猫の母さんをやっておりますと、
一日留守をすると一日分の猫の母さんとしての仕事が積み残されます。
我家の積み残しはお漏らしする桜の漏らしたタオル類です。
本日、通常の洗濯以外で、2回の洗濯機-乾燥を回さねばならないようです。
がんばれ、洗濯機!
昨日の熊本でのコンディショニング講座は素晴らしくて、
今日も身体は絶好調です。
ところで、私が実技でペアを組んだ方は、
栗本さんが言われたことをパッと体現されて、
わー、身体が器用だし、身体のセンスがある方だなぁと思い、
実技の合間の休憩中にそんな話をしたとこと、
「私、モローが残っていて云々」ということを話されました。
また、講座終了後に、
鹿児島での栗本さんの講座にも足を運んでくださった方がいらっしゃって、
色々とお話をしていたら、
「私は恐怖麻痺反射が強いので…云々」とおっしゃる方がいらっしゃいました。
ピンとくる方は、ピンと來るこの言葉。
これは私も受講した発達支援コーチの中で頻繁に出て来る言葉です。
チェックリストでチェックして、自分はそんな傾向があるとかないとか。
身体を動かすことで、その身体の動かし方の苦手感から、そんな傾向があるとかないとか。
そんな傾向あるよね〜、くらいで留まる話だと私は受け止めていました。
でも、昨日お話した方々からは、
自分にそういう傾向がある、だから、子どももそれをもらっている…、と
子どもに対して、申し訳ないような、ご自身も辛そうな、そんな印象を受けました。
また、おそらく、講座を受講されたのでしょう。
どうやら、自分は恐怖麻痺が強い、でも、だから、どうしたらいいのか?
そこから先の自分自身のその傾向をどうしていけばいいのか、
子どもにそういう傾向を感じたとき、どうしたらいいのか、
そんなことを真剣に考えていらっしゃるのだけど、
それらを持て余していらっしゃるように感じました。
私自身は、教室や体験でお子さんたちと出会う中で、
「あ、この子は恐怖麻痺が!」とか「モローだ!」と思うことはありません。
正直にいえば、発達支援コーチを受講した当初は、
過去、支援員として出会った子どもたちや教室で出会った子どもたちに対して、
あ、この子はモロー傾向が強いな、この子は恐怖麻痺っぽいかな?と頭の中で思うことがありました。
でも、実際にお子さんたちと一緒に何かをやればやるほど、
体験で来てくださるお子さんに会えば会うほど、そんなことは考えなくなりました。
それは、目の前のお子さんが、
どう動くか、何をするか、何を考えるか、まったくわからない「生きている人」だし、
私ではない、他人だからです。
チェックリストなんて、頭に入れていたとしても、
そのチェックは誰からの目線でするのでしょうか。
例えば、初めての場所でかたまる、動かない、として。
そんなお子さんに困るのは、どこかに連れて行こうとする親目線です。
お子さんからすれば、ちょっと状況見させてね、かもしれません。
大人本人がチェックしたとしても、気分が乗らなければ動かないかもしれないし、
初めての場所でも、動くとき、動けないときの差だってあるかもしれません。
他にももっと、色々考えられることはあると思います。
そんな、色々を一切無視して、
状況を平板にして、直感で選んでね!というのが、
発達支援コーチでやったチェックリストです。
でも、そこにあらわれた「傾向」として語られることは、
講座の時間を通して、まるで「自分自身」のように感じてしまうのでしょう。
よーく考えてください。
何十年も生きてきて、時間で考えると、たった十数時間、
日数だと、トータルで一日二日で突如出現した「私の傾向」「子どもの傾向」
そんなところではじき出された傾向に振り回されるのは、
バカげているなぁ〜と私は思うのです。
大ざっぱな傾向云々よりも、昨日の栗本さんの講座のように、
丁寧に自分の身体と向き合って自分の軸をつくることや
お子さんのひとつひとつと向き合って、試行錯誤することが大事なのではないでしょうか。
それにしても、一度言葉になったものは、
案外、人を縛り付ける重いものになるのだなぁとつくづく感じることでした。
そして、そんな言葉の呪縛のような講座は、
はたしてどうなんだろう、と初期の創始者(?)の講座しか受けたことがない私は思ったのでした。
コピーはすればするほど、劣化します。
安定した、安心した味わいの元には、
それを受け継ぐ人たちの並々ならぬ重圧の中と責任が伴っているものだと思います。
ま、それも、創始者が自身が己が作ったものに対して、
並々ならぬ責任と愛情と思いを持っていればですけどね〜。
一日留守をすると一日分の猫の母さんとしての仕事が積み残されます。
我家の積み残しはお漏らしする桜の漏らしたタオル類です。
本日、通常の洗濯以外で、2回の洗濯機-乾燥を回さねばならないようです。
がんばれ、洗濯機!
昨日の熊本でのコンディショニング講座は素晴らしくて、
今日も身体は絶好調です。
ところで、私が実技でペアを組んだ方は、
栗本さんが言われたことをパッと体現されて、
わー、身体が器用だし、身体のセンスがある方だなぁと思い、
実技の合間の休憩中にそんな話をしたとこと、
「私、モローが残っていて云々」ということを話されました。
また、講座終了後に、
鹿児島での栗本さんの講座にも足を運んでくださった方がいらっしゃって、
色々とお話をしていたら、
「私は恐怖麻痺反射が強いので…云々」とおっしゃる方がいらっしゃいました。
ピンとくる方は、ピンと來るこの言葉。
これは私も受講した発達支援コーチの中で頻繁に出て来る言葉です。
チェックリストでチェックして、自分はそんな傾向があるとかないとか。
身体を動かすことで、その身体の動かし方の苦手感から、そんな傾向があるとかないとか。
そんな傾向あるよね〜、くらいで留まる話だと私は受け止めていました。
でも、昨日お話した方々からは、
自分にそういう傾向がある、だから、子どももそれをもらっている…、と
子どもに対して、申し訳ないような、ご自身も辛そうな、そんな印象を受けました。
また、おそらく、講座を受講されたのでしょう。
どうやら、自分は恐怖麻痺が強い、でも、だから、どうしたらいいのか?
そこから先の自分自身のその傾向をどうしていけばいいのか、
子どもにそういう傾向を感じたとき、どうしたらいいのか、
そんなことを真剣に考えていらっしゃるのだけど、
それらを持て余していらっしゃるように感じました。
私自身は、教室や体験でお子さんたちと出会う中で、
「あ、この子は恐怖麻痺が!」とか「モローだ!」と思うことはありません。
正直にいえば、発達支援コーチを受講した当初は、
過去、支援員として出会った子どもたちや教室で出会った子どもたちに対して、
あ、この子はモロー傾向が強いな、この子は恐怖麻痺っぽいかな?と頭の中で思うことがありました。
でも、実際にお子さんたちと一緒に何かをやればやるほど、
体験で来てくださるお子さんに会えば会うほど、そんなことは考えなくなりました。
それは、目の前のお子さんが、
どう動くか、何をするか、何を考えるか、まったくわからない「生きている人」だし、
私ではない、他人だからです。
チェックリストなんて、頭に入れていたとしても、
そのチェックは誰からの目線でするのでしょうか。
例えば、初めての場所でかたまる、動かない、として。
そんなお子さんに困るのは、どこかに連れて行こうとする親目線です。
お子さんからすれば、ちょっと状況見させてね、かもしれません。
大人本人がチェックしたとしても、気分が乗らなければ動かないかもしれないし、
初めての場所でも、動くとき、動けないときの差だってあるかもしれません。
他にももっと、色々考えられることはあると思います。
そんな、色々を一切無視して、
状況を平板にして、直感で選んでね!というのが、
発達支援コーチでやったチェックリストです。
でも、そこにあらわれた「傾向」として語られることは、
講座の時間を通して、まるで「自分自身」のように感じてしまうのでしょう。
よーく考えてください。
何十年も生きてきて、時間で考えると、たった十数時間、
日数だと、トータルで一日二日で突如出現した「私の傾向」「子どもの傾向」
そんなところではじき出された傾向に振り回されるのは、
バカげているなぁ〜と私は思うのです。
大ざっぱな傾向云々よりも、昨日の栗本さんの講座のように、
丁寧に自分の身体と向き合って自分の軸をつくることや
お子さんのひとつひとつと向き合って、試行錯誤することが大事なのではないでしょうか。
それにしても、一度言葉になったものは、
案外、人を縛り付ける重いものになるのだなぁとつくづく感じることでした。
そして、そんな言葉の呪縛のような講座は、
はたしてどうなんだろう、と初期の創始者(?)の講座しか受けたことがない私は思ったのでした。
コピーはすればするほど、劣化します。
安定した、安心した味わいの元には、
それを受け継ぐ人たちの並々ならぬ重圧の中と責任が伴っているものだと思います。
ま、それも、創始者が自身が己が作ったものに対して、
並々ならぬ責任と愛情と思いを持っていればですけどね〜。