先日、猫友のお家の梅園で
梅をちぎったり、拾ったりさせていただいた。
周囲を山々に囲まれたその梅園は、
近くに畑や田んぼもあり、
かつては、そこで一家の食が完結していたであろうことを想像させる場所でした。
朝、3時起きで、
色々やってからの梅ちぎりでしたが、
梅の力か?疲れない。
ずっと中腰、低い姿勢だけど、
雨露のついた葉っぱや梅の棘を避けたり、
完熟した梅を目で追い、
木々の梅を見上げとしていると、
とても元気になった。不思議。
海も山も、
自然ってすごいですね。
その梅の山で遊んだ日。
秋口の頃のお仕事の話をいただき、
鹿児島市内の発達支援の事業所さんに
お邪魔させていただいた。
帰り際、事業者さんのスピリッツになっているという本をお土産にいただいた。
少しずつですが、読んでいる。
どんな子どもにも、
その小さな世界で精一杯に生きようとする能動性がある。
それが周囲の人から認められたと知ったときに、
その子どもは自分の活動の充実にとどまらず、
社会に対して眼を向けはじめる。
適応させる社会性ではなく、
子ども自身の内から生まれる社会性である。
遠い未来の不安のために、
いま子どもにとって必要なことを
おろそかにしてはならない。
たった2章読んだだけなのに、
どの言葉にも胸を打たれる。
今はたくさんの情報があり、
育てにくいお子さんを育てていても、
情報を大袈裟ではなく、
世界中からかき集めることができる。
情報は取りに行くのが当然、と
言われる世の中だ。
そして、
子育てであったり、
ふとした日常の心のさざなみも
情報の海の中に流してしまえる。
私が何かの情報を見ているときに、
見知らぬ人ではあるのだけれど、
子育ての嬉しさや喜びと共に、
苦しさや辛さが流れてくることがある。
ああ、
その情報が流される近くで、
しんどい親子の人たちに、
あれやらこれやら、やってみては…、と
思うものの、
子どもの生まれ持ったものや
生活の背景がわからないので、
何か言う術を私は持たない。
でも、
あれをやってみたら、の「あれ」や
これをやってみたら、の「これ」の
すごい技術、術があっても、
お子さんをしっかり見て、
愛おしいと思い、
その子の生きる道を豊かにと思う
眼差しに勝てるものはないと思います。
どんなに身体をみることに長けていても、
その技が受け手に伝わらない。
役に立たないことがある。
身体を見ることや技と同等に、
場合によってはそれ以上に大事なことがある。
そんなことを考えさせられた、
一冊になりそうです。