日曜日は午後、花風社の25周年記念で、ニキ・リンコさんの『モンダイな想像力』の無料読書会が行われました。
この本の中ではおそらく一般とは違う想像力の方向性で起こるニキさんのエピソードが多く語られています。
そんなエピソードを取り上げられながら、浅見さんが問題提起されました。
くすっ、と微笑ましくはあるエピソードを生む『モンダイな想像力」は、果たしてそのままで良いのか、と。
本人はそのあまり現実的ではない「想像力」が不自由ではないのか?不自由ならば、どうにかしてあげた方がいいのか?と。
色々な意見が出ていました。
それを聞きながら、色々考えていました。
ある同じものを見たり、同じエピソードを聞いてもその捉え方、思考の仕方は、たぶんみんな違って、バラバラでしょう。
ある人は個人の持つ深い知識や知見に基づいて、更に深い見方や考え方ができるし、表面だけ見て物事の核心に至らない人もいるでしょう。
そして、また、内容のごく一部のことや言葉に引っ張られて、「何で今、そんなこと考えたの⁉︎」ということになるのでしょう。
焦点は、そこじゃない。
でも、「焦点はそこじゃないと思う」と仕事なら伝えられるし、友人だとしてもその場で「え?そこ?」と突っ込んで話して解消ができる。
時間は有限で命も限りがあるのだけど、生き死にに関わらなければ、それでいいのではないか…。
そして、こうして本になるなどしていないだけで、個々人の想像力も共感度が高いものも低いものも混在している気がするなぁなどと考えることでした。
でも、一方で本当に煩わしく、煩わしいだけでなく、他人の人生に介入し、台無しにする類のモンダイの想像力があることは、世間を震撼させた様々な事件から垣間見ることができます。
それらの事件を聞くとやはり「どうにかならなかったのか?」と強く思います。
そして、私が関わっていた子の中にも突拍子もなく、実行したら周囲が悲しむことを真顔で言う子がいました。
親御さんは小さい頃から突拍子もないその子の言動に慣れているのか「ああ、またか」という感じでした。
その突拍子もない生活の記録を読んだ担任は呼び出して説教をしていました。
私はたぶん、学校の中でその子と一番接する時間が多かったので、その子がそういう冗談を言うような子ではないと思い、突拍子もないことを実行した場合に起こるであろうことを淡々と話しました。
その子はびっくりして、「えっ⁉︎」と言って「じゃあ、やめます」と言ってその話は終わりました。
ニキさんの本を初めて読んだときに、真っ先にそのことを思い出し「ああ、モンダイの想像力だったのかも」と思いました。
変な暴走が偶然、止められたら良いですがそうもいかないこともあるでしょう。
そして、「想像力」というものすごく個人の範疇のものに「それはちょっと…」という線引きをひくきっかけはなかなかなく、
その想像力が問題となるときは、たぶん、「時すでに遅し」の場合がほとんどでしょう。
では、ユーモア、ユニークで済む想像力に踏みとどまるにはどうしたらいいか、と考えると、やはり、頭と体を一致させておくことは大きいのではないかな、と思うのです。
私の限られた範囲の関わった子どもたちは、例外なく、体が思うように使えていませんでした。
単に走ったり飛んだり、体育の授業がとんでも無く不得意なだけではなく、体が疲れやすく、不調が多く、姿勢の維持も大変な子もいました。
また今考えると姿勢が良すぎる子もいました。
そんな子たちは「ん?」とこちらが思わぬ言動をする子たちが多く、私は単純に「運動で不思議な動きをする子は言うことも不思議だなぁ」と思っていました。
でも、たぶん、そうなのかな、と今は思います。
想像力の全てがモンダイではない状態にするには、外で遊び、体を自分の意のままに使え、感じる感覚を育てていくことが大切なのではないかなぁとぼんやり思った時間でした。