリー・パークスは外交官としては有能であったが、癇癪持ちで交渉相手からは必ずしも好まれていなかった。また部下であったサトウやミットフォードも、パークスは性格には問題があったとしている。

「私とサー・ハリーとの関係は、たしかに楽しいものではありませんでした。アダムスもミットフォードも彼を良く思ってはいませんでした。これは主に社会階層の違いからくるものです。私もそのとおりだと思っていた日本人の請願に対して、彼の荒々しい言葉を通訳しなければならなかったのは、ほんとうに辛いことでした。しかし、彼は偉大な公僕であった」(サトウによる1921年9月25日付けのバジル・ホール・チェンバレン/日本研究家への手紙)>

さてさて、歴史から現代の話に移ろう。多くの自由民主国の政権は、選挙戦での目先の勝利を得るために国民に「福祉アメ」をばら撒く傾向があるが、数か月前から小生は「行き過ぎた福祉は亡国を招く 国民の活力を減退させる手厚い福祉政策」という視点で書きたいと思っていた。

夫が死んだりして生活が苦しい人や障碍のある人は生活保護(生保、1950年成立)の対象になっているが、1970年あたりまで受給者は遠慮勝ちで、ひっそりと暮らしていた印象がある。周囲は「気の毒に・・・」と同情したり、本人も「おかげさまで・・・」という気持ちがあったのではないか。厚労省のサイトによると、

<【制度の趣旨】生活保護制度は、生活に困窮する方に対し、その困窮の程度に応じて必要な保護を行い、健康で文化的な最低限度の生活を保障するとともに、自立を助長することを目的としています。

【保護の要件等:生活保護は世帯単位で行い、世帯員全員が、その利用し得る資産、能力その他あらゆるものを、その最低限度の生活の維持のために活用することが前提でありまた、扶養義務者の扶養は、生活保護法による保護に優先します。

【資産の活用とは】預貯金、生活に利用されていない土地・家屋等があれば売却等し生活費に充ててください。

【能力の活用とは】働くことが可能な方は、その能力に応じて働いてください。

【あらゆるものの活用とは】年金や手当など他の制度で給付を受けることができる場合は、まずそれらを活用してください。

【扶養義務者の扶養とは】親族等から援助を受けることができる場合は、援助を受けてください。

そのうえで、世帯の収入と厚生労働大臣の定める基準で計算される最低生活費を比較して、収入が最低生活費に満たない場合に、保護が適用されます。

【支給される保護費】厚生労働大臣が定める基準で計算される最低生活費と収入を比較して、収入が最低生活費に満たない場合に、最低生活費から収入を差し引いた差額が保護費として支給されます>

現在の生活保護法の原点は敗戦後に占領軍GHQが創った。当然、狙いは「二度と戦争できない国にする日本弱体化」である。1946年10月1日より施行されたGHQ製「旧・生活保護法」を改めたのが1950年5月、現在の「改正生活保護法」は2014年7月より施行された。百科事典マイペディアから。

<2013年12月、1950年以来の全面見直しとなる生活保護法改正が国会で成立。生活保護の引締策と生活困窮者への支援策をセットにした改正生活保護法と生活困窮者自立支援法の同時成立である(自公賛成、民主欠席)。

改正生活保護法では、増え続ける受給者の引締策として、不正受給の罰金をそれまでの〈30万円以下〉から〈100万円以下〉に引き上げる。受給手続きも見直され、申請者に扶養義務のある家族がいて扶養可能とみられるのに応じない場合、自治体が家族に説明を求めることができる。

一方受給者への自立支援策として〈就労自立給付金〉を創設。これまでは働いて収入を得ると、その分の保護費が減額されるが、新制度では収入の一部を積み立てたとみなし将来保護から抜けた時に現金で渡す。改正生活保護法は2014年7月より施行。

あわせて成立した生活困窮者自立支援法は生活保護に至る手前の支援に重点を置く。自治体に対し、生活に困る人から幅広く相談を受ける窓口を設置し本人と話し合って自立に向けた計画を作る、といった取り組みを義務づける。離職して住まいを失った人への家賃補助も制度化する。施行は2015年4月。

しかし改正生活保護法については批判も多く、扶養義務の照会強化などについて日本弁護士連合会は〈保護申請を萎縮させる効果を及ぼし重大な問題がある。成立は遺憾〉と批判する会長声明を出している>

アカに牛耳られた日弁連が嫌うのだから改正生活保護法は善政に違いない。

ブリタニカ国際大百科事典では、改正生活保護法で「保護費用の負担率は、国が保護費と保護施設事務費および委託事務費については4分の3、保護施設の設備費については2分の1を負担し、残りは都道府県および市町村により一定比率で支弁する」とある。

支弁する=金銭を負担する、ということだろう。小生の記憶では改正生活保護法以前は、市町村で市長などが選挙戦を有利にするために、地元負担がない「生活保護/生保」のバラマキ福祉をしていたようだ。腹が痛まないから市町村では生活に困った相談者に積極的に生保を勧めていたらしい。生保=票だ。まるで「無差別大量生保じゅうたんバラマキ」作戦、これでは国家財政がもつわけない。

「福祉国家」は耳に聞こえは良いが、亡国を招きかねないクスリ≒リスクになりやすく、そうなる前に制度の見直し、出直しが必要ではないか。次号でも考えたい。
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